【短編小説】芙蓉の花の香~鳥山検校と瀬川②
「よく来たね」
私は満面の笑みで瀬川だった女を迎えた。
ふっ、と動いた風が、彼女が頭を下げたことを教えてくれた。
「旦那様。末長うお頼み申します」
以前と変わらぬ低く落ち着いた声だが、廓言葉ではないところが実に新鮮だ。
「こちらこそ、宜しく頼むよ」
私は彼女の名を呼ぼうとして――その名を知らぬことにようやく思い至る。
「あっ……そういえば、お前の本当の名を聞いていなかったね」
私の言葉に、彼女は「ふ」と小さく笑った。
そして、
「昔の名前は忘れたので、好きなように呼んで下さいまし」
さらりとした声で、そんなことを言う。
私は考えに考えた末、彼女のことを「およう」と呼ぶことにした。
私は、おようを迎えるにあたり、万全の体制を整えた。
まず、彼女が住まう部屋を改装し、そこには方々から取り寄せた上質な家具や置物を贅沢に並べ立てた。
――花魁だった女だ。下働きの者に何かと世話をしてもらうのが当たり前であっただろう。
そう考えた私は、彼女の世話をする品の良い奥女中を新たに雇い入れた。
そしてこの日。呉服屋と小間物屋に店で一番のものを持参させ、広間一杯にその品々を並べさせたものだ。
広間に入ったところで、おようの足が止まった。
「あ……」
戸惑ったような小さな吐息に、私は優しく彼女の背に手を回す。
「気に入ったものがあれば、遠慮なく言いなさい。全部買ってあげるよ」
私の言葉に、おようは無言だった。
やがて、おようの身体から、以前感じたあの冷淡な香りが漂ってきた。
――吉原で贅を尽くした贈り物をした時と同じ種類の冷たさだ。
「……っ」
戦慄した私に、おようは「ふ」と物憂げに息をついた。
そして、
「このような品は要りません」
きっぱりと、はねつけてきた。
「何故かね?店の者には選りすぐりの物を持って来させたのだよ」
私は心に渦巻く動揺を押し隠して、落ち着いた声音で問い質した。
おようは小さく笑って、こう言った。
「もう着飾るのは、こりごりです」
「!」
私は息を呑んだ。
そして、今更ながらに思い当たる。
おようだって、他の遊女たちと同じく、自ら好き好んで吉原という苦界に身を投じたわけではないことに。
「およう。では、お前が欲しいものは何だね?」
私は掠れた声で、初めておようの意思を尋ねた。
すると、おようは、ふっ、と優しく華やいで、
「当たり前の女の暮らしです」
とだけ、言った。
その言葉の通り――。
おようはここでの暮らしに慣れてくると、炊事や洗濯、掃除に針仕事など、それこそ他の者に任せておけばよいようなことをやりたがった。
たすき掛け姿で下男下女に混ざって働くその様に、遂に私は小言を口にした。
「およう、いい加減になさい。お前はそのようなことをしなくてもいいんだよ」
すると、おようは、ふわっ、と優しい匂いをさせて笑う。
「吉原から出たら、やりたいと思っていたんです。やらせて下さいな」
「……」
私は面食らって二の句が告げなかった。
当代一の花魁・瀬川がこんなことに憧れていたとは、思いもよらなかったのだ。
おようが充実した毎日を過ごしている一方、彼女から何も求められないままの私は複雑な思いだ。
だってそうだろう。鳥山検校ともあろうものが、手に入れた女に何もしてやれないとは、あまりにも情けない話ではないか。
――さて、どうしたものか。
私は腕を組んで、大いにこの禿頭を悩ませる。
全く、金にも贅沢にも靡かない女は厄介だ。
考えに考えた末、私はおようを江戸の名所に連れ出すことにした。
今時分だと、丁度梅が見頃を迎える筈だ。ならば、亀戸の天満宮辺りか。
果たして。
おようは、喜んでついてきた。
「旦那様!早く早く!」
いつもの彼女とは打って変わったはしゃぎように、私は大いに驚いたものだ。
よくよく考えてみれば、おようは長いこと吉原の籠の鳥だった女だ。
そんな彼女にとっての江戸の名所は、噂で聞く程度のものだったろう。
――もっと早く気づいてやるべきだったか。
私はおように手を引かれながら、自らの迂闊さを率直に恥じている。
「まあ……梅が沢山。なんて奇麗……」
おようの唇から素直な感動が漏れる。
そして、
「旦那様。ここに赤い梅が沢山咲いています」
おようは私の手を取ると、そっとその花に触れさせてくれた。
おようはそんな風にして、咲き誇る梅の美しさを目の見えぬ私に精一杯伝えてくれた。
――なんてことだ。
私は、ふと口元に笑みを乗せる。
そもそも、今日はおようを喜ばせたくてここに連れて来たというのに、これでは全くもってあべこべではないか。
「およう」
「はい」
「全く……お前は、何という女なのだ」
私は、おようの手を強く握りしめた。
おようと共に過ごす何気ない日々は、私を少しずつ変えていった。
この世は金と思い定めたこの心が、いつの間にか金では買えぬもので満たされていく。
「検校様。お顔付きが大分お変わりになりましたね」
たまに顔を合わせる大尽にそんなことを言われ、私は大いに照れたものだ。
だが。
そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。
私は、「暴利をむさぼり、悪辣非道な取り立てを行った」との咎で、官金を営んでいた他の検校たちと共に捕らえられたのだ。
我々の後ろ盾だった筈の幕府の突然の掌返しに、私は怒りで身体を震わせた。
――散々我々のやり方を見逃してきたくせに、今更罪に問うとはどういうことだ!
そして私は、築き上げた全財産と検校の地位を取り上げられ、江戸からも追い払われることになった。
幕府の役人からは、落ち着き先が見つかるまでの当座の資金として、金3両を握らされた。
だが――私には、それは体の良い手切れ金としか思えなかった。
「……っ」
私は、突き上げる感情をどうにか奥歯で噛み殺し、ただ深々と首を垂れるより他になかった。
私はふらふらと江戸の町をゆく。
よれよれであちこち薄汚れたみすぼらしい盲人に、江戸の町は冷たかった。
――これが、あの鳥山検校のなれの果てか。
何処からともなくそんな嘲笑が聞こえた気がして、私は力なく崩れ落ちた。
そんな私の鼻に、ふわっといい香りが届いた。
「旦那様!」
おようの声だ。
「およう――およう!」
私はその名を呼びながら、声のした方に震える手を伸ばす。
やがて、優しくたおやかな手が、私の腕を掴んだ。
「ああっ、旦那様……なんておいたわしい」
おようは悲痛な声を上げると、私の額をそっと拭ってくれた。
「およう、およう……私は……」
私は、壊れそうな心を剥き出しに、我知らず彼女にしがみついていた。
「大丈夫ですよ、旦那様……大丈夫」
おようは、そっと私の身体を抱き締めてくれた。まるで幼子をあやすような、優しい声音で。
おように抱き締められながら、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
――おようだけは、守らなくては。
私はごくりと唾を飲むと、役人に押し付けられた金をおようの手に押し込んだ。
「旦那様、これは――?」
戸惑うおよう。
「およう。ここに、3両ある」
私はおようの腕を掴むと、万感の思いを込めて彼女の方へと顔を向けた。
「お前は自由だ。何処へなりとも好きな所に行きなさい」
この時、私の脳裏には、瀬川だった頃の彼女が時折見せていた、あの物憂げな吐息が蘇っていた。
――およう。お前には、好いた男が居たのだろう?その男の所に行って、どうか、幸せに――。
「……嫌です」
おようの、振り絞るような声。
「えっ」
私は見えぬ目を見開いた。
「私は、この江戸に身寄りもなければ、何処にも行くところなんかありません――旦那様。私も連れて行って下さい!」
普段のおようからは想像もつかぬ程、その言葉は力強いものだった。
私は、この頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「だけど……だけど、およう。私は全てを失ったし、江戸からも追い出されたんだよ。私はただの惨めな盲人で、お前に何もしてやれない――この先、お前に迷惑しかかけないような男なんだよ」
私は、戸惑いのままにうろうろと言葉を繋いだ。
――私は、おようの足手まといにはなりたくない……。
おようは「ふ」と小さな息をつくと、ぱっと華やいだ。
「迷惑だなんて、そんな。この先どうなろうとも、二人で居れば、何とかやっていけます」
おようのこの一言は、私の心に沁みた。
「ああっ……!」
私の盲いた目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
おようは、こんなにも深い心で、私を見ていてくれたのか。
おように背中をさすられながら、私は確信する。
ああ、おようはやはり、芙蓉の花だ。
陽の光を存分に浴びて、悠然と空へと顔を向け、大きな花びらを広げて美しく咲き誇る。
それが、おようという女の有り様なのだ。
江戸を離れた私たちは、やがてとある宿場町に行きついた。
私は得意の三味線を片手に旅籠を回り、おようはその宿場随一の旅籠の女中として働き始めた。
花魁だったおようは芸妓としても十分やっていけるのだが、彼女はそれを望まなかった。
やはり「着飾るのはもうこりごり」ということなのだろう。
私たちの住まいは、宿場の外れにある粗末な東屋だ。
時々酒を買って、おようが作ったつまみを肴に一杯やる。それが今の私のささやかな楽しみだ。
「ねえ、およう。鳥山検校とは一体何だったんだろうねえ」
ほろ酔い気分の私は、我知らずそんなことを呟いた。
「そうですねえ――」
おようは、ふっ、と息をつく。
そして、こくり、と酒を喉に流す音。
「お前様が鳥山検校様でなかったら、私はきっと、今も吉原に」
「そうか。……では、悪名高い鳥山検校も、少しは良いことをしたのかな」
おようの言葉に、私はしみじみとした笑みを浮かべた。
「それにしても、こんなところに鳥山検校と瀬川が腰を落ち着けているとは、誰も思うまいよ」
「ふふ。私たちだけの秘密ですね」
私とおようは、秋の虫が恋の歌を奏でる様を聞きながら、穏やかに笑顔を交わし合った。
終わり。
