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『不思議の国のアリス』受容の系譜 安部公房・村上春樹・『ONE PIECE』

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 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』は、題名の通り摩訶不思議な物語である。ネット上の感想も、不可解さに戸惑うものが多いらしい。しかし文学とは、認識するのではなく味わうものではなかったか。

 小説の言語は、連想効果を利用して既存の言語に独自の意味を付与させることで成立する。ただしそうして作られた意味の体系や、読者の解釈による意味と、(作者を含む)鑑賞者を沈黙させる美は別物であろう。

 では読者による解釈はどのようにして生まれるのか。小説を読むという行為は、細部に拘泥するだけでは成立しない。まず作品全体に対する、知的な理解に先立つ直観(ハイデガーはこれを「先了解」と呼んだ)があり、その感覚を確かめるように読者は細部を読み、全体像を鮮明にしていく。このような解釈学的循環の構造があると言える。小説を理解したいと思うのならば、理解しようと思ってはならない。待つことが肝要である。細部を全体に結びつける構造は、作品がおのずと我々に教えてくれる。現に僕はこのようにして小説を読んできた。

 しかし、それにしても『アリス』は難解である。この一見ナンセンス(無意味)な物語を通して、キャロルは何を伝えたいのだろう。序盤で語られるウィリアム一世の征服譚は恐らく、アリスがドードーからゆびぬきを授与されることの説明になっている。ゆびぬきは王冠に相当する。レースのごほうびとして、アリスが鳥や獣たちにあげるボンボンは、恩賞としての土地を言い換えたものなのだろう。ウィリアム一世は、サクソン貴族がかつて支配していた土地をノルマン人の家臣に与え、封建制を確立した。この場面の直前、ネズミと出会いアリスはこのようなことを考えている。

「たぶん英語がわからないのね」とアリスは思ってね、「きっとフランスのネズミで、ウィリアム征服王といっしょにわたってきたんだ」(歴史の知識を総動員したって、アリスには何がいつごろ起ったかなんてまるであやふやだった)

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』矢川澄子訳
新潮文庫、平成六年、三十三頁

 この点だけはかろうじて理解できた。メアリー一世を彷彿とさせるハートの女王(もしそうならば王はフェリペ二世?)など、イギリスの歴史に関係がありそうな要素は他にも散見されるが、どうも確信が持てない。それ以外に至ってはサッパリだ。既存の研究で指摘されてきた通り、当時の児童教育の風刺という側面はあるに違いないが。

 フロイト流の精神分析の対象としても読まれてきたというけれど、僕はそういった解釈をあまり好まない。他にも神話学や人類学、批評理論など、人文学上の概念を機械的に物語に当てはめたところで、作品の地層なり表面なりを読むことはできたとしても、作品を読んだことになるのだろうか。精神分析は、読解を補助する道具のうちの一つという程度にとどめておくべきだろう。

 一読した程度で理解できると思うほど、僕は『アリス』という物語を舐めてはいない。ただしどうしても手掛かりが見つからないので、『アリス』に影響を与えた作品との関係から考え直すという野蛮を犯してみることにする。

 僕が『アリス』を読もうと思ったのは、村上春樹の作品の中でたびたび言及されている(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『騎士団長殺し』)ほか、安部公房の芥川賞受賞作「壁―S・カルマ氏の犯罪」にも影響を与えていると考えられるからである。Wikipediaによると安部公房は、一九八〇年十一月に中野孝次との対談「カフカの生命」において、カフカよりもキャロルの影響が強いと述べているという

 なるほど確かに「S・カルマ氏の犯罪」は、不条理であるだけでなく、『アリス』同様ナンセンスな作風である。「ぼく」は朝起きると、自分の名前を思い出せなくなっている。職場の事務所にたどり着き自分のデスクを見てみると、そこには「もうちゃんと別なぼく」、「S・カルマ氏」という名刺が座っていた。「ぼく」は「S・カルマ氏」の出現によって居場所を追われ、自分自身を見失ってしまう。ところで『アリス』でも、主人公は自分が何者か分からなくなっている。

「やれやれ、今日はなんておかしなことずくめなんだろう。きのうは全然いつものとおりだったのに。ひょっとして夜のうちにあたしの方が変っちゃったのかな。いいこと、今朝おきたときはまえとおんなじだったかしら。そういえばちょっぴりちがってたような気もする。だけどもし、ちがっていたとして、だったら次の問題は、いったい全体あたしはだれなのかってことよ。ああ、なんてややこしい!」そこでアリスは、自分とおない年の知りあいの子供たちをのこらず思いうかべ、そのうちのだれかと自分が入れかわったのではないか考えてみた。

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』矢川澄子訳
新潮文庫、平成六年、二十八・二十九頁

 作中でマルクスの名が挙げられることからも察せられる、近代的個人の疎外というテーマを、安部は『アリス』のある意味実存的な不安の描写から導き出したと考えられる。これをさらに換骨奪胎したのが村上春樹である。

 「S・カルマ氏の犯罪」では次のような論が「せむし」によって説かれる。地球が球体であることが常識である現代においては、「世界の果という概念」は、個々人の部屋の「一点に凝縮してしまった」。ただし球体の特性上、そのちょうど裏側(北極における南極がそうであるように)を発見してようやく、「弁証法的統一」としての「真の世界の果たりうる」のだという。アリスはうさぎ穴を落下し続けながら、「このまま地球をつきぬけちゃうのかしらん?」と考え、「地球の正反対側」について思いを馳せていた。これを哲学的に味つけしたものに違いない。

 読者諸氏はここで、諸々の要素が村上作品に繋がってくることにお気づきになることだろう。僕の気付いた限りでは、『羊をめぐる冒険』や『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』において、「凝縮」という馴染みのない独特の表現が見られた。かなり昔に読んだ長編もあるので、読み返すとこれらの他にもあるように思われる。「S・カルマ氏の犯罪」と村上作品の関係については他にも指摘できる要素があるのだけれども、春樹は現役の作家のため、言及はこの程度にとどめようと思う。とにかく彼は『アリス』-「S・カルマ氏の犯罪」という系譜を意識的に引き継いでいるということだ。

 村上作品定番の「井戸」は、フロイトの「イド(id)」であると同時に、アリスの落ちていくウサギ穴でもあるのだろう。『アリス』の訳者である矢川澄子は巻末の解説にて、「かたちからいえばどうやらトンネル、というより空井戸か、むしろ竪坑に近」いと述べている。竪坑と聞くと、漱石の『坑夫』を連想する。確か『海辺のカフカ』あたりで言及されていたはずだ。

 また矢川は、アリスが地下に落ちていくさまをエレベーターに例えている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が始まるのは、主人公がエレベーターの中にいる場面からだ。あまりに長い間エレベーターに乗っているので、上昇しているのか下降しているのか分からなくなっていく。アリスが落下する時の独特の感覚を、見事に言い換えて再現している。

 アリスは穴を落ちるきっかけになった白うさぎを見つけ、追いかける。うさぎとの距離は近づいていたにも関わらず、通路の角をまがるとどこにも見えなくなっている。村上作品でよく言い換えられ、『ONE PIECE』にも受け継がれている一場面だ(次の動画の03:00〜で指摘している)。

 『アリス』は主人公の見ていた夢であり、様々な事物が現実の反映であったことが、物語の末尾において示される。村上作品では一貫して、夢と現実という二つの世界が照応している。尾田栄一郎はそれを踏まえつつも、現実を乗り越えんとする人類の想像力の奔流(悪魔の実の能力)を描き続けてきた。さて、意識の深層から帰還したアリスは、果たして「世界の果」にたどり着けたのだろうか?

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