喫茶店の女神と、魔の巣のサンタナ。最北端前夜の熱狂
知床のサバイバルから生還した翌朝。
士別のベースキャンプで目覚めると、そこには昨日の嵐が嘘のように穏やかで、透明な時間が流れていました。 小鳥のさえずりと、湖面を渡る風の音だけが聞こえる世界。
使い込んだオプティマスのコンロを取り出し、ポンピングをしてプレヒート。 シュゴーッという頼もしい燃焼音と共に湯を沸かし、濃いめのコーヒーを淹れます。 そして、紫煙をくゆらせる。 コーヒーの苦味とタバコの煙。当時の僕にとって、これぞ「大人の男の旅の朝」を象徴する神聖な儀式でした。 肺いっぱいに吸い込む北海道の凛とした空気とニコチンが、昨日の峠越えの疲れを心地よく麻痺させていきます。

「さて……そろそろ士別へ出向くか」
目的? もちろん、旅の物資補給です。ガソリンとか、食料とか、乾電池とか。 決して、あの喫茶店に行きたいとか、あの笑顔に癒やされたいとか、そういう不純な動機がメインではありません。 ……多分、いや、絶対そうだ。 自分への言い訳を完了し、僕はRZのキックペダルを踏み下ろしました。
女神の「心配してたのよ」という破壊力
士別駅前に着いたのは、ちょうど昼時。 RZをいつもの場所に停め、吸い込まれるように「あの店」のドアを開けました。 カランコロン、というドアベルの音が、なぜか心臓に響きます。
「あら、久しぶりね!」
カウンターの中から、弘美さんの声が弾みました。 その声のトーンが、いつもより少し高い気がして、それだけで舞い上がってしまいます。 「顔見せないから、心配してたのよ」

ドキンッ!! 心臓が物理的に変な音を立てました。 「心配してた」。 このたった5文字の破壊力たるや、YPVS全開の加速Gをも遥かに凌駕します。 ヘルメットを脱いだばかりの顔が一気に火照り、耳まで赤くなるのが自分でも分かります。 「俺のこと、考えててくれたんだ……」なんて、22歳の脳内は一瞬でお花畑です。
「いやぁ、実は知床の方まで行ってまして……熊に出くわしそうになったり、大変だったんですよ」 照れ隠しに、知床での武勇伝(というか失敗談)を興奮気味にまくし立てました。 弘美さんは作業の手を止め、優しい笑顔で「うん、うん」と頷きながら聞いてくれました。 そして、ふと真剣な眼差しで僕の顔を覗き込み、こう言いました。
「あまり、無理しないでね」
……惚れてまうやろ。(当時の流行語ではありませんが、心境はまさにそれ) その母性にも似た優しさは反則です。 もうこのままここに住みたい。士別市民になって、毎日ナポリタンを食べたい。 そんな危険な妄想が暴走しそうになったその時、カランコロンとドアが開きました。
友人の提案、目指せ最北端
「よ〜っ!」 入ってきたのは、テストドライバーの友人でした。 正直、ホッとしました。あと数分二人きりだったら、何か取り返しのつかない恥ずかしいセリフを口走っていたかもしれません。
「お前、無事だったか。どうだ、明日は仕事が休みななんだ」 友人はニヤリと笑って、コーヒーを一口啜りながら続けました。 「ちょっと走らないか? 宗谷岬までさ」

宗谷岬。 日本のてっぺん。最北端の地。 ライダーならば一度は目指すべき聖地であり、旅のクライマックスとも言える場所。 「そのうち行こう」と漠然と思っていましたが、地元の道を知り尽くした友人の先導で行けるなら、これ以上のチャンスはありません。
「行こう! 絶対行きたい!」 僕は食い気味に叫んでいました。 弘美さんへの未練も一瞬で吹き飛ぶ(失礼)、ライダーの悲しき性(さが)。 やはり僕にとって一番の恋人は、オートバイなのかもしれません。
「よし、決まりだ。今夜、バーで飲みながら計画立てようぜ」 「バー?」 「ああ、初日にこの店で会ったおじさんいただろ? あの人がやってる店だ」
「魔の巣」の宮地オサムと、哀愁のサンタナ
夜になり、友人に連れられてとあるビルの前へ。 看板を見て、僕はのけぞりました。 その名も**「魔の巣」**。 (某・笑うセールスマンが出てきそうな名前ですが、関係ありません。むしろ入ったら二度と出られないようなオーラがあります) 怪しさ満点のネーミングにビビりながら重いドアを開けると、そこは……意外にも、落ち着いた照明の居心地の良い空間でした。
そしてカウンターに立っていたのは、あのおじさん。 蝶ネクタイにベスト姿でシェイカーを振るマスター。 その風貌は、どう見ても**「殿様キングスの宮地オサム」**に瓜二つ。 今にも「なみだの操」をこぶしを回して歌い出しそうな、コテコテの昭和演歌顔です。

「いらっしゃい」 渋い声で迎え入れてくれたマスター。 しかし、店内に流れているBGMは演歌ではありません。 哀愁漂う泣きのギター、ラテンのパーカッション。 サンタナです。 しかも、『哀愁のヨーロッパ』から『ブラック・マジック・ウーマン』へと続く黄金の流れ。
「マスター、演歌じゃないんですか? 顔は演歌なのに」 失礼を承知で尋ねると、マスターはニヤリと笑いました。 「バカ言え、俺はロックしか聴かねえよ。魂(ソウル)はサンタナにあるんだ」
ギャップ萌え!! 宮地オサム(激似)が、サンタナについて熱く語りながらカクテルを作る。 北海道、奥が深すぎます。 この「魔の巣」には、旅の期間中、まさか入り浸ることになるとは、この時は知る由もありませんでした。
地図に描く最北への軌跡
ロック好きな演歌顔マスターが作るオリジナルカクテルを飲みながら、友人とカウンターで地図を広げます。 「いいか、ここから稚内を経由して、オロロンラインを北上する。信号なんてないぞ」 「海沿いは風が強いから気をつけろよ。横風で飛ばされるな」 友人の指が、地図上の北の突端をなぞります。

ここから最北端まで、往復数百キロ。 明日のルートを想像するだけで、血が騒ぎます。 店内に流れるサンタナの情熱的なギターサウンドが、僕らの冒険心をさらに煽ります。 「最北端か……どんな景色なんだろう」 地図上の「宗谷岬」の文字を見つめながら、僕は武者震いしました。
話は尽きず、気づけば時計の針は、とうに夜中の12時を回っていました。 「やべえ、明日早いのに! 盛り上がりすぎた!」 今からベースキャンプ(テント)に戻るのは時間的にも体力的にも不可能。 結局、友人が予約してあったいつものビジネスホテルへ転がり込むことに。 「テント泊で節約」という誓いはどこへやら。まあ、これも旅の成り行きです。
明日は、いよいよ日本の頂点へ。 稚内を抜け、宗谷岬を目指して突っ走る。 最北の風は、どんな匂いがするのだろうか。 ホテルのベッドに入っても、期待と興奮でなかなか寝付けない夜でした。
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