第17話
ガラス越しに見下ろす地下空洞は、じつに無様で、じつに美しい喜劇の舞台だった。
仕立ての良いスーツの袖口を軽く整えながら、私は手元にある古い通信端末のノイズに耳を傾けていた。眼下では、泥水と青白いアルコールの炎が混ざり合い、狂信者たちの無様な悲鳴が反響している。
「……ふむ。やはり、あの程度の『スープ』では、この街の澱みをすべて飲み干すには足りなかったか」
かつて高名な精神科医だったというあの男――カルトリーダーは、自らの顔半分を煮立たせながら、自慢の祭壇の上で見苦しくのたうち回っている。個の救済だの、大いなる還流だのと、もっともらしい言葉で飾ったところで、結局のところ奴の信仰はその程度のものだ。ほんの一音、境界を定義し直す「逆転写」の響きを混ぜられただけで、神の影を維持することすらできずに霧散させてしまう。
もっとも、あの場に「案内人」を遣わして、舞台に余計な刺激を与えたのは私の気まぐれだがね。
ガラスの向こう、崩落し始めた祭壇の頂から、一人の若い男――月城が、泥の繭から少女を力任せに引き抜くのが見えた。
佐久間結衣。あと数分もあれば、完璧な融解を迎えて主の肉体の一部になれたものを。だが、男の執念が、彼女の「個の輪郭」をギリギリのところで現世に繋ぎ止めたらしい。
弾の切れた拳銃を握りしめた刑事――阿久津が、怒号を上げながら月城を先導し、瓦礫の隙間を縫うようにして走り出す。少女を抱えた月城が、一度だけ、本能的な恐怖に突き動かされたようにこの制御室を見上げてきた。
暗闇とガラスの反射に阻まれ、彼らの安物のライトでは私の顔までは見えまい。
私はただ、彼らの必死な逃走劇を、劇場の特等席から見届けるように静かに見下ろしていた。
「まあいいさ。今回の『サロン・ンカイ』の実験は、これでひとまず計画書通りに幕引きだ」
端末を操作し、地下二階の研究室に残された不要なデータをすべて消去する。
リーダーの男は、日記や殴り書きに『血の色の狂信者ども』への愚痴をこぼしていたようだが、奴は何も分かっていなかった。この街の深淵は、スープのように生ぬるい融解だけで満たされているわけではない。肉体をそのまま生贄に捧げる、あの野蛮で苛烈な連中の領域こそが、次の舞台にふさわしい。
バタバタと遠ざかっていく二人の足音が、やがて完全に聞こえなくなる。
命からがら逃げ延びた彼らは、少女を救ったことに安堵し、一つの事件を解決したと錯覚するのだろう。
だが、彼らが持ち帰った『佐久間結衣』という個のなかに、どれほどの黒い澱みが残されているか。そして、この街の闇がどれほど深く、次の「血の惨劇」がすぐ近くまで迫っているか、彼らはまだ何も知らない。
「さて、私もそろそろ席を立とう。次の舞台の幕が上がる前に」
手元に残った予備の火炎瓶を、誰もいない制御室の床へと静かに転がす。
私はコートの襟を直し、燃え盛る地下の地獄に背を向けて、暗い連絡通路の奥へと足を進めた。
