見出し画像

第16話

 ズブブ……と、肉と衣服が溶け合うおぞましい音が、月城の両腕を伝って脳髄をかき乱す。
どれほど体重をかけようとも、泥の繭は底なしの沼のように佐久間結衣の身体を繋ぎ止め、現世へ引き戻そうとする月城の指先から、彼女の「輪郭」が容赦なく滑り落ちていく。
――間に合わない。
そんな絶望の冷気が背筋を駆け抜けた瞬間、さらなる地獄が顕現し始めた。
「おおおおおお……!」「ア、アア、還流、が……!」
未だ人の形を保ち、声を涸らして呪詛を唱え続けていた残りの信者たち全員が、一斉に天を仰いだ。彼らの両目、鼻、口から、沸騰した黒いタールのような粘液が勢いよく噴き出す。衣服を引き裂き、骨肉を文字通りスープへと変えながら、最後の十数人もまた、完全に巨大な粘液の塊へと変貌を遂げていく。
空洞内の粘液の総量が膨れ上がり、床を埋め尽くす黒い大波となって月城たちの足元を浚う。
だが、それは単なる前触れに過ぎなかった。
ズウゥゥゥン……!!
廃ビルの堅牢なコンクリート構造すらも紙細工のように歪ませる、圧倒的な「質量」が空間を支配し始める。信者たちが捧げた命、融解した肉体のすべてを苗床として、空洞の最奥、天井の崩落した闇の深淵から、それは音もなく滲み出てきた。
巨大な、あまりにも巨大な、実体のない暗黒の「影」。
丸々と肥大化した、おぞましい蟇蛙(ひきがえる)のようでもあり、あるいは無数の触手を身に纏った不定形の闇のようでもある姿が、ゆっくりと形を成していく。底知れない眠気と、触れただけで精神を狂わせる絶対的な神威――地下の深淵に蠢く黒き神『ツァトゥグア』の影が、いま正に現世へと顕現し始めていた。
カルトリーダーは顔の半分を融解させながら、勝利を確信して両手を突き上げる。阿久津は銃弾の尽きたリボルバーを握りしめたまま、その圧倒的な存在感を前に完全に身体を硬直させていた。息を吹き返したンカイの残滓たちが、顕現しつつある大いなる影の威圧を背に、月城と阿久津を今度こそ完全に「スープ」へと変えるべく、一斉に牙を剥く。
絶体絶命。人間の知恵も、バールも、洗剤も、もはや神の影の前には何の役にも立たない。
――誰もがそう確信した、まさにその刹那だった。
頭上、あるいは脳内のどこかから、あの『サロン・ンカイ』のフロントで聞いた、軽薄極まる男の声が再び響き渡った。
「――おや、随分と盛大に集まったねぇ。でも、混ぜすぎたスープは味がボヤけるものさ。『戻れ、境界の向こう側へ』」
男が発したその言葉は、それ自体が悍ましい響きを持つ、しかし信者たちの呪詛とは完全に「逆の波形」を持つ、奇妙な逆転写呪文(コード)だった。
響き渡る声とともに、空間の空気が一変する。
「……ガ、ッ!? アア、アアアアッ!?」
まず最初に悲鳴を上げたのは、カルトリーダーだった。彼の融解していた右顔面が、突如として激しい拒絶反応を起こしたように沸騰し、弾け飛んだ。
それだけではない。月城に迫っていたンカイの残滓や、信者たちの成れの果てである落とし子たちが、まるで強酸の海に投げ込まれたかのように、一斉に激しく身をよじり、藻掻き苦しみ始めたのだ。融解して一つに混ざり合おうとしていた「成分」が、逆転写の響きによって強制的に分離させられ、結合組織が内側から自壊を起こしている。
そして、天井に顕現し始めていた『ツァトゥグアの影』さえも、その巨大な質量を維持できず、苦悶するように闇の触手を激しくのたうち回らせ、実体化を拒まれてその輪郭を急速に霧散させ始めていた。
空間を支配していた絶対的な狂気が、ほんの一瞬、確実に瓦解した。
「……おい、月城ッ!!」
この決定的な好機を、歴戦の刑事が逃すはずがなかった。阿久津の鋭い怒号が、怪異たちの悲鳴を切り裂く。
「神様だか何だか知らねえが、向こうの足並みが狂ったぞ! ぐずぐずするな、その娘を引っ張り出せ! 撤退だッ!!」
「うおおおおおッ!!」
月城は最後の力を振り絞り、泥の繭のなかに腕を深く突き入れた。怪異たちの結合が緩んだおかげで、先ほどまであれほど重かった繭が、今度は劇的にその粘性を失っている。
ズ、ズブブブッ、と音を立てて、月城はついに、泥の深淵から佐久間結衣の身体を、その腕の中へと力任せに引き抜いた。
腕の中に確かな人間の重みを感じる。まだ、溶けきっていない。
「阿久津さん、確保しました!」
「よし、走れ! この場所ごと、全部ぶっ壊れるぞ!」
のたうち回る粘液の嵐と、崩壊を始めた地下空洞の瓦礫を背に、二人は結衣を抱え、狂気の本拠地からの命がけの脱出へと、一歩を踏み出した。

いいなと思ったら応援しよう!