第8話
二人は足早に旧下水道の分岐点まで引き返し、今度は右側の通路――旧市街北西の廃ビル街へと続く暗渠へと足を踏み入れた。
手に入れた簡易地図が示す通り、こちらの通路は先ほどのサロン側とは異なり、傾斜が緩やかに下っている。頭上からは地上の車の走行音が完全に消え失せ、代わりに不気味なほどの静寂が辺りを支配し始めた。
歩を進めるにつれ、通路の壁面に異変が現れる。染み出す黒い粘液の量が目に見えて増え、まるで壁全体が濡れた黒い皮膚のように脈打っているのだ。
「……月城、ここからはさらに警戒を上げろ。あのPCのファイルにあった通りなら、この先は奴らの言う『聖水』の濃度が一番濃い場所だ」
阿久津がライトの光を前方に固定しながら、声を潜めて言った。トレンチコートの裾が黒い泥水に浸かり、ピチャピチャと重い音を立てる。
「分かっています。あの案内人が言っていた『スープ』の意味が、ようやく繋がりました。彼らは信者の心だけでなく、肉体そのものをこの粘液に溶かして、一つの巨大な何かに変えようとしている。結衣はそのための……中心にされる」
月城はポケットの中の地図を指先でなぞりながら、脳内で廃ビルの構造を反芻した。
通路を突き当たると、頭上に古びたマンホールが見えた。地図によれば、ここが目的の廃ビルの地下搬入口に直結しているはずだった。
阿久津が慎重に鉄製のハシゴを登り、マンホールの蓋を音を立てずに押し上げる。二人がそこから這い出た先は、外の激しい長雨の音が不気味に響き渡る、広大な地下駐車場だった。
コンクリートの柱はひび割れ、何年も放置されたような廃車の列が、暗闇の中で巨大な墓標のように並んでいる。そしてそのすべての天井から、黒い粘液が長い糸を引いて滴り落ち、床に無数の黒い水溜まりを作っていた。
「……静かすぎるな。誰もいないのか?」
阿久津が周囲を油断なく見回す。
「まだここにはいないみたいですね。でも、油断はできません。地図によると、ここから地上階に上がって、建物の内部を通らないと『最深部への階段』にはアクセスできない構造になっています」
月城は手元に引き寄せた地図の配線図をライトで照らし、駐車場の隅にあるスチール製の重い防火扉を指差した。
「あの扉から、まずは一階の管理区域に出られるはずです。そこを抜けて中央階段を目指しましょう」
阿久津が頷き、ゆっくりと防火扉に手をかける。軋んだ音を立てて開いた先は、かつてオフィスか商業施設だったと思われる、荒廃したビルの一階ロビーだった。
窓ガラスはことごとく割られ、外の黒い雨が吹き込んで床を濡らしている。しかし、異様なのはその内装だった。オフィス用のデスクやパーテーションが不自然に片付けられ、代わりに黒いジャージの集団が使っていると思われる折り畳み椅子や、怪しげなセミナーのパンフレットが散乱している。
「……ここで信者どもを集めて、何かやってた形跡があるな」
阿久津が足元のパンフレットを爪先で小突く。
月城はロビーの奥へと続く暗い廊下を見つめた。壁には、あの下水道で見たものと同じ、何かが這いずり回ったような黒い粘液の筋が、まるで誘導線のように奥へと伸びている。
「阿久津さん、あそこ……中央階段へのルートです。でも、粘液の跡がかなり新しい。さっきの『掃除屋』みたいなのが、この上の階にも徘徊している可能性があります」
「フン、望むところだ。今度は最初から火の準備をしておくさ」
阿久津はリボルバーを構え直し、もう片方の手にいつでも着火できるようジッポライターを握り込んだ。
月城も拾った鉄パイプの重みを両手に感じながら、ブルゾンのフードの下で息を潜める。結衣が囚われている最下層へ辿り着くためには、まずはこの不気味な廃ビルの内部を、一歩ずつ慎重に進んでいくしかなかった。
「行きましょう。奴らの本拠地に、足を踏み入れます」
二人は息を合わせ、黒い雨と粘液に侵食された廃ビルの奥へと、静かに歩みを進めた。
