第15話
――間に合え、間に合ってくれ。
鼓膜を乱打する心臓の音が、死の呪詛を唱え続ける信者たちの合唱と重なり合っていた。月城の視界は、飛び散る黒い返り血と、青白いアルコールの炎の照り返しで、まともな色彩を失っている。
手を伸ばした先、佐久間結衣を包む泥の繭は、すでに彼女の衣服を、髪を、その肌の境界線すらも曖昧に溶かし始めていた。
「結衣……っ!」
月城は泥のなかに両手を突っ込んだ。触れた感覚は、もはや人間の肉体のそれではない。ぬるりとした、骨も筋肉も失われかけた「スープ」の冷たさが、彼の指先から脳へと恐怖を伝達する。衣服の繊維がドロドロと指の隙間から溢れ、掴んだはずの彼女の腕が、力を込めるたびに形を失って滑り抜けていく。
――融解が、終わる。
このままでは、彼女は本当に一個の人間ではなくなり、あの薄汚い天井から滴るヘドロの一部になってしまう。
「おのれ……よくも私の聖域を、還流を汚してくれたな……!」
階下では、狂乱したカルトリーダーが、これまでの理知的な仮面を完全に剥ぎ取って絶叫していた。男の顔面はすでに右半分が黒く崩れ落ち、自らの意志で沸騰するように泡立っている。
「邪魔をするなと言っているんだァ!」
激昂するリーダーの手から、凝縮された黒い粘液の弾丸が放たれる。
ガギィィィン! と、耳を劈く金属音が炸裂した。咄嗟に割り込んだ阿久津が、手にしたバールで辛うじてそれを叩き落としたのだ。凄まじい衝撃に、阿久津の巨体が祭壇の階段へと激しく叩きつけられる。トレンチコートの肩口が粘液に焼かれ、じわじわと肉の焦げる煙が上がった。
「がはっ……くそ、垂れ流しやがって……!」
阿久津は血混じりの唾を吐き捨て、震える膝を気力だけで押し戻して立ち上がった。その手にあるリボルバーのシリンダーは空だ。カチリ、カチリと虚しく撃鉄が落ちる音が、残された時間の少なさを冷酷に告げていた。
「月城ッ! 俺のことは構うな、さっさとその娘を引っ張り出せ! 弾が切れたら、次はこのバールでアイツの頭を叩き割るだけだぁッ!」
炎上するンカイの残滓が、背後でなおも怨嗟の声を上げながら、燃え盛る身体を強引に再生させようと蠢いている。上空の制御室からは、あの衣服の人物が、底知れない冷徹な眼差しでこの地獄の結末をカウントダウンするように見下ろしていた。
四方から迫る、限界の足音。
月城の全身を、焦燥という名の劇薬が駆け巡る。
(諦めてたまるか……。ここで手を離したら、僕は一生、自分の無力を呪って生きることになる!)
「嫌だ……絶対に、置いていかない!」
月城は叫んだ。喉の奥が血の味で焼けるのも構わず、衣服の襟首の、まだ辛うじて融解を免れていた硬い「芯」の部分に指をねじ込む。全体重を後ろにかけ、泥のスープの粘性に抗うように、渾身の力で引き絞った。
ズブブ……と、不快な融解音が空洞に響く。
掴み、引き剥がし、奪い返す。狂気の世界から、彼女という「個」の輪郭を、現世へ引き戻すための、命がけの綱引きだった。
