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第3話

 黒い表紙のファイルに並んだ文字列は、月城の脳内で即座に精緻な年表へと変換され、同時に、冷酷な解を弾き出した。

 
佐久間結衣は、ただの失踪ではない。
この『サロン・ンカイ』というシステムに組み込まれ、段階的に『個』を剥ぎ取られ、現在は地下の最深層に幽閉されている。

 
(適合率、九十四・二パーセント……苗床……)

 
論理を重んじる彼の思考回路が、その異様で冒涜的な単語を咀嚼した瞬間、心臓が跳ね上がるような強い拒絶反応が全身を駆け巡った。

 
視界がわずかに歪む。
耳の奥で、先ほど案内人が残していった不気味な笑い声と、窓の外を流れる黒い雨の音が混ざり合い、一つの巨大な「言葉」のように響き始める。それは、人間が理解してはならない領域の響きだった。

 
「……くっ」

 
月城はこめかみを強く押さえ、荒くなった呼吸を整えようと深く息を吸い込んだ。しかし、吸い込んだ空気はアロマの香りを通り越し、あの古い油のような、泥のような悪臭となって肺を満たす。

 
――彼がこれまでに築き上げてきた、合理的で確固たる世界の輪郭が、足元からズルリと崩れかけるような感覚。

 
しかし、月城は手帳を握る指に力を込め、辛うじて踏みとどまった。ここで理性を手放せば、あの待合室にいた者たちのように、あるいは結衣のように、自分という形を失ってしまう。彼は狂気の泥濘に抗い、カルテの最後の数行――『地下三階・最深層』という文字列を、自らの記憶に深く刻み込んだ。

 
「……そこまでだ、お兄さん。それ以上は、一般のお客さんの入っていい領域じゃない」

 
低く、地を這うような声が月城の背後から響いた。

 
振り返ると、いつの間にか受付の奥の扉が開き、仕立てのいい衣服を着た、初老の男が静かに立っていた。
その佇まいは、非の打ち所がない高名なカウンセラーのそれだ。しかし、男の瞳は濁った沼のように深く、その眼差しに射すくめられた瞬間、月城は全身の水分が凍りつくような錯覚を覚えた。

 
この男こそが、この静かな狂気の設計者――カルトリーダーだった。

 
「あなたは……」

 
「私はここの調律師のようなものですよ。迷える羊たちが、余計な重荷を捨てて、等しく平穏を得るための手伝いをしている。……月城君、と言いましたか。君の頭脳はとても明晰だ。だが、明晰であるが故に、形を保ち続けることに疲れているのではないですか?」

 
男は一歩、また一歩と、音もなく距離を詰めてくる。その歩調は、まるで時計の針のように正確で、それ自体が一種の催眠的なリズムを持っていた。

 
「佐久間結衣君は、賢い選択をしました。彼女は『頑張るのをやめた』。個としての苦痛から解き放たれ、今は大いなる安らぎの繭の中で、静かに溶け合っている。君も、その硬い殻を破り、我々のスープに加わるといい。とても心地よい世界ですよ」

 
男の言葉は、恐ろしいほどに穏やかで、慈悲に満ちていた。その声を聞いていると、先ほどまで月城を支配していた焦燥感が、嘘のように薄れていくような錯覚に囚われる。

 
(いけない。これ以上、この男の論理に巻き込まれては――)

 
月城が本能的な危機感から一歩退がろうとした、その時だった。

 
サロンのガラス扉が、乱暴な音を立てて押し開けられた。

 
「おいおい、勝手にカウンセリングを始めるなよ。そいつの予約を入れたのは、俺のほうだ」

 
ずぶ濡れのトレンチコートを揺らし、重い足取りで入ってきたのは、阿久津だった。
彼の指先には、すでに火の消えた煙草が握られており、その鋭い眼光はまっすぐにカルトリーダーへと向けられている。

 
「……阿久津刑事。相変わらず、無粋な雨の日に動く方だ」

 
リーダーは、乱入者に対しても眉一つ動かさず、静かな微笑を保ったままだ。

 
「無粋で悪かったな。だが、うちの『身内』が随分と手荒い歓迎を受けたみたいでね。床の片付け代くらいは、俺が持ってやるよ」

 
阿久津は月城の前に立ち、その広い背中でカルトリーダーの視線を遮った。それだけで、月城を縛り付けていた見えない圧迫感が、霧散していくのが分かった。

 
「行くぞ、月城。カルテは……しっかり握ってるな。お前の仕事は終わりだ」

 
阿久津は月城の肩を掴み、半ば強引にサロンの出口へと促した。
背後からは、カルトリーダーの、静かで、どこまでも引き摺るような声が追いかけてくる。

 
「いつでもお待ちしていますよ、月城君。あなたの椅子は、いつでも空けてありますから」

 
サロンを出ると、再び激しい雨の音が二人を包み込んだ。
手に入れた黒いファイルをコートの内に隠しながら、月城は冷たい雨を顔に浴び、ようやく「自分」という形を取り戻したことを実感していた。

 
「助かりました、阿久津さん……」

 
「礼はいい。だが、あのカルテを見たってことは、もう引き返せねえぞ」

 
阿久津は土気色の顔で、不敵に笑った。

 
「結衣って娘は地下にいる。……次は、本格的な『不法侵入』の時間だ」

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