第19話
背後でコンクリートがへし折れる凄まじい轟音が響き、月城の背中に強烈な爆風と熱波が叩きつけられた。
「前だけ見て走れ、月城! 振り返るなッ!」
先頭を走る阿久津のトレンチコートが、爆風に激しく翻る。
月城は腕の中の佐久間結衣を落とさないよう、狂ったように強く抱きしめていた。胸元から伝わる彼女の微かな心音と体温だけが、ここがまだ現実の世界であるという唯一の証明だった。
地下二階への階段を駆け上がる。足元には今や自壊を始めてドロドロのただの汚水へと戻りつつある黒いヘドロが波打ち、一歩間違えれば足を滑らせて転倒しかねない。天井からは容赦なく火のついた瓦礫が降り注ぎ、スマートフォンのライトを点けるまでもなく、激しい業火が脱出経路を白々と炙り出していた。
理性を消し飛ばすほどの焦燥感のなか、肺が焼き切れるような呼吸を繰り返しながら、二人は地下一階のクリアリングした部屋を次々と駆け抜けていく。先ほど確認した衣服の山が、業務用洗剤の棚が、炎に包まれて背後へ流れていく。不意打ちを警戒してフロアの構造を頭に叩き込んでおいたことが、この一秒を争う極限の脱出劇において、奇跡的に二人の足をもたつかせずに済ませていた。
「そこだ、正面玄関のロビーが見えたぞ!」
阿久津が叫び、ひび割れたガラスの扉を肩で乱暴に突き破る。
月城はその背を追い、火の粉を浴びながら猛然と外の世界へと飛び出した。
――激しい雨が、容赦なく全身に降り注いだ。
冷たい雨水が、煙と血の臭いに塗れた月城の顔を激しく洗う。二人が廃ビルの正面敷地から這い出るようにしてコンクリートの地面に転がり込んだ瞬間、背後でズズズ……と、あの呪われた廃ビル全体が内側から自壊し、重力に負けてねじれながら崩落していく質量音が響いた。すべてを闇の底へと埋め戻すような、圧倒的な幕引きだった。
月城は泥水のなかに膝をつき、荒い息を吐き出しながら、何よりも先に腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
溶けかけていた彼女の輪郭は、雨に打たれながら、確かに「佐久間結衣」という一人の人間の形を保っている。まだ意識は戻らないが、呼吸は浅くとも規則正しかった。
「……ハァ、ハァ……。助かった……本当に、助かったんだ……」
月城の目から、雨水に混ざって熱い涙が溢れ落ちた。自分の両手を見つめる。指先は怪異の冷たさではなく、必死に彼女を掴み続けた確かな痛熱さで震えていた。
「……よくやったな、月城」
隣で同じように膝をつき、力なく煙草に火をつけようとして、湿気で使い物にならないことに気づいて諦めた阿久津が、掠れた声で微笑んだ。その顔は煤と血で汚れ、トレンチコートはボロボロだったが、その瞳には鋭い刑事の光が戻っていた。
「阿久津さん……僕たち、勝ったんですよね。あの化け物どもから、結衣を取り戻せたんだ」
月城が縋るように問いかけると、阿久津は静かに立ち上がり、崩落した廃ビルの残骸を見つめた。
「ああ。お前がその手を離さなかったからな。今回は俺たちの勝ちだ。……だがな、月城」
阿久津はふと声を潜め、最後にあの空洞の上空――地下制御室で見下ろしていた「あの影」のあった方向へと視線を向けた。
「あの場所で起きていたことは、ただのカルトの暴走じゃねえ。あのリーダーの男の上には、もっと底の知れねえ『管理者』がいた。それに、奴のメモにあった『血の色の狂信者』って言葉も気になる」
阿久津の言葉に、月城の背筋が再び冷たく凍りつく。脳裏に蘇るのは、自分たちに火炎瓶を投げて寄越したあの案内人の軽薄な声と、上空から冷徹に見下ろしていた衣服の男の視線。
「この街の闇は、あのサロン一つを潰して終わるほど生易しいもんじゃないらしい。……いや、むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれねえな」
阿久津はそう言うと、月城の肩をポンと力強く叩いた。
「ま、先のことを憂うのは後だ。まずはそのお嬢さんを病院へ運ぶ。生き残ったんだ、今はその事実だけを噛み締めとけ」
「……はい」
月城は結衣を抱き直し、ゆっくりと立ち上がった。
降りしきる雨の向こう、遠くからパトカーや救急車のサイレンの音が近づいてくる。一つの凄惨な悪夢を乗り越えた確信と、それ以上に深い世界の深淵に触れてしまった戦慄を胸に、二人は夜の旧市街の闇の中を、歩き出すのだった。
