プロローグ
結衣が消えてから、三日が過ぎた。
月城は一人、彼女が最後に残した言葉の断片を、頭の中で幾度も組み替えていた。論理的な帰結を求める彼の思考回路は、親しい友人の失踪という非合理な事態を前にして、不気味なほどの空転を続けている。
雨は依然として、街を塗り潰すように降り続いていた。
駅前の喫茶店。湿った空気が冷房で冷やされ、肌にまとわりつく。窓の外を眺めれば、視界の端で黒い雨粒が窓ガラスにへばりつき、生き物のようにゆっくりと下へ這っていた。店内には、雨宿りついでに時間を潰すサラリーマンの溜息と、食器がぶつかる神経質な音が低く響いている。
「……続いてのニュースです。依然として降り続くこの長雨の影響により、市内の地盤沈下が加速しています。また、体調不良を訴える市民が急増しており、市役所は不要不急の外出を控えるよう――」
カウンターの端に置かれた古いテレビから、ノイズ混じりのニュースキャスターの声が流れていた。画面の隅には「記録的長雨、原因不明の倦怠感」というテロップが踊っているが、それを注視する客はいない。皆、ただ無気力に手元のスマートフォンや、冷めきったコーヒーを眺めているだけだった。
「……いやあ、ひどい降りだね。お兄さん、傘、乾かしていきなよ」
カウンターの奥から、店主が力ない声で言った。その顔は土気色で、ひどく酷使された雑巾のように萎れている。
「ありがとうございます。……マスター、最近、街で体調を崩している人が多いと聞きましたが」
「ああ、それね……。みんな『重い』って言うんだよ。体が、とか、心が、とか。この雨のせいかねえ」
店主は布巾を動かしながら、ぼんやりと手元を見つめた。その指先が、わずかに震えている。月城がその震えを指摘しようとした時、窓の外の喧騒がふっと一段階、異質なものへと変わった。
色鮮やかなビニール傘がひしめき合う歩道の真ん中で、そこだけがぽっかりと「黒い空白」になっていた。
お揃いの、艶を抑えた黒いジャージを着た集団が歩いている。十人ほどだろうか。彼らは傘も差さず、粘りつく雨を全身に浴びながら、一糸乱れぬ足取りで進んでいく。フードを深く被っているため表情は見えないが、その動きには一切の迷いも、雨を忌避する素振りもなかった。
色とりどりの傘を持った一般人たちが、無意識のうちに彼らを避けて道を作る。その光景は、健康な細胞が異物を排除できずに道を開けてしまう、末期的な疾患のプロセスのようにも見えた。
「……あいつらだ。最近、よく見るんだよ」
店主が声を潜めて呟く。
「『サロン・ンカイ』。何でも、心と体の疲れを溶かしてくれる場所なんだとか。……気持ち悪いよな。あんなに濡れてるのに、誰も寒そうにしてないんだ」
月城は無言でその黒い背中を追った。彼らが向かう先は、市街地の北西――地盤沈下によって放棄されつつある、旧市街の廃ビル街だ。
「僕の知り合いも、三日前から連絡が取れなくて。警察には相談しましたが、事件性がないと動いてくれない」
「警察、ね……。あてにしない方がいいよ。彼らもそれどころじゃないみたいだし。……なあ、お兄さん。あんまり深追いはしないことだ。最近じゃ、排水口の奥に引きずり込まれたなんて、物騒な噂も流れてるんだから」
店主の言葉が、月城の思考に冷たい楔を打ち込む。
結衣の部屋に残されていた、あの黒い粘液の跡。あれは単なる汚れではなかった。何かが内側から溢れ出し、彼女を「個」という枠組みから解き放ってしまったかのような、不可解な痕跡。
月城がテーブルに置いたスマートフォンが、短く震えた。
表示されたのは、見覚えのない番号からの着信だった。
「……月城だ」
『――結衣っていう娘さんを、探してるんだってな』
低く、ひどく掠れた男の声だった。背後からは激しい雨の音と、ライターを弾く金属音が聞こえる。
「……誰だ」
『お前さんの味方かどうかは、まだ分からん。だが、目的地は同じらしい。……今から教える場所に来な。あんたが探してる「答え」の入り口、見せてやるよ』
一方的に通話が切れる。
送られてきた位置情報は、先ほどの黒ジャージの集団が消えていった方向――古い地下排水路の入り口を指していた。
月城は飲み残しの冷めたコーヒーを飲み干し、席を立った。
店を出ると、街のスピーカーから、どこか現実味のない「雨天による外出自粛」の呼びかけが、遠くで響いている。
傘を差した人々の足元を流れる黒い水が、排水口へと吸い込まれていく。
それはまるで、意志を持った大河が、街の全てを飲み込もうとしているかのようだった。
月城は濡れたアスファルトを強く踏みしめ、重い大気の中へと歩き出した。
論理では割り切れない、泥濘のような深淵へと。
