エピローグ:佐久間
窓ガラスを激しく叩く雨の音が、講義室の中に重苦しく響いていた。
佐久間結衣は、ノートを取る手を止めて、ぼんやりと外の暗い空を眺めていた。あの「火事」から二週間が経ち、日常は戻ってきたはずだった。ゼミの仲間である月城くんも心配して声をかけてくれるし、こうして大学にも通えている。
けれど、彼女の心の奥底には、決して他人には言えない「秘密」が沈殿していた。
(みんな、あの場所を地獄だったって言うけれど……)
結衣はそっと、自分の左手首に触れた。服の袖を捲ると、白く細い手首の皮膚が、窓外の暗がりに呼応するように一瞬だけドロリと歪み、不自然なほど滑らかな輪郭線を描く。
彼女は、あの地下の底で、自分の身体が衣服ごと崩れ、ドロドロとした黒い泥の中に溶けていった瞬間の感覚を、本当は鮮明に覚えていた。
それは恐怖なんかではなかった。自分を縛り付ける肉体という器が消え失せ、孤独な精神の檻が融解し、すべてが一つになっていく――それは、人生で一度も味わったことのないような、絶対的な幸福だった。
排水口へ流れる水のように、すべてが混ざり合い、一つになる。
――溶けて…解けて……とけて………と…け、て
――『溶け合う安らぎの繭』。
脳裏に、かつてあの場所で誰かが囁いた言葉が、甘やかな残響となってリフレインする。
あのままあの温かいスープと同化して、大いなる主の一部になれていたら、どんなに楽だっただろう。月城くんが必死に自分をこの過酷な現世へと引き戻してくれたことには感謝している。けれど、今でも雨の音が激しくなるたびに、あの安らかな泥の温もりが恋しくて、身体の内側がじわじわと疼くのだ。
「……チリン」
頭の芯で、冷徹な鈴の音が小さく鳴り響いた。その刹那、歪みかけていた手首の皮膚がキュッと締まり、元の「人間の形」へと強制的に引き戻される。激しい拒絶反応に、結衣は小さく息を詰まらせた。この鈴の音が、今の自分を辛うじて人間社会に繋ぎ止めている。でも、もしこれが聞こえなくなったら、私はまた――。
心細さに身を震わせながら、結衣はノートを鞄にしまい、講義室を出た。
夕闇に包まれたキャンパスの渡り廊下を歩いていると、すれ違う学生たちの向こう、雨の煙る校門の近くに、「それ」が見えた。
ビニール傘の群れの中で、一本だけ、異様なほど鮮烈な『血のような赤』の傘が静止している。
その傘の下にいる人物は、他の学生たちのように雨を避けるでもなく、ただじっと、じっとこちらを見上げていた。仕立ての良いスーツを纏っているようにも見えたが、激しい雨のせいでその顔は判然としない。ただ、その人物の足元だけ、滴る雨水がコンクリートの上でじわじわと『赤く』染まり、まるで生々しい血の海が広がっていくかのような錯覚を覚えた。
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。
あの地下に満ちていた「黒い泥」とは根本的に違う、もっと野蛮で、暴力的で、生命そのものを生贄として喰らうような、苛烈なまでの『赤の気配』。
「……っ」
結衣が恐怖に身を竦め、思わず目を瞬かせた次の瞬間。
激しく走った車のヘッドライトが校門前を照らし出し、再び視線を戻したときには――その赤い傘の人物は、最初から誰もいなかったかのように、雨の闇の中へと掻き消えていた。
あとに残されたのは、ただ冷たく降りしきる雨と、結衣の手首に残る、皮膚が溶け出すような微かな微熱だけだった。
