エピローグ:月城
あの忌まわしい雨の夜から、二週間が過ぎた。
旧市街の廃ビル崩落事故――表向きは「不法占拠者たちの失火による大規模な構造倒壊」と処理されたニュースは、今やバラエティ番組の隅に追いやられ、人々の記憶から急速に薄れつつある。
月城は、大学の講義室の片隅で、一枚の白紙のカルテを見つめていた。
地上の『サロン・ンカイ』で手に入れ、あのおぞましい地下を駆け抜ける間もブルゾンの内側で守り抜いたあの記録は、警察の調書には決して残せない、月城と阿久津だけの「真実の証明」として、ノートの間に密かに挟まれている。まだ心理学を専攻する一人の大学生に過ぎない自分には、このカルテの重みはあまりにも肥大化していた。
講義の終了を告げるチャイムが鳴り、学生たちが一斉に席を立つ中、一人の少女が月城の席へと近づいてきた。
「月城くん、お待たせ。……次の講義、一緒に行こ?」
そこに立っていたのは、佐久間結衣だった。
かつて泥の繭に囚われ、衣服ごと境界を融解させられかけていた同じゼミの彼女は、今では普通の女子大生らしい私服に身を包んでいる。
「うん、行こうか。……結衣さん、体調はどう? まだ少し、腕とか痛む?」
「ううん、もう全然大丈夫! あの日の火事の記憶、ショックでほとんど抜けちゃってるけど、こうして普通に大学に来られてるしね」
結衣はそう言って無邪気に笑いながら、教科書を胸に抱えるために両袖を少し捲り上げた。
その瞬間、月城の視線が彼女の手首に釘付けになった。
白く細い結衣の皮膚。その手首の境界線が、一瞬だけ、窓から差し込む陽光に透けて「ドロリ」と歪んだように見えたのだ。まるで、彼女の肉体の一部が今も粘液の性質を残しており、光の加減でその輪郭を曖昧に融解させているかのように。
結衣自身はそれに気づいていない。しかし、彼女が去り際に「時々ね、雨の日にチリン、チリンって綺麗な鈴の音が頭の中で響くの」と呟いたとき、月城は確信した。
あの地下三階で手に入れた『ンカイの銀鈴』が、彼女の精神の深層で今も消えない「楔」として、あの黒い澱みを辛うじて抑え込んでいるだけなのだということを。一度融解しかけた彼女の『人間の輪郭』は、完全には戻っていないのだ。
その日の夜。月城は大学を後にし、旧市街の入り口にある古びた喫茶店で、阿久津と向かい合っていた。
阿久津はボロボロになったトレンチコートを新調していたが、その手元にある使い込まれたリボルバーと、あの夜手に入れた『バール』は、男の事務所の特等席に厳重に保管されているという。
「佐久間結衣の様子はどうだ、月城。お前と同じ講義に出てたんだろ」
阿久津は運ばれてきた珈琲に無造作に砂糖を放り込みながら尋ねた。
「……表面上は普通に振る舞っています。でも、肉体の変質は完全には戻っていません。手首の皮膚の境界が、時々、溶けるように歪むんです。僕が一番近くで、彼女を観察し続けます」
「そうか。専門家の卵としちゃ、荷が重いだろうが……お前が手を離さなかったんだ、最後まで付き合ってやれ」
阿久津は珈琲を一口すすると、懐から一冊の古びた手帳を取り出し、机の上に開いた。そこには、あの研究室で月城たちが目撃した、カルトリーダーのぼやきが詳細に書き写されていた。
「警察のネットワークを使って、少し探りを入れてみた。例のリーダーが書き残していた『血の色の狂信者ども』って奴らのことだ」
阿久津の目が、刑事の鋭い光を帯びる。
「旧市街のさらに奥、ある特定の廃倉庫群の周辺で、最近奇妙な『失踪事件』が多発している。サロン・ンカイのように泥を残すんじゃない。衣服ごと、跡形もなく血の海に変えて、肉体を丸ごと捧げるような、野蛮な儀式の痕跡がいくつか見つかった」
月城の脳裏に、あの地下制御室から冷徹に見下ろしていた「仕立ての良い衣服の男」の視線と、どこからか火炎瓶を投げて寄越した「軽薄な案内人」の声が、同時に蘇った。
あの夜起きた地獄は、この街を覆う巨大なドミノの一塊に過ぎなかったのだ。スープの融解劇が幕を閉じ、舞台の裏方たちが次の幕を上げる準備を始めている。
「……次の舞台は、赤、ですか」
「ああ。どうやら、一般の大学生を巻き込むにゃ、この街の夜は暗すぎるらしいが……俺たちの仕事はまだ終わりそうにねえな、月城」
阿久津は自嘲気味に笑うと、新調したトレンチコートの襟を立てて立ち上がった。
窓の外では、また新しい雨が降り始めていた。アスファルトを濡らす雨音が、月城にはまるで、次の惨劇の幕開けを告げる不気味な拍手のように聞こえていた。手に入れた対抗策と、消えない世界の深淵への戦慄を胸に、月城は阿久津と共に、再び街の闇へと視線を向けるのだった。
