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ドニチカ切符の旅「琴似屯田兵屋」

ドニチカ切符の旅は札幌の地下鉄で土日祝日のみ販売される一日乗車券である。

この日は祝日、東札幌の文フリで東西線に乗ったので東西線でどこか・・・。

よし「琴似に行こう」と決めた。

琴似はそんなに行く機会はない。

初めて琴似に行ったのは今も覚えている。

谷山浩子のライブだったな・・・・もう随分昔の話。
初めてライブに行ったんだよな・・・。

その谷山浩子さんは闘病されてXでポストされているのにコメントしたら「いいね」が返って来た時は嬉しかった。
若い頃オールナイトニッポン聴いていたからね。

それから数十年経った琴似は当時とは随分違う。

当初、古書店へ行くがもう無かった・・・。

それだけでどっと疲れた。

琴似と言えば琴似屯田兵村から発展した街である。

琴似には屯田兵屋が残っているのを思い出し、旅を続ける。

少し歩くと屯田兵屋がある。

観光名所って訳じゃないが、かなり整備され保存されている。

屯田兵とは、明治時代に北海道(道央以北・以東)の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。
1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実施、1904年(明治37年)に廃止された。

屯田兵屋について調べて見た。

屯田兵屋は、屯田兵が入地した際に各戸に給与された家屋。

標準とされた構造は、木造平屋、板張りに柾葺きで、面積は17坪5合(約58平方メートル)。

間取りは、土間に、炉を囲んだ6畳の板の間、6畳と4畳半の畳の間で構成され、流し、便所、押入が配置されていた。
小屋組で天井はなく、屋根に煙出しが設けられていた。

1878(明治11)年に屯田兵村に建てられた10戸の兵屋は暖炉付きの西洋式、1880(明治13)年に篠津地区に建てられた20戸は丸太組のロシア・コサック式だったが、多額の費用を要したため、その後は採用されなかった。

屯田兵屋の構造は、明治6(1873)年11月の屯田兵制度創設案では5戸1棟の長屋を計画していた。
実際には、木造平屋の一戸建てで、間口5間(約9m)奥行き3.5間(約6.3m)の面積17坪5合(約58平方メートル)が標準とされ、初期においては壁や間取りに試行錯誤が繰り返され、地域や建築時期によって仕様に多少の違いがあった。

明治8(1875)年に最初の屯田兵が入った琴似兵村の場合は、村橋久成による当初の設計案では厩が付き、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる炉が切られていたが、実際には予算不足などを背景に一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋だった。

窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど寒冷地対策はほとんど施されなかったため、温暖な地域出身の屯田兵らには不評だったとされる。

琴似兵村の兵屋は、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたが、公的な支援のない一般入植者の多くが雨露をしのいだ掘っ立て小屋に比べると条件はまだ恵まれていた。

寒冷地仕様の兵屋としては、ケプロンの進言に基づいて明治11(1878)年、江別兵村にウイリアム・スミス・クラークの設計による米国式耐寒構造の兵屋10戸が建設された。

さらに翌年、篠津地区にはロシアのコサック式と呼ばれる丸太組みの兵屋20戸が建設された。
ガラス窓で暖炉も採用されたが、米国式は琴似に比べて約2倍、コサック式は約4倍もの建築費がかかり、結局、これ以降の兵屋は、板壁・柾葺き・囲炉裏が標準とされた。

間取りについては、屯田兵司令部が作成した『屯田兵移住者心得』(明治27年)添付の「兵屋乃図」によると、土間に、炉を囲んだ6畳の板の間、6畳と4畳半の畳の間で構成され、流しが付属している。

また、『北海道屯田兵制度』(大正3年・上原轍三郎著)掲載の図面では、板の間と流しをつなぐ「踏み板」や便所、押入、棚板の記載があり、棚板は銃の架台として使用されていたと見られる。

現存あるいは復元保存されている兵屋は、土間と板の間の仕様に違いが見られ、流し回りまで土間が広がっているものや、板の間が流し回りまでつながっているものもある。
6畳間が8畳間となっている琴似兵屋を含めて、建設当時のものが改変された遺構もある。

騎兵隊が配置された美唄兵村の兵屋は、母屋の土間側に差し掛け屋根の厩舎が付属する特異な形態だった。
厩舎の広さは、間口1間(約1.8m)奥行き2間(約3.6m)の2坪(約6.6平方m)で一頭用だった。(右の立面図参照)

明治7(1874)年に建造された琴似兵屋の小屋組(屋根を支えるための骨組み)は、日本の伝統的な小屋組と異なる、トラス構造と呼ばれる洋式小屋組が採用されている。
軽量な部材でも強度に優れ、柱のない大空間を確保できることから、日本でも明治以降急速に普及した方式で、その先駆けが世界文化遺産の富岡製糸場(明治5年完成)で、ほぼ同じ時期に住宅に採用された貴重な文化遺産といえる。

小屋組を子細に見ると、水平に渡された太い梁の中央から一本の柱(真束・英名キングポスト)が垂直に立ち上がり、両脇の斜めに延びた二本の柱とともに、しっかりと屋根を支えている。

製糸場とは接合部分に微妙な違いがあり、「継ぎ」「組み」などの仕口に「洋魂和才」の跡が感じられる。
琴似兵屋の設計段階では、カッヘル(ストーブ)や屋内白土壁の採用など洋風建築を目指したものの、資金上の制約から断念していった経緯があり、トラス構造は、唯一残った洋風指向の残骸ともいえる。

兵屋建設費はその後も切り詰め傾向が続き、技術力に劣る囚人労働を頼ったこともあり、洋式小屋組は琴似、山鼻兵村だけだった。

「五寸角材」だった真束は、後期兵村では「三寸五分の皮剥ぎ丸太」に置き換えられた。
現在も復元保存されている秩父別兵村の兵屋を見ると、曲がりくねった梁の上で、いかにも頼りなげな三本の束柱が、屋根を支えている。

屯田兵屋の配置については、屯田兵用地の区画割りの方法によって、1戸当たりの用地を狭く取って兵屋を近接して配置する「密居制」と、比較的広い用地に距離を置いて兵屋を配する「粗居制」の二種がある。


『屯田兵移住者心得』(明治27年)添付の「兵屋乃図」に示された1戸当たりの兵屋用地は、間口11間(約20m)奥行き12.5間(約23m)で周囲に幅1尺5寸(約45cm)深さ1尺(約30cm)の溝をめぐらせ、用地のほぼ中央に兵屋を配置している。
入り口には「三門柱」と呼ばれる門柱を立て、門前の道路のほか、両隣家への通路と裏手から延びる作道を通してある。

兵屋を道路を挟んで両側に配置する場合には、正面の入り口が道路に面するように、裏表対称に間取りした「裏返し型」と一般に呼ばれる構造が取られた。

屯田兵は、明治15(1882)年の開拓使廃止に伴い陸軍省へ移管されるが、兵屋建設には多くの費用が必要なため、どの時期においても財政難がつきまとった。

その解決策として、前期においては囚人労働が利用され、囚人の過酷な使役が制限されるようになった後期においては仕様の粗悪化という現象も見られた(『屯田兵村』)。

屯田兵に対しては、1人について居宅として兵屋1戸が給与された。

ただし、独身者をも志願対象とした初期においては、家族持ちは1戸、独身者は4人で1戸とされた(屯田憲兵例則・明治7年10月30日)。
各兵屋には、畳と建具はじめ家具(鍋、桶、荷桶、椀)が付属し、夜具(15才以上1人当たり4布と蒲団各1枚、7才以上15才までは1人当たり4布蒲団1枚)とともに給与された。

屯田兵に対する兵屋の割り当ては、移住の際の輸送船の船中または上陸後に、兵屋番号が書かれたくじ引きで決められた。

ただし、実際には同郷の者や近親者ができるだけ近くに居住したいという思いから、抽選通りでは必ずしもなかったという話も伝えられている。

給与された兵屋は、原則として増改築が禁じられ、移住後3年間については災害などで破損亡失した場合に別に給与された。

琴似屯田兵屋

屯田兵家族らの証言

「天井が張ってなかったので、屋根の裏が直に見えていました。冬になると柾釘の先に霜が着いて、屋根裏が真っ白になったなぁ」(湧別・三浦清助、上湧別町史)

「炉で長い薪を焚いたもんで、屋根に煙出しが付いていたんですが、とても煙たくていつも眼がクシャクシャしていたなぁ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)

「家族が多くて、何とも与えられた兵屋では不自由だが、建て増しは許可されぬ、そこで三間半の物置を建て増しして、そのうち六畳一間を物置とし、他を部屋として使ったが、兵屋の通路は物置に出入りするだけというので六尺とし、部屋も窓がなくて暗く、事情を知らぬ後々の人からは、下手な設計だと批評された」(永山・川村幸吉、永山町史)

「屯田の家は八畳と四畳半とね、あとはまあ、百姓をするのですから板場、板の間は広いんです、灯りはランプです。暗かった。暗くて、危なくってねぇ」(輪西・岩城シゲ、室蘭屯田兵)

「五日がかりで永山へ入ったが、来て見て驚いた。兵屋の中に蕗や笹などがいっぱいで、まず度肝を抜かれた。また、雪が五尺六尺と積もるのにも驚いてしまった。雪中の伐採木のために兵屋が壊れたり、死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)

「屯田兵の家はみんな同じで、大きな門柱が二本あり、それに氏名と階級が記されていました。それを覚えていないと、どこの家にいるのか分からないの。木ばっかりで、隣の家も見えないんだから。それから雪がひどくて、六尺余りある高い門柱の上に上がって遊んだのを覚えています」(高志内・文屋シウ、美唄町史)

「屯田兵屋がはじめて焼けた。昼間だったが、消防隊がなかったため、みんなが集まり学校にあった手押しポンプで消火に当たったが、全焼した」(美唄・山本秀一、美唄町史)

「はじめて家に入ってみると、土間に三尺ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)

「家は粗末で焚き火に向かった前だけが熱かったが、寒くて煙たくて、吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが、火事にはならなかった。朝起きてみたら、蒲団の上に雪が積もっていたこともあった」(納内・北出長一、深川市史)

「四枚ガラスの窓が一つあって、壁は板壁だった」(納内・南山ムメヨ、深川市史)

「明治二十六年、積雪多し。二十六年兵の召募者の入隊する為、新規に建築せられたる。兵屋の九十一番の保存を命ぜられ、降雪の都度除雪を為す事となりしが、此の年は前記の如く、降雪量多くして、下ろしたる雪の積重が軒にまで達するため、狐狸は其の屋根上に従横に馳駆すると云う、内地にては想像も及ばぬ状況に驚きたり」 (美唄・志賀峰吉、波上浮沈記)

過酷な冬にこの屯田兵屋で暮らすのはかなり無理があっただろう。

板一枚で北海道の冬を乗り切るなんて今では考えられない。

内地から開拓と北辺の護りに来た屯田兵の苦労が偲ばれる。

戦後の自衛隊もソ連の侵攻に備え北海道各地に駐屯地を急増したが、遠軽では馬小屋に入れられたと警察予備隊の1期生の方に聴いた。

北海道の防衛を語る時、過酷な状況で北海道を守った先達をオスれてはならないと屯田兵屋を訪れ思った。

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戦車兵 チップありがとうございます!!無理なさらず御覧頂けたら幸いです。