愛されたはずなのに
🎧️窓辺のバヨリンの曲を作りました♪
よかったら聴きながらお読み下さい♪
「なんて美しい人なんだろう」
思わず見とれてしまった。
家の近くに新しくできた中華料理店で、
母と食事をしていたときのことだった。
店の奥で、白い調理服を着た男性と話している女性がいた。
三十代くらいにしか見えない。
派手さはない。それなのに、落ち着いた品のある美しさがあった。
広い店にはシャンデリアが輝き、高級感が漂っていた。
それでも、その女性の存在感は店の雰囲気に少しも負けていなかった。
半年ほどで、その店は閉店した。
店は取り壊され、私も彼女のことを忘れていた。
しばらくして、私は証券会社に就職した。
ある朝、駅へ向かって歩いていると、日本料理店の戸が開き、
中から見覚えのある女性が出てきた。
「あの人だ」
彼女は店先に花を生け始めた。
会社帰り、その店の前を通ると、「お運びさん募集」の紙が貼られていた。
立ち止まって見ていると、戸が開き、彼女が笑顔で出てきた。
「ぜひ、働いてください。」
私は証券会社に勤め始めたばかりで、
資格試験に合格するまでしか働けないことと、
五時まで働いていることを話した。
すると彼女は、
「六時からでも大丈夫です。」
と、優しく言ってくれた。
私はお金のためではなかった。
彼女のことを、もっと知りたいと思ったのだ。
店は石畳が敷かれ、つくばいのある落ち着いた日本料理店だった。
お客様は大手企業の管理職や会社経営者が多く、少し敷居の高い店だった。
働き始めて間もなく、先輩のお運びさんが私に小声で言った。
「ここのママは、○○会社の社長さんの愛人なんだよ。」
別れたご主人との間に出来た息子さんが板前を務め
彼女は女将として店を切り盛りしていた。
そのことを知る人は一部だけで、多くのお客様は知らなかった。
社長は取引先をよく店へ連れてきた。
ある夜、取引先の男性が社長に言った。
「祇園や新地もずいぶん歩いたけれど、ここのママほど素敵な女性は
見たことがありません。」
私は思わず社長の顔を見た。
自分の愛する女性が、他の男からここまで褒められて、どんな気持ちなのだろうと思ったからだ。
ママは誰に対しても優しかった。
私が高価な酒器を割ってしまったときも、
「気にしなくていいわよ。」
と笑ってくれた。
帰りには果物を持たせてくれ、遅くなればタクシー代まで渡してくれた。
ある日、社長が一人で店に来ていた。
ママがすぐそばにいるにもかかわらず、社長は私に言った。
「今度、一緒に食事に行きませんか。」
私は思わずママの顔を見た。
けれど彼女は何も言わず、静かにほほ笑んでいた。
その笑顔が、なぜか少し寂しそうに見えた。
三か月後、私は証券会社の資格試験に合格し、店を辞めた。
最後の日、ママは私に言ってくれた。
「きなこちゃんは、本当にこの商売が向いているわ。
いつか商売をすることがあったら、お客様を紹介してあげる。」
その言葉が、とても嬉しかった。
二年ほどして、社長が亡くなった。
社長の会社の社員という立場だったママは、店を続ける
ことができなくなった。
後日、この店の常連だったテレビ局の部長から、その後の話を聞いた。
「店ぐらい、ママに残してあげればよかったのに。」
そう言って部長は続けた。
「ママは泣いていたよ。ママが入院した時も、社長は一度も見舞いに来なかったそうだ。
ママは、寂しそうな顔で『結婚しておけばよかった』って、小さな声でぽつりと言っていたよ。」
私は、胸が締めつけられた。
あれほど美しく、優しく、多くの人から慕われていた女性。
きっと結婚を申し込む人も、一人や二人ではなかっただろう。
それでも彼女は、その人を選んだ。
私は、あのママの人生を思い出すたびに考える。
どれほど深く愛されているように見えても、
その愛が形として残るとは限らない。
