僕たちは、すでに欲しいものを手に入れている
🎧️トランペット願いの曲を作りました♪
よかったら聴きながらお読み下さい♪
「きなこさん、僕のこと、どう思う?」
四十五歳くらいの人事課長が、ビールのジョッキを手に、突然そんなことを聞いてきた。
「うーん。癒し系だと思います」
私がそう答えると、課長は照れくさそうに笑った。
課長が東京へ異動になってから、仕事の打ち合わせで東京へ行ったときのことだった。
打ち合わせが終わると、
「せっかくだから、ご飯でも食べにいきましょう」
と、近くの居酒屋へ連れて行ってくれた。
席に着くと、天ぷらやお造りなど、八品ほどの料理が次々と運ばれてきた。
課長はビールを飲みながら、いつものようにニコニコしていた。
私は以前から、この人に聞いてみたいことがあった。
「課長は、どうしていつもニコニコしていられるんですか?」
何を言っても、まず笑顔で話を聞いてくれる人だった。
仕事をしていれば、腹の立つこともある。
思いどおりにならないこともある。
まして人事の仕事をしていれば、人に言えないような悩みや、面倒なこともたくさんあるはずだ。
それなのに、私は課長が誰かに声を荒らげたり、不機嫌な顔をしたりするところを見た記憶がなかった。
何を言っても笑って怒らないので、私もいつの間にか気を使わなくなり、言いたいことをはっきり言っていた。
私の質問を聞くと、課長は少し考えてから、静かに話し始めた。
「僕の同級生がね、高校生のとき、サッカーの練習中に事故に
遭ったんです」
それまで笑っていた課長の表情が、少しだけ変わった。
事故で頸髄を損傷し、首から下の自由を失ったという。
動かせるのは、首から上と手先だけ。
自分で寝返りを打つこともできない。
歩くこともできない。
トイレも、一人ではできなくなった。
「友達がね、『家族に浣腸してもらわないと排便できない。それが一番つらい』って言うんです」
私は黙って聞いていた。
寝たきりの友達の姿が見える気がした。
「それで、僕に言ったんですよ」
課長は続けた。
「お前は自分で寝返りができる。自分でトイレに行ける。歩くこともできる。うらやましいって」
友人の夢は、
自分の力で排便すること。
それを聞いたとき、課長は思ったという。
「僕はもう、彼が欲しいと思っているものを、
全部持っている人間なんだって」
そう言うと、課長はジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「そう思ったらね、少々のことで怒るのはやめようと思ったんです」
そして、またいつもの笑顔に戻った。
しばらくして、課長はこんな話もしてくれた。
「僕、サッカーでゴールキーパーをやったことがあるんですよ」
「そうなんですか」
「ゴールキーパーって、どんなボールが飛んできても、受け止めてやるって思うでしょう」
課長は両手を広げるような仕草をした。
「だから今も同じなんです。仕事で嫌なことがあっても、どんなことが来て も、さあこい受け止めてやるって」
そして笑いながら言った。
「嫌なことが来たら、きたーーーって」
私も思わず笑った。
この人がいつもニコニコしている理由が、少し分かったような気がした。
私は帰り道、課長の言葉を何度も思い返した。
「僕はもう、彼が欲しいと思っているものを持っている人間なんだ」
考えてみれば、私たちはずいぶん多くのものを、すでに手に入れている。
自分の足で歩ける。
眠くなれば、自分で寝返りを打てる。
行きたいときに、自分でトイレへ行ける。
そんなことを「幸せ」だと思う日は、ほとんどない。
できて当たり前になった瞬間から、私たちはそれを数えなくなる。
そして、
もっといい仕事がしたい。
もっとお金が欲しい。
もっと幸せになりたい。
手に入っていないものばかりを数えてしまう。
私もそうだった。
あれから長い年月が過ぎた。
それでも、思いどおりにならないことが続いたとき、私はときどき、あの居酒屋の夜を思い出す。
ビールのジョッキを片手に、ニコニコ笑っていた課長。
そして、あの言葉。
「嫌なことが来たら、きたーーーって」
そう思うと、どんな嫌なことでも、受けてやるぞって
覚悟がきまる気がする。
私たちは、手に入っていない物ばかりを見ているけれど、
昔の自分が欲しかったものは、
もう、いくつも手に入れている。
考えてみれば私たちも、
誰かが願っている夢を、
すでに生きているのかもしれない。
