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第7話雨色の髪の乙女。

 ラインが止まった瞬間、俺、劇田一人(かずひと)の中で何かが終わった気がした。

 今日で最後だ。

 ベルトコンベアの振動が消え、工場内にチャイムが鳴り響く。俺は手袋を外して、いつものようにロッカーに向かった。五年間、同じ動作を繰り返してきた。ボルトを締めて、確認して、次のボディが流れてくる。その繰り返しだった。悪い仕事じゃなかった。でも、それだけだった。

「劇田、本当にいいのか?」

 振り返ると、同じ班の田中さんが渋い顔で立っていた。五十がらみの、日焼けした顔。この人には世話になった。

「はい。お世話になりました」

「正社員の話、もう少し待てばよかったのに。お前みたいに真面目なやつ、そうそういないぞ」

 俺は頭を下げた。

 正社員。その言葉が出るたびに、なぜか胸の奥がざわついた。昇格できれば、収入は上がる。安定もする。周りの連中はみんな「おめでとう」と言った。でも、誰も肝心なことをわかっていなかった。


 俺が欲しいのは、そういうものじゃない。

 寮に戻る道、夕暮れの空が妙に赤かった。工場の煙突が黒いシルエットになって、空に突き刺さっている。五年間、毎日見てきた景色だ。明日からは見ない。

 部屋に入って、荷物をまとめる。たいしたものはない。衣類と、本が少し。それから、通帳。

数字を見た。悪くない。むしろ、よかった。寮費は引かれるが、使う暇もなかったからだ。残業もした。休日出勤もした。でも、その金を何に使えばいいか、ずっとわからなかった。

 今なら、わかる。

 スマートフォンを取り出して、婚活アプリのダウンロードボタンを押した。インストールが完了するまでの数秒、俺はベッドに腰を下ろして天井を見上げた。

 三十二歳。期間工。高卒。

 プロフィール欄を埋めながら、少し躊躇した。職業の欄で指が止まる。「期間工」と書けば、どう見られるか、わかっていた。

 俺は少し考えて、こう入力した。

 ――自動車メーカー勤務。

 嘘じゃない、と自分に言い聞かせた。確かに、あの会社の工場で働いていた。ただ、もう今日で終わりだというだけで。

 登録ボタンを押す。

さあ、始めよう。俺の本当の意味での新しい生活を。

 翌朝、アパートを探した。

 寮を出なければならない。契約が終われば、当然そうなる。スマートフォンで不動産サイトを開いて、条件を入れていく。家賃五万円以下、1K、駅から徒歩十五分以内。半年だけの話だから、あまり贅沢はできない。

 三日後には、もう引っ越していた。

 六畳一間、南向き、築二十年。窓から見えるのは隣のマンションの壁だったが、文句は言えない。自分で選んだ部屋だ。段ボールを積み上げたまま、床に座ってカップ麺をすすった。

 なんだか、妙に清々しかった。

 その夜、アプリに最初の通知が来た。

 「いいね」が一件。

 思わず背筋が伸びた。プロフィール写真は、去年の職場の花見で田中さんに撮ってもらった一枚だ。スーツなんて持っていなかったから、いちばんましなシャツを着て、川沿いで撮った。それほど悪い写真じゃないと思っていたが、反応があるとは思っていなかった。

 プロフィールを開く。

 雨色乙女、二十代後半。

 写真は三枚あった。笑顔の写真、カフェで撮ったらしい写真、桜の下で撮った写真。きれいな人だと思った。いや、きれいというより、どこか柔らかい感じがした。目元が優しい。

 自己紹介文にはこう書いてあった。

 ――真剣に将来を考えられる方と出会いたいです。穏やかな毎日を大切にしています。

 俺は少し考えてから、メッセージを送った。

「はじめまして。プロフィール拝見しました。よければお話しできればと思います」

 我ながら、面白みのない文章だった。でも、気の利いたことなんて思い浮かばなかった。

 返信は、翌朝来た。

「はじめまして。こちらこそ、よろしくお願いします」

 それから、少しずつメッセージが続いた。好きな食べ物、休日の過ごし方、どんな仕事をしているか。乙女さんは事務の仕事をしていると言った。俺は、自動車メーカーで働いていると答えた。

 五日ほどやりとりしたころ、俺は思い切って書いた。

「よければ、直接お会いできませんか」

 返信まで、三時間かかった。

「はい、ぜひ」

 待ち合わせはホテルの喫茶店にした。落ち着いた場所がいいと思った。変に気張った店より、ちゃんと話せる場所の方がいい。それくらいの知恵は、どうにかあった。

 当日、俺は三十分前に着いた。

 緊張していた。認めたくなかったが、完全に緊張していた。コーヒーを頼んで、入口の方を向いて座った。時計を見る。また見る。

 約束の時間の五分前、彼女が入ってきた。

 写真より、きれいだった。

 薄いベージュのブラウスに、紺のスカート。ヒールは高くない。髪は肩のあたりで緩くまとめてある。きょろきょろと店内を見回して、俺と目が合った瞬間、少し微笑んだ。

「劇田さん、ですか」

「はい。雨色さん」


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