第11話「青い珊瑚礁」
波の記憶 ――江の島、五十年の恋――
一
バスの窓から、海が見えた。
「じいじ、あっち! うみ!」
明人が小さな指を窓ガラスに押しつけて叫ぶ。正男はその声に目を細めながら、ゆっくりと体を起こした。七十二歳の膝には、長時間のバスの振動がじんわりとこたえる。隣に座る美智子が、そっと正男の手に自分の手を重ねた。
「ほんとうね。久しぶりだわ」
美智子の声は穏やかで、どこか懐かしそうだった。六十八歳になった今でも、その横顔には正男が初めて見た日の面影がある。
バスツアーの観光客たちがざわめく中、三人は江の島に降り立った。海風が頰をなでる。潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
「じいじ、はやく!」
明人が駆け出そうとする足を、正男がひょいとつかまえる。
「こらこら、転ぶぞ。じいじの手を握っとけ」
「はーい」
しぶしぶながらも、明人の小さな手が正男の大きな手の中におさまった。正男は苦笑いしながらも、その温かさに胸がほっとするのを感じた。
息子の進から「遊びに連れて行ってやってくれ」と頼まれたとき、正男は少し迷った。五歳の孫の相手は、体力がいる。しかし美智子が「ちょうどいいじゃない、私も行きたいわ」と言い出した。それで決まった。
美智子が行きたいと言えば、正男に否はない。五十年前からずっと、そうだった。
弁天橋を渡り、参道の土産物屋をのぞきながら、三人はゆっくりと島の奥へと歩いた。明人はたこせんべいをほおばり、目を丸くしている。
「甘い!」
「たこせんべいは甘くないんだよ」と正男が言うと、「あまい!」と明人はもう一度繰り返した。正男は笑った。
江島神社の石段を一段ずつ上りながら、正男は昔を思い出していた。この石段を、もっと若い足で駆け上がったことがある。あのとき隣にいたのは、まだ二十歳にもなっていなかった美智子だった。
「じいじ、ここきたことあるの?」
明人がくりくりとした目で見上げてくる。
「あるよ。ずっとずっと昔にな」
「なんかいも?」
「何回もだ。ばあばと一緒にな」
明人は「ふーん」と言ってまた石段を上り始めた。子どもの興味はすぐに次へ移る。
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