第6話「今夜[モ]ハーティーパーティー」
会議室の空気が、張り詰めていた。
いや、正確に言えば、最初だけだ。
僕――井戸上和彦、三十二歳、株式会社大和トレーディング営業第三部所属――がホワイトボードの前に立った瞬間から、その空気はじわじわと溶けていき、気づけば顧客の顔に笑みが浮かんでいた。
「以上が、今回のアジア向け資材調達における新ルートのご提案です。コスト削減率は従来比で約十八パーセント、リードタイムは二週間短縮。御社の第二四半期の目標達成に、必ずや貢献できると確信しております」
僕はレーザーポインターをスライドの最終ページに当てながら、静かに一礼した。
沈黙。
三秒。
顧客の山内部長が、太い腕を組んだままゆっくりと口を開いた。
「……井戸上くん、一つ聞いていいかね」
「はい、何なりと」
「このルート、本当に安定して動かせるのか? 東南アジアの物流は読みにくいと聞くが」
来た。これが山内部長の口癖だ。毎回、最後の最後に「本当に動かせるのか」と聞いてくる。試しているのか、本気で心配しているのか、たぶん両方だ。
「おっしゃる通り、東南アジア物流には変動要因があります。ですので今回は、メインルートに加えて二つの代替ルートを確保しております。こちらをご覧ください」
僕はタブレットを操作し、リスクヘッジの資料を山内部長の前に差し出した。三週間かけて作った、渾身の一枚だ。
山内部長が老眼鏡を鼻の頭に乗せて、じっくりと眺める。
また沈黙。
今度は十秒。
「……よし、進めよう」
その一言で、会議室の空気がふわっと緩んだ。隣に座っていた先方の若い担当者が、ほっとしたように肩を落とす。わかる。僕も内心、同じ気持ちだ。
「ありがとうございます。全力でサポートいたします」
深々と頭を下げながら、僕は心の中でガッツポーズをした。人知れず、静かに、品よく。
会議室を出ると、廊下で上司の桐島部長が待ち構えていた。五十代、白髪交じりの頭、いつも少しだけネクタイが曲がっている人だ。
「どうだった?」
「承諾いただけました」
「よしっ」
桐島部長が右手をぐっと握った。珍しい。この人がガッツポーズをするのは、年に二回あるかないかだ。
「お前、やるな。山内部長は去年うちの竹内が崩せなかった相手だぞ」
「竹内さんは運が悪かっただけですよ。あのタイミングで円高になれば、誰でも……」
「謙遜するな。素直に喜べ」
桐島部長がぽんと肩を叩いて、先に歩いていった。
僕は苦笑いをしながら、その背中を見送った。謙遜じゃない。本当にそう思っているのだが、こういうときに「ありがとうございます、僕の実力です」と言える人間が、世の中にどれくらいいるだろうか。
オフィスに戻ると、同期の中村が振り返って親指を立てた。
「取れた?」
「取れた」
「さすが。俺だったら山内部長の顔見た瞬間、トイレ行きたくなるわ」
「それは胃腸の問題だろ」
隣の席の後輩、入社二年目の松田くんが、おずおずと近づいてきた。
「井戸上さん、あの……プレゼン、すごかったです。山内部長って業界で有名な厳しい方じゃないですか。どうしたらあんなに落ち着いて話せるんですか?」
松田くんは本当に目を輝かせている。純粋な尊敬の目だ。
……悪くない。
正直に言えば、全然悪くない。
仕事においては、僕はわりと自信がある。プレゼンも、交渉も、部下のまとめ方も。大学時代、ひたすら勉強だけしてきた甲斐があったというものだ。
「慣れだよ、慣れ。あと準備。七割は準備で決まる」
「メモしていいですか!」
「どうぞ」
松田くんが猛烈な勢いでスマホにメモし始めた。僕はコーヒーを一口飲みながら、窓の外を眺めた。夕暮れの都心、オフィス街のビル群が夕陽を受けてオレンジ色に染まっている。
仕事は好きだ。本当に好きだ。
もし僕に弱点があるとすれば――
それは、仕事以外のすべてだ。

その夜、僕は同僚数人と、会社近くの高級クラブのラウンジにいた。
プロジェクト始動を祝う、ちょっとした打ち上げだ。店内は間接照明が柔らかく、ジャズが低く流れ、カウンターには色とりどりのボトルが並んでいる。ソファは革張りで、深く腰掛けると背骨がとろけそうになる。
こういう店に来るのは慣れてきたはずなのに、最初の一年はずっとソワソワしていた。今は平気だ。仕事の延長みたいなものだと割り切ると、不思議と落ち着く。
「和彦、今日は本当に助かったよ」
先輩の藤堂さんが、ウイスキーのグラスを傾けながら言った。四十代前半、顔が広くて人脈だけで生きているような人だ。
「いえ、チームみんなの準備があってこそです」
「また謙遜してる。桐島部長に怒られるぞ」
笑い声が上がる。僕もつられて笑った。
しばらく仕事の話が続いて、三杯目のビールに差し掛かった頃、藤堂さんが突然こちらを向いた。
「そういえば和彦、彼女は?」
来た。
この質問は定期的にやってくる。季節の変わり目みたいなものだ。
「いないですよ」
「作らないの? お前、顔もいいし、稼いでるし、仕事もできるじゃないか。モテるだろ?」
モテる。その言葉が、僕の中でやけに軽く聞こえた。
モテる、か。
大学時代の僕を知っている人間が聞いたら、腹を抱えて笑うだろう。図書館と研究室と自宅を往復するだけの四年間。コンパに一度だけ連れて行かれたが、何を話せばいいかわからなくて、ずっとウーロン茶を飲んでいた。その後、誰にも連絡先を聞かれなかった。
「今は仕事が充実してるので」
「それ、毎回同じ答えだな」
「毎回同じ質問をされるので」
また笑い声。場の空気が和んで、話題はサッカーの話に移った。
僕はそっと息をついた。
仕事は充実している。本当に。それは嘘じゃない。でも、それだけが理由じゃないことも、自分ではわかっている。
要するに、怖いのだ。
何が怖いって、あの頃の自分が怖い。誰とも話が噛み合わなくて、存在感が空気より薄かった、あの大学時代の井戸上和彦が、恋愛の話になると今でも顔を出してくる。
仕事ではいくら自信があっても、プライベートになった途端にあの頃に戻る気がして、どうにも踏み出せない。
グラスの中の氷が、ゆっくりと溶けていった。
帰宅したのは夜の十一時過ぎだった。
タワーマンションのエントランスに入ると、夜警のスタッフが軽く会釈してくれる。エレベーターで二十八階へ。廊下は静かで、絨毯が足音を吸い込む。
このマンション、正直に言えば、少し広すぎる。
一人で住むには広すぎる。営業成績が良くなって、去年引っ越した。眺めは最高だ。夜景が素晴らしい。でも夜景を誰かと一緒に見たことは、一度もない。
……いや、考えないようにしよう。
郵便受けを開けると、チラシに混じって一枚のハガキが入っていた。
差出人を見た瞬間、僕は少し動きを止めた。
『相生大学 経済学部 第七期同窓会のご案内』
大学の同窓会。
僕はハガキを持ったまま、エレベーターに乗り込んだ。日程を確認すると、来月の土曜日だった。手帳のスケジュールを思い浮かべる。その週末は、確か何も入っていない。
行くか、行かないか。
大学時代、あまりいい思い出はない。いや、勉強の思い出はある。卒論の達成感とか、ゼミの発表でうまくいった瞬間とか。でも人付き合いの思い出となると、ぼんやりとしたものしか浮かばない。
まあ、でも。
三十代になって、社会人として多少は成長したはずだ。昔みたいに話せなくて固まる、なんてことはないだろう。
それに、もし知り合いが一人もいなければ、料理だけ食べて早めに帰ればいい。
僕はハガキを机に置いて、参加に○をつけた。
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