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触れない感覚 “触れなかった恋”の五年

触れない感覚
“触れなかった恋”の五年
全10回 合本版
 
目次
第1回「内部通報が届いた夜」
第2回「ロッカー確認」
第3回「ログは嘘をつかない」
第4回「瑞穂危機」
第5回「教授選面接」
第6回「教授選取引」
第7回「教授になった日、机に封筒が置かれていた」
第8回「順番どおりに暴く」
第9回「家庭の体裁を降りる」
第10回「言わないまま残るもの」

 

第1回「内部通報が届いた夜」

時折、得も言えぬ切なさが胸の奥を攫う。
薄い紙が、誰かの五年を切り取ってしまう。
稲山亮太が四十九歳で地方病院へ出向したのは、教授戦に負けた直後だった。
本命と呼ばれ、実績を積み、順番どおりに勝ち上がってきた——はずだった。
けれど大学の“順番”は、記録に残らない場所で入れ替わる。
誰が誰に貸しがあるか。誰の顔を立てるか。誰を守るか。
それらが静かに流れを変える。
亮太は敗れ、大学を去り、外科医の少ない病院で外科部長として働くことになった。
四十九歳。若くはない。
けれど終わりでもない。終わりではないのに、社会はその年齢に「落ち着け」と命じてくる。
亮太は落ち着けなかった。
落ち着けない理由を、自分でもうまく言えない。
ただ、心のどこかにまだ“順番”が残っていた。
亮太の故郷は人口五千人ほどの山の中の集落だった。
田んぼの匂いと湿った土、冬の朝の霜の匂い。
それが世界の全部だった。
親は米農家。裕福ではない。兄がいる。
同級生は少ない。少ないから比べられる。比べられるから早く役割が決まる。
亮太は頭が良かった。スポーツもできた。
田舎ではそれが本人の努力以上に「期待」になる。期待は祝福の形をして、逃げ道を塞ぐ。
「亮太は賢いけん、都会に行け」
「医者になれ」
亮太は人づきあいが苦手だった。
苦手というより、必要以上に人の気配を読む癖があった。読むから疲れる。疲れるから距離を置く。距離を置くから、さらに読めるようになる。
中学、高校は田舎の公立。
バドミントンでインターハイに出た。
勝てば村が喜ぶ。喜ばれるほど息が詰まる。
勝っても楽にならない。勝てば次を求められる。次を求められるほど負けられなくなる。
合格発表の日、亮太は旧帝大医学部の番号を見つけた。
父は黙って頷き、母は泣いた。兄が何を言ったかは覚えていない。
その夜、亮太は自分の机の引き出しを閉め、鍵を回した。
自分の人生が別の場所に移った気がした。
都会は白かった。
白い建物、白い廊下、白い蛍光灯。
亮太はその白に気後れした。田舎の土の匂いが体から抜けない気がして、抜けないから恥ずかしく、恥ずかしいから黙った。
大学でもバドミントンを続けた。
ラケットを握っているときだけは余計なことを考えなくて済む。打てば結果が返る。勝ち負けがその場で決まる。
病院の世界と違って、うやむやがない。
教育学部に一つ下の彼女がいた。
明るい人だった。明るい人は暗い人間を救う。
亮太は救われた。救われたから結婚した。卒業と同時に結婚した。
けれど結婚は、救いのままでは続かない。
続くうちに制度になる。制度は温度を奪う。
子どもはできなかった。理由はいくつもある。検査の数字、タイミング、仕事、気持ち。
いくつもある理由の中で、一番大きかったのは、互いに“話さなくなったこと”かもしれない。
会話は生活の連絡事項だけになる。
「帰りは遅い」
「冷蔵庫にある」
「今月の支払い」
味噌汁の湯気が上がる。白い揺れ。
湯気は温かいはずなのに、どこか冷たい。
揺れて、ほどけて、消える。残るのは器だけ。生活だけ。
亮太は、その“残る生活”を守ることが誠実だと思っていた。
誠実という言葉で、言えないことを隠していただけかもしれないのに。
卒業後、亮太は消化器外科に入った。
関連病院を回り、大学院へ進み、アメリカへ留学した。
乾いた研究室、速い英語、溜まる書類。
それでも亮太は耐えた。耐えるのは得意だった。
帰国後は大学病院。
四十七歳で講師になり、しばらくして地方大学へ准教授として出た。
次の教授になるためだった。
教授戦は手術と違う。
手術には手順がある。順番がある。
教授戦にも順番はあるが、それは表に出ない。表に出ない順番は記録に残らない。
亮太は実績を積み、本命として臨んだ。
負けた。伏兵に敗れた。
敗北の理由は数えきれない。論文の数、外部資金、票、誰が誰に貸しがあるか。
そして何より、誰が“大学の都合”を守れるか。
当然、亮太は大学を去る。
外科医が少数の地方病院へ、外科部長として出向した。
四十九歳だった。
地方病院の廊下は狭く、病院の息遣いがそのまま残っていた。
亮太がひとりの事務職員に目を止めたのは、その慌ただしさの中だった。
制服が似合う。
背筋が伸びている。歩く速度が一定。
凛としているのに、冷たくない。
仕事の精度が、言葉の代わりに温度を持っている。
中山瑞穂。二十九歳。独身。
美人だが目立つ美人ではない。目立たないから、見落とされる。
見落とされる人ほど、組織の穴を塞ぐのがうまい。
「この同意書、順番が飛んでます」
瑞穂は淡々と言った。
痛みを隠す淡々さ。誰かを責めないための淡々さ。
「飛ばすと、どうなる?」
亮太が聞くと、瑞穂はほんの少しだけ目を上げた。
「後で、誰かが苦しみます」
誰か。
誰かはいつも、弱いところにいる。
患者かもしれない。家族かもしれない。現場の看護師かもしれない。
あるいは、責任を押しつけられる一人の職員かもしれない。
亮太は、その“誰か”をもう見たくないと思った。
だが同時に知っていた。
“誰か”がいない組織など、存在しないことを。
それでも亮太は、瑞穂の言葉に救われた気がした。
順番がある。
順番があるなら、守れるものがある。
夜、亮太が帰宅すると味噌汁の湯気が上がっていた。
白い揺れ。体裁の温度。
妻は「おかえり」と言い、亮太は「ただいま」と答える。
それだけで生活は成立する。
成立するからこそ、崩れないまま冷えていく。
数日後の夜だった。
救急から連絡が入る。
「急性腹症、ショック。外科お願いします」
亮太は上着を掴み、病院へ向かった。
手術は間に合った。
間に合ったはずだった。
術後、患者は急変した。
出血ではない。塞栓でもない。
何かが“順番どおり”ではなかった気配だけが残る。
誰も「どこで飛んだか」をはっきり言わない。
言わないことが、組織の防御になる。
翌日の事故検討会。
瑞穂はいつもより静かに席に着き、紙束を机に置いた。
薄いのに重い。
「事故の検討を、感情で終わらせたくないです」
瑞穂は言った。
「再発防止の“順番”を作りましょう」
会議室の空気が割れた。
割れた破片が、瑞穂へ向かって飛び散ったのが、亮太には見えた。
誰かが小さく言った。
「事務のくせに」
別の誰かが続けた。
「医師を監視してるんだろ」
その瞬間、亮太は理解した。
事故の痛みは、患者と家族のところだけに落ちない。
組織は痛みを分散させる。
分散の先は、いつも弱いところだ。
会議後、廊下で瑞穂は亮太に小さく頭を下げた。
「先生、すみません。出過ぎましたか」
亮太は言葉を探した。
慰めは薄い。励ましは軽い。
正しさは、重い。
「……順番は、必要だ」
それだけ言うのが精一杯だった。
それ以上を言えば、恋になってしまう気がした。
恋になれば、彼女は守れなくなる気がした。
その夜、亮太の机にコピー用紙が一枚だけ差し込まれていた。
差出人のない紙。
——事故の責任は監査にある。
——中山瑞穂は外部に情報を漏らしている。
——次はロッカーだ。
亮太は紙を握りつぶしそうになり、指先で角を押さえた。
角の硬さが、触れたい衝動を止める。
引き出しを開ける。
そこには、以前からしまってあった封筒がある。差出人のない封筒。
亮太は封筒の角を押さえたまま、ゆっくり開く。
——臨床試験の登録運用に、重大な不正がある。
——企業との関係は、すでに“引き返せない”ところまで進んでいる。
——順番を守って暴かなければ、あなたが先に消される。
封印。
亮太は知っている。
疑いは、事実で消えないことがある。
消える前に、誰かが先に壊れる。
——次はロッカーだ。
紙の文言が、頭の奥で反復する。
亮太は電話を取る寸前でやめた。
触れれば、彼女は“当事者”になる。
当事者は、証拠になる。
代わりに机の上へ、付箋を四枚並べた。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
順番を守れば、守れるものがある。
そう信じるために。

 

第2回「ロッカー確認」

ロッカー確認は、突然始まる。
予告はあるのに、心は準備できない。
「中山さん、総務課からです」
その一言で、瑞穂の中の時間が止まった。
——次はロッカーだ。
亮太の机に挟まっていた紙の文言が、なぜか瑞穂の胸の奥でも反復している。
瑞穂は制服の袖口を直した。
鎧を整える指先は、震えを隠すためにある。
病院長室の窓は大きい。
光が多い場所ほど、人は“正しい顔”で人を切る。
事故検討会の翌日から、廊下の空気が変わっていた。
挨拶が短くなる。目が合わない。
通り過ぎるときだけ言葉が漏れる。
「事務のくせに」
「医師を監視してる」
噂は善意の顔をして歩く。
そして疑いの矢印は、弱いところへ向く。
事実が確かめられる前に、“疑われ役”が必要になる。
瑞穂は知っている。
組織は疲れると、誰かを疑うことで休もうとする。
病院長室。
机の上に置かれた紙は薄いのに重かった。
病院長は柔らかく言った。
「あなたを疑いたいわけじゃない。ただ病院が割れている。だから……いったん配置換えも考えたい」
配置換え。
優しさの形をした隔離。
総務課長が淡々と続ける。
「ロッカー確認とPCログ確認をします。協力してください」
瑞穂の喉が乾いた。
「……分かりました」
ロッカー室の廊下は長かった。
長いほど屈辱は育つ。
わざと残っている気配がある。視線が刺さる。
「開けてください」
鍵を差し込む。指先が冷たい。
扉が開く。
中身はいつもどおり——手帳、ペン、監査手順書、予備のストッキング。
並びまで、いつもどおり。
いつもどおりであることが、なぜこんなに苦しいのか。
総務課長が言う。
「外部に渡した資料は?」
「契約範囲の監査資料だけです。規程どおりです。記録もあります」
疑いの役を演じる人の目は、疑いの色をしている。
けれどその目は、人を疑っているのではなく、人を“疑われ役”に固定しているだけだ。
「ログも確認します」
瑞穂は頷いた。
頷くしかない。
頷けば“協力的”になる。頷かなければ“怪しい”になる。
どちらに転んでも、疑いは残る。
その日の夕方、亮太は救急外来の廊下で瑞穂を見た。
いつもより歩く速度が一定だった。一定すぎる。
揺れないようにしている。
「中山さん」
亮太が呼び止めると、瑞穂は一瞬だけ目を伏せた。
「大丈夫です。先生、仕事をしてください」
大丈夫。
大丈夫という言葉は、誰かを遠ざけるための言葉でもある。
亮太は言葉を探した。
慰めは薄い。励ましは軽い。
結局、言えたのはこれだけだった。
「……順番を守ろう」
瑞穂は微かに笑ったように見えた。
笑ったのではない。笑う形をした鎧だった。
夜、瑞穂は机の引き出しを開けた。
控えの紙一枚。ロッカー確認の通知書。
紙の角が、指先に食い込む。
角の硬さに、触れたい衝動が溜まる。
触れたい衝動は、今日も行き場がない。
引き出しを閉める。
その封印は、今日は少しだけ苦い。

 

第3回「ログは嘘をつかない」

証拠が出る瞬間は、いつも静かだ。
誰かが感情を荒げるより先に、紙束が机に落ちる。
ログは嘘をつかない。
嘘をつくのは言葉だ。
会議室に入る前の廊下で、瑞穂は一度だけ立ち止まった。
立ち止まったのは、息を整えるためだと自分に言い聞かせた。
本当は、立ち止まらないと足が勝手に逃げてしまいそうだったからだ。
乾いた笑いは、誰かを切る前の準備だ。
扉が開く。
蛍光灯の白が目に刺さる。机の木目が薄い。薄いほど、話も薄くなる。
瑞穂は端の席に座らされていた。
「ここでいいですか」と言う前に、椅子の背が冷たく背中に触れた。
背中を預けた瞬間、当事者になる気がした。
当事者は、証拠になる。
「それでは状況を整理します」
相馬は感情を荒げない。
感情を荒げれば戦いになる。戦いは弱いところから折れる。
折れるのは、現場で“触れた人”からだ。
相馬が紙束を机に置く。
薄い紙なのに、槌のような重さがあった。
机ではなく、空気が沈んだ。
相馬は付箋を四枚、机の中央に並べた。
指先が迷わない。迷わない指は、逃げ道を塞ぐ。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
「原本は内部通報。ログは印刷・送信・アクセス。触れた人は当直含め全員。議事録は事実のみ」
“当直含め”という言葉に、誰かが目を伏せた。
伏せた視線は、罪の匂いを含む。
総務課長が咳払いをして言った。
「しかし内部通報が——」
相馬は遮らない。遮らないことで“敵”を作らない。
「内部通報は内部通報です。ただし、懲戒に足る証拠は確認できません」
相馬は投影画面を指し示す。
数字の列。時刻。端末番号。印刷回数。
ログは冷たい。冷たいものは嘘を許さない。
「中山さんの端末から外部送信はありません。契約範囲内の共有のみ。個人情報の添付もありません」
相馬は顔を上げないまま続けた。
「整合しています。ログは嘘をつかない」
瑞穂の胸の奥が、ほんの少しだけ緩む。
守られた——そう思った瞬間、別の痛みが来る。
守られたのは瑞穂ではなく、“仕組み”だ。
瑞穂という人間は、仕組みが働いた証明書にすぎない。
病院長がゆっくり言った。
「……誤解ということで」
誤解ということで。
謝らずに終わらせる言葉。
傷の上に薄い紙を貼る言葉。
戻る空気の中で、瑞穂だけが取り残される。
廊下で相馬が瑞穂の横に立った。距離が近すぎない。
「守れました」
瑞穂は短く返す。
「守れたのは……仕組みです」
相馬は一拍置いて言った。
「あなたが仕組みです。だから、折れないで」
折れないで。
折れる前提の言葉は、優しさに似た刃だ。
その夜、亮太は味噌汁の湯気を見ていた。
白い揺れ。揺れて、ほどけて、消える。残るのは器だけ。生活だけ。
妻が言う。
「今日、何かあった?」
亮太は答えない。
答えれば、瑞穂が当事者になる。
当事者は、証拠になる。
引き出しの封筒を押さえ、鍵を回す。
その封印が、始まりのように思えた。

 

第4回「瑞穂危機」

疑いは、晴れてからが本番になる。
晴れた疑いは、次の疑いの土台になる。
“誤解ということで”は終わりではなく、予告だ。
「中山さん、少し来てください」
総務課長の言い方は丁寧だった。丁寧であるほど屈辱が増える。
瑞穂は袖口を直す。鎧の手入れ。
歩き出すと、廊下の天井の照明がやけに明るい。明るいほど、人は影を作る。
会議室に入る前の廊下で、誰かが小さく言う。
「また?」
“また”という言葉は釘だ。
誤解の上に、釘を打つ。
会議室。
人が揃いすぎている。揃いすぎるのは儀式に似る。
「ロッカー確認を再度。今回は立ち会いを増やします」
増やす。屈辱を増やす丁寧さ。
ロッカー室。
鍵穴が近い。目線が多い。息が浅い。
「開けてください」
指先が震える。震えは“罪”の顔をする。
罪を作るのは証拠ではなく空気だ。
扉が開く。
いつもどおりの並び。手帳、ペン、監査手順書。
“いつもどおり”が、なぜこんなに苦しいのか。
棚の奥から、小さな影が落ちた。
床に転がる。
USBメモリ。
黒い。小さい。軽い。
軽いのに、胸が重い。
「これは?」
総務課長の反応が少しだけ変わる。それは、結論が近い合図だ。
瑞穂は首を振る。
「知りません」
知りません、は弱い。
弱い言葉は切られる。
誰かが息を飲み、誰かが囁いた。
「やっぱり……」
“やっぱり”は、事実より速い結論だ。
相馬が前へ出た。
怒らない。怒れば戦いになる。
戦いは弱いところから折れる。折れるのは事務だ。
相馬は付箋を置く。
①原本 ②ログ ③触れた人 ④議事録
「まずログです。感情を入れない」
接続履歴。時刻。端末番号。監視カメラの死角。
空白はだいたい誰かが作る。
相馬が言う。
「中山さんの端末ではありません。接続は深夜。当直事務の端末です」
会議室の空気が少し戻る。
戻るのは空気で、瑞穂の心ではない。
“やっぱり”がまだ刺さっている。
病院長が言う。
「……誤解ということで」
また薄い紙が貼られる。
薄い紙は、次の疑いの土台になる。
廊下で亮太が瑞穂を見つける。
瑞穂の歩幅は一定。一定すぎて揺れない。揺れないのは崩れそうだからだ。
「……大丈夫か」
瑞穂は目を上げない。
「大丈夫です。先生、仕事をしてください」
大丈夫は壁になる。
壁の向こうで、人は泣き方を忘れる。
亮太は言う。
「順番を守ろう」
それ以上は言えない。
触れれば当事者になる。
当事者は、証拠になる。
夜、瑞穂は引き出しを閉める。
その封印は、今日は苦い。

 

第5回「教授選面接」

白い部屋は嘘をつきやすい。
嘘が白に溶けるからだ。
教授選の面接室は、病院長室と似ていた。
光が多い場所ほど、人は“正しい顔”で人を切る。
面接室の前の廊下は、病棟の夜勤帯みたいに静かだった。
四十九歳、という数字が背中に貼り付いている。
若手の伸びしろはもう言い訳にできない。
功績も、失敗も、全部が本人のものになる年齢。
だからこそ、ここでの一言は“未来”ではなく“過去”まで連れて裁かれる。
亮太は椅子に座る前に、机の角を一度だけ見た。
角の硬さに触れたい衝動を押し込める癖。
その癖が出るのは、誰かが落ちる未来が見えているときだ。
——瑞穂のロッカーが開いた。
——USBが落ちた。
——“誤解ということで”。
薄い紙が貼られる感覚。
——順番がなければ人が切られる。
亮太は、瑞穂に連絡しない。
触れれば当事者になる。
当事者は証拠になる。
証拠になった瞬間、守るべきものが守れなくなる。
守りたいから、触れない。
触れないほど、触れたい衝動だけが濃くなる。
面接官は三人。水のボトルが二本。
亮太は椅子に座り、背中をつけない。背中を預けた瞬間、飲み込まれる気がした。
「稲山先生。あなたは正しい。しかし正しさは大学を割る」
柔らかい言い方。柔らかいほど危険だ。
「臨床試験の件、どこまで踏み込みますか」
質問は選択肢に見せかけた命令だ。
限定的に止めれば勝てる。
最後まで行けば落ちる。
亮太の指先が机の角を押さえる。
角の硬さに、触れたい衝動を押し込める癖。
——瑞穂のロッカーからUSBが落ちた。
——“証拠”は作られる。
——順番がなければ人が切られる。
亮太は息を吸う。
「順番を守って踏み込みます」
「具体的に」
面接官の目が動く。目の動きは、採点に似ている。
「個人を吊るすためではなく、運用を明文化して再発を防ぐ」
「原本、ログ、触れた人、議事録。順番を固定します」
「大学の信用は?」
信用、と言われるたびに隠せと言われている気がする。
「信用は“隠す”ことで守れません」
言った瞬間、部屋の温度が下がった。
面接官が微笑む。
「では、あなたが割るのですね」
割る。
正しさの罪名。
亮太は答える。
「割るのではなく、割れないように仕組みにします」
廊下へ出た瞬間、肺に空気が入る。
スマホを握り、送信ボタンの上で指が止まる。
押せば後戻りできない。
後戻り不能の感覚が残った。
押したのは、戦うためではない。
燃やさないためだ。
燃やさないために、消されない量を残す。
亮太は画面を閉じない。
閉じれば、今日が“なかったこと”になる気がした。
なかったことにすれば、また“誤解ということで”が起きる。
薄い紙は、次の疑いの土台になる。
次に来るのは、取引だ。
善意の顔をした取引。
「限定的に止めろ」——その一言で、誰かを落とす取引。
亮太は歩きながら、心の中で付箋を四枚並べる。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
順番を守る。
守るための順番だけは、売らない。

 

第6回「教授選取引」

取引は、いつも「善意」の顔で来る。
守るためだ、と言う。
守るために、誰かを切れ、と言う。
応接室には窓がなかった。
窓がないと、時間が溶ける。時間が溶けると、言葉が重くなる。重い言葉ほど、人の人生を軽く扱う。
蛍光灯の白が、机の木目を薄くしている。木目が薄いほど、話も薄くなる。薄い話ほど、傷は深い。
有力者は笑っていた。笑いには温度があるはずなのに、ここには温度がない。
笑いは“親切”の形をしている。
親切の形をした言葉は、拒みづらい。
「稲山君。座って」
亮太は座らなかった。
座れば、交渉の席につく。交渉の席につくということは、同じ土俵に上がるということだ。
亮太は、上がりたくなかった。上がれば、瑞穂が落ちる。
「君はクリーンでいい。だから頼みがある」
頼み。
取引の別名。
亮太の指先が机の角に触れる。
角の硬さに、触れたい衝動を押し込める癖。
その癖が出るとき、亮太はいつも怯えている。
怯えているのは、誰かが傷つく未来が見えているからだ。
「臨床試験の件。最後まで行くと大学が傷つく。限定的な是正で止めよう」
限定的。
その言葉が亮太の胃の奥を冷やす。
限定的、は正しさの“分割払い”だ。払った気になる。残りは闇に押し込む。
「君は正しい。だが正しさは大学を割る」
有力者は微笑みながら言った。
柔らかい微笑みは、刃の柄だ。
「それから——」
その「それから」の間が長かった。
間が長いほど、真ん中に毒が置かれる。
「地方の病院で監査の事務員が疑われてるらしいな」
名前を言わない。
言わないことで、切る相手を“人”から“案件”に変える。
亮太の胸の奥が硬くなる。
瑞穂のロッカー。USB。
“誤解ということで”。
薄い紙が貼られる感覚が、また蘇る。
「落ち着かせてやる」
有力者は続ける。
「君が大人になれば、向こうも助かる。君が波風を立てれば、向こうは見せしめが必要になる」
見せしめ。
その言葉が、部屋の白さをさらに冷たくする。
「君のせいで誰かが落ちる。分かるね?」
分かる。
分かりすぎる。
順番を守るほど、弱いところが切られることを亮太は知っている。
亮太は頷かない。
頷けば終わる。
終われば瑞穂は“守られる”名目で隔離される。
配置換えという名の隔離。
隔離は、仕組みを守るふりをして、人を切る。
「……検討します」
検討します。
保留の言葉。
だがこの部屋では、保留は借りになる。借りは返済期日を決められる。
帰りの廊下。
エレベーターの鏡に映る自分の顔が、少しだけ老けて見えた。
四十九歳という数字は、若さと老いの境界に立つ数字だ。
境界に立つと、人はいつもどちらにも属せない。
スマホが震える。
瑞穂からではない。
妻からでもない。
事務局からの面接日程。淡々とした通知。
亮太は、画面を閉じる。
閉じる動作が、決断のように思える。
夜、自宅。
味噌汁の湯気が揺れる。白い揺れ。
揺れて、ほどけて、消える。残るのは器だけ。生活だけ。
妻はパソコン画面を見たまま言った。
「私は私をやる」
亮太が「ごめん」と言いかける。
妻は首を振る。
「謝らないで」
静かな言い方。静かなほど、決意が強い。
「謝られると私は許す役になる。許す役は降りる」
許す役。
家庭の体裁の中で、妻が押し付けられてきた役。
妻は入力欄に文字を打つ。
カーソルが瞬く。瞬きは、人生が動く前の呼吸だ。
送信ボタンの上で一拍止まり、押す。
軽い。
軽いのに、家の空気が少し変わる。
「離婚したいわけじゃない」
妻は画面から目を離さず言う。
「離婚しないのは、体裁のためだけでもない。傷を増やさないため。互いを奪わないため。……でも私は、“私”を増やしたい」
私を増やす。
それは、体裁の外へ一歩出ること。
亮太は頷く。
頷きは祝福であり、遅すぎた承認でもある。
同じ夜、亮太は机に向かった。
有力者の言葉が頭の中で反復する。
限定的に止めろ。落ち着かせてやる。見せしめ。
亮太は“順番”を思い出す。
順番を守れば、燃えない。
だが、守りすぎると消される。
封筒の角を押さえる。
角の硬さに触れたい衝動を押し込める。
触れたい衝動の先に瑞穂がいる。
瑞穂に触れれば、瑞穂は当事者になる。
当事者は証拠になる。
亮太は、誰にも連絡しないまま、送信ボタンだけを押した。
残すべき場所へ、残すべき順番で。
後戻り不能の感覚。

 

第7回「教授になった日、机に封筒が置かれていた」

教授室の鍵は重い。
鍵束の重みが、そのまま役割の重みになる。
亮太は鍵を回した。
扉が開く。
肩書きの匂いがする。
なのに空気は冷たい。歓迎の温度がない。
教授室の窓から見えるキャンパスは静かだった。
静かすぎる静けさは、嵐の前に似ている。
机の上に封筒が置かれていた。
差出人はない。
封筒の紙は厚くないのに、存在感がある。
“ここに置ける”という力の匂い。
亮太は封筒の角を押さえた。
角の硬さに、触れたい衝動を押し込める。
触れたい衝動は、瑞穂へ向かう衝動と同じ形をしている。
中身は短い箇条書きだった。
——研究費の使途。
——寄付講座の便宜。
——企業との関係。
——臨床試験の副次評価項目のすり替え。
——倫理委員会の形骸化。
——次は、あなたが“守る側”に取り込まれる。
取り込まれる。
それは、守るために黙る側になること。
すぐに会議が始まる。
教授になった日から、会議は息をつく暇を奪う。
会議は紙でできている。紙は薄いのに重い。
幹部会。
大きな机。並ぶ名札。名札の下で人は別の顔になる。
「稲山先生、就任おめでとう。期待している」
笑顔が並ぶ。笑顔は安全な刃だ。
そして同じ口が言う。
「ただ——大学の信用を守ってほしい。順番を考えて」
順番。
また人を切る言葉。
亮太は、順番を守る。
だからこそ“順番を盾にして”進める。
順番という言葉を、切るためではなく守るために使う。
机に紙束を置いた。
薄いのに重い。
会議室の空気が沈む。沈んだ空気の中で、人の目が動く。
「現状の運用では再発します」
亮太は言う。
「原本、ログ、触れた人、議事録。順番を固定して、抜け道を塞ぎます」
「急ぎすぎだ」
誰かが言う。
急ぎすぎ、は危険の合図ではない。多くの場合、都合が悪いの合図だ。
「大学が割れる」
また誰かが言う。
割れる。正しさの罪名。
亮太は、感情を荒げない。
荒げれば戦いになる。戦いは、弱いところから折れる。
折れるのは、だいたい“触れた人”だ。現場の人だ。
「割れないように順番を作るんです」
亮太は淡々と返した。
「隠すほど割れます。記録を残せば割れません」
沈黙が落ちる。
沈黙が落ちる瞬間は、紙が落ちる瞬間に似ている。
その頃、地方病院。
瑞穂は監査の“中枢”へ引き上げられていた。
引き上げ、という言葉は昇進に見える。
実際は、矢面に立つ場所へ押し出されることでもある。
「中山さん、これもお願い」
「中山さん、ここも記録残して」
「中山さん、次の会議の議事録、早めに」
議事録。
議事録は盾だ。
盾は重い。盾を持つ人ほど、疲れる。
医師側の反発は露骨ではない。
露骨な反発は記録に残る。
反発は、もっと上品な形で来る。
「忙しいなら、監査は外注したら?」
「事務が口を出しすぎると現場が萎縮するよ」
「順番を考えて」
順番。
ここでも、切る言葉。
瑞穂は“仕組み”を守る人になりつつあった。
守るほど温度が減る。
守るほど笑えなくなる。
亮太は、瑞穂に連絡しない。
触れれば、瑞穂は当事者になる。
当事者は、証拠になる。
触れないことが守りだと信じたい。
けれど触れないほど、恋だけが濃くなる。
濃くなった恋は、言葉がないぶん、息をする場所がない。
その夜、亮太は教授室の引き出しを閉めた。
封印。
封印は、恋に似ていた。

 

第8回「順番どおりに暴く」

不正は、派手に暴けない。
派手に暴けば燃えるのは“仕組み”のほうだ。
だから亮太は、順番どおりに積む。
相馬が教授室に来たのは、日が落ちきる少し前だった。
窓の外の空は薄く暗い。薄い暗さは紙の色に似ている。
紙の色が暗いほど、人は顔を明るく作る。明るく作った顔ほど、嘘が混じる。
「順番を崩さないでください」
相馬は開口一番に言った。
「崩すと、壊れます」
壊れる。
大学が壊れるのか。
誰かが壊れるのか。
たいていは両方だ。
相馬は封筒を机に置く。
封筒の角が鋭い。角はいつも、触れたい衝動の逃げ場所になる。
触れたい衝動の先に瑞穂がいる。
「今日は“落とす”ものがあります」
紙束が出る。
厚い。厚いほど、言い逃れが減る。
紙束の厚さは、人生の重さに似る。
相馬が机に置く。
沈んだ空気の中で、亮太は付箋を四枚並べる。
癖になっている。
儀式は人を守るためにあるはずだ。
ここでは、守るために戦うための儀式になる。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
「原本はこれです」
相馬は寄付講座の契約書と、研究費の申請書類を重ねた。
「目的外と断定できないように、薄く処理されています。だがログが残る」
ログ。
数字の列。承認ルート。誰がいつ押したか。
押した人。触れた人。
触れた人を吊るすのは簡単だ。簡単なことほど危険だ。
相馬は淡々と続ける。
「企業側の便宜。臨床試験登録の抜け道。副次評価項目のすり替え。倫理委員会は“承認したことにする”運用」
亮太は息を吐いた。
息が白くならない部屋で、白いものだけが増える。
白い紙。白い壁。白い顔。
白さは、汚れを隠すのに都合がいい。
「このままだと、誰かが吊られます」
相馬が言う。
「吊るのが目的じゃないのに、吊られる人が出る。だから順番が要る」
順番。
守るための順番。
切るための順番。
亮太は“守る順番”を選ぶ。
燃やさない。
だが、消されない速度で進める。
「議事録に残します」
亮太は言った。
「個人を吊らない形で、運用を変える。触れた人を守りながら、抜け道を塞ぐ」
相馬は頷く。
頷きは賛成ではなく、確認だ。
確認は、次の反発を呼ぶ。
「嫌われます」
相馬は感情のない調子で言った。
「仕組みを守る人は、孤独になります」
孤独。
その言葉が瑞穂と重なる。
瑞穂はいま、反発の中で順番を守っている。
守るほど、笑えなくなっている。
亮太は答える。
「嫌われても、順番は残す」
その瞬間、亮太は理解する。
教授になったから守れるものが増えたのではない。
教授になったから、捨てなければならないものが増えたのだ。
捨てなければならないものの中に、瑞穂への思いがある。
正しくあろうとするほど、触れない理由が増える。
触れない理由が増えるほど、触れたい衝動は濃くなる。
相馬が帰ったあと、亮太は机に残った紙の匂いを嗅いだ。
紙は、何も語らない。
語らない紙が、一番語る。
引き出しを閉める。
封印。
封印は、今日も恋に似ていた。

 

第9回「家庭の体裁を降りる」

離婚しない痛みは、静かに続く。
傷を増やさないための合意。
互いを奪わないための合意。
それでも痛む。
体裁は盾になる。盾は抱きしめられない。
朝、台所の窓は曇っていた。
曇ったガラスは、外の景色を柔らかくする。柔らかくした景色の中で、家だけが輪郭を持っている。
家の輪郭は、四十九歳の男の背中に似ていた。固い。崩れない。崩れない代わりに息ができない。
妻が言った。
「今日、面接」
亮太は箸を止めた。
味噌汁の湯気が揺れる。白い揺れ。
揺れて、ほどけて、消える。残るのは器だけ。生活だけ。
「……面接?」
亮太が聞き返すと、妻は頷いた。
「あなたの世界は、いつも“順番”でできてる」
妻は淡々と言う。淡々とした言い方ほど、長い時間が詰まっている。
「順番があるから、あなたは守れる。でも私は、その順番の外で待たされ続けた」
待たされる。
待たされる人は、当事者になれない。
当事者になれない人は、証拠になれない。
証拠になれない人は、守られない。
守られないのに、体裁だけは守る。
「離婚したいわけじゃない」
妻は言う。
「離婚しないのは、愛があるからだけじゃない。傷を増やさないため。互いを奪わないため。……体裁のためも、少しはある」
少しはある。
それが本当の言葉だった。
体裁から逃げない言葉。体裁の中で、息をしようとする言葉。
妻は続けた。
「でも私は、許す役を降りる。支える役も降りる。私の人生を、私の順番でやる」
許す役。
亮太は、その言葉を聞くたび胸の奥が痛くなる。
妻が許す役を降りるということは、亮太が“許される側”に戻れないということだからだ。
許される側に戻れないのは、ある意味、正しさの代償と似ている。
戻れない場所を増やしていく。
亮太はコーヒーを淹れ、湯気を見た。
白い揺れ。揺れて、ほどけて、消える。
器だけが残る。器はいつも残る。残るから、痛い。
妻が玄関で言った。
「私、もし受かったら働く。受からなくてもまた受ける。そういう順番にする」
「……うん」
亮太はそれしか言えない。
祝福の言葉を言うべきなのに、祝福はどこかで“遅かったね”を含む気がした。
遅かったのは妻ではなく、亮太の方なのに。
妻が靴を履き、鍵を回す。
封印に似ていた。
家庭の体裁にひびが入った。
病院では、亮太が会議を回していた。
会議室の空気は薄い。薄い空気は、言葉を軽くする。
軽い言葉ほど、人の人生を切る。
「稲山先生、順番を考えて」
またその言葉。
順番は、守るための道具だ。
だが守る順番と切る順番は、紙一重だ。
亮太は“守る順番”を選ぶ。
燃やさない。
でも消されない量を残す。
机に紙束を置く。
薄いのに重い。
消すほど痕が残る量。
痕が残るほど、守れる。
夕方、妻から短いメッセージが届く。
「採用。来月から」
句点がない。句点がないほど、まっすぐだ。
亮太はスマホを握り、親指を止める。
おめでとう、と打つべきだ。
でもその言葉の裏に「俺は何をしていた?」が混じってしまう。
混じった瞬間に、祝福が謝罪に変わる。
妻は謝罪を欲しがっていない。欲しがっていないのに、ずっと受け取ってきた。
亮太は短く送る。
「おめでとう」
送信。
軽い。
軽いのに、胸が痛い。
痛いのは、戻れない場所がまた一つ増えたからだ。
妻が前に進んだのは救いだ。
救いは、同時に“こちらが置いていかれる”痛みでもある。
一方、地方病院。
瑞穂は監査の中枢にいて、反発の矢面に立っていた。
矢面に立つ場所は、風が強い。風は制服の襟を冷やす。
会議室。
医師の席が奥に固まる。固まるのは味方の確認だ。
瑞穂の席だけが少し浮く。浮く席は標的になる。
「監査が細かすぎる」
誰かが言う。
「現場が萎縮する」
別の誰かが言う。
萎縮、という言葉は便利だ。
瑞穂は立ち上がらない。立ち上がると戦いになる。
戦いは弱いところから折れる。
折れるのは事務だ。だから折れない。
瑞穂は付箋を四枚並べた。
並べ方はいつも同じ。儀式に似ている。
儀式は心の柵だ。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
「順番を固定します」
瑞穂は言う。言葉を強くしない。強くすると“正義の人”にされる。
「原本とログを先に。触れた人を吊るさない。議事録は事実だけ」
「事務が出過ぎる」
瑞穂は笑い返さない。
笑い返せば同じ土俵になる。
同じ土俵に上がった瞬間、瑞穂は“当事者”として切られる。
「これがないと、また“誤解ということで”が起きます」
瑞穂は言った。
「誤解は終わりではありません。次の疑いの土台です」
一瞬、会議室が静かになる。
静かになるのは勝利ではない。
ただ、空気が瑞穂の言葉を一度だけ通しただけだ。
会議後、廊下で誰かがすれ違いざまに言う。
「配置換え、考えた方がいいんじゃない?」
配置換え。
隔離の丁寧語。
瑞穂は歩幅を一定にして歩いた。
一定にしないと崩れそうだった。
崩れたら当事者になる。
当事者は証拠になる。
証拠になった瞬間、守るものが守れなくなる。
夜、引き出しを閉める。
封印。
封印は、恋に似ている。
恋は封印しないと壊れる。
封印すると、息ができない。

 

第10回「言わないまま残るもの」

最後に残るのは、勝利でも破滅でもない。
“触れなかった”という事実だけが、静かに残る。
薄い紙が、人生を決めていく。
教授室のドアは、外からは重そうに見えない。
重いのはドアではなく、入ったあとだ。
亮太は机に座り、紙の匂いを嗅いだ。
紙は何も語らない。
語らない紙が、いちばん語る。
電話が入る。
“善意”の皮を被った言葉が返ってくる。
「稲山先生。大学を守るために、落ち着かせてほしい」
落ち着かせる。
瑞穂の病院を落ち着かせる、と言い、瑞穂を切る準備をする言葉。
落ち着かせる、と言い、臨床試験の不正を薄くする言葉。
「臨床試験は限定的に止めよう。ここで止めれば、地方も守れる」
守れる。
守れるという言葉の中に、誰かの沈黙が要求されている。
「順番を考えて」
またその言葉。
順番という名の沈黙。
順番という名の取引。
順番という名の、配置換え=隔離。
亮太は机の角を押さえる。
角の硬さに、触れたい衝動を押し込める癖。
触れたい衝動の先に、瑞穂がいる。
制服の硬い襟。揺れない歩幅。
“先生、仕事をしてください”という壁。
触れれば、当事者になる。
当事者は、証拠になる。
亮太は、瑞穂に触れないことで守ろうとする。
守ろうとして、恋だけが濃くなる。
濃くなった恋は、言葉がないぶん息ができない。
亮太は、順番を守る人間だ。
だからここでも順番を守る。
守る順番を、切る順番に渡さないために。
机の引き出しから付箋を取り出し、四枚並べる。
儀式。防御。自分の心の柵。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
「原本から」
亮太は独り言のように言った。
原本は動かせない。ログは消せない。
触れた人は守らなければならない。
議事録に残せば、消すほど痕が残る。
相馬の言葉が反復する。
“消せない量にしてください。消すほど痕が残る量に”
亮太は紙を積む。
机に置く。
薄いのに重い。
沈む空気。
沈んだ空気の中で、亮太は呼吸を整える。
燃やさない。
だが消されない速度で進める。
法務。監査。倫理。
議事録。議事録は嘘をつきにくい。
嘘をつきにくいものほど、嫌われる。
亮太は送信ボタンの上で指を止める。
ここで押せば、敵が増える。
押さなければ、取引が勝つ。
取引が勝てば、瑞穂が切られるかもしれない。
切られなくても、また“誤解ということで”が貼られる。
薄い紙は、次の疑いの土台になる。
亮太は押す。
後戻り不能の感覚。
救いはいつも、代償を連れてくる。
その夜、亮太は瑞穂に電話をしない。
しないことが守りだと思っている。
でも本当は怖いのだ。
触れた瞬間に、彼女が証拠として記録されるのが。
記録されれば守れる、はずなのに。
守るために記録するはずなのに。
恋が記録されると、恋は壊れる。
瑞穂も、亮太を呼ばない。
呼ばないことが誠実だと思っている。
でも本当は痛いのだ。
呼べば、戻れない場所へ戻ってしまうから。
戻れば、いま守っている仕組みが崩れるから。
妻が帰宅し、言った。
「私は、私の仕事を始める」
亮太は頷いた。
頷きは祝福であり、別れでもある。
体裁の中に残ることを選んだ夫婦の、静かな別れ方。
「離婚はしない」
妻は言う。
「離婚しないのは、愛があるからだけじゃない。傷を増やさないため。互いを奪わないため。……でも、痛いよ」
痛い。
妻が痛いと言ったのは、初めてだった。
痛いと言えるようになった人は、もう戻らない。
戻らないのに、同じ家にいる。
同じ家にいることが、痛みになる。
瑞穂は最後の会議を終え、机の引き出しを閉める。
封印。
恋は封印しないと壊れる。
封印すると、息ができない。
亮太も教授室の引き出しを閉める。
二つの封印が、同じ夜に残る。
どこかで、誰かが紙束を机に置く。
薄いのに重い。
消せない量。消すほど痕が残る量。
そして、付箋の順番がどこかで静かに並ぶ。
①原本
②ログ
③触れた人
④議事録
触れない。言わない。
でも確かに在る。
それが二人の恋の形で、正しさの代償の形だった。

 

あとがき

仕組みを守る人は、孤独になります。
でも孤独があるから仕組みが残る。
その残り方が、ほのかに恋に似ている気がして、この物語を書きました。

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