⑮The Chiplet Rebellion「勝利と敗北と、挑戦者の魂」【第二部】Silicon Ascension
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【第三章 禁忌という名の鎖】
試合が終わっても、
会場の熱はまだ冷めていない。
観衆が帰路につき、スタッフが慌ただしく後片付けに動き回る中で、誰も気づかないような場所で、別の動きが静かに始まっていた。
ロッカールームの奥。
白衣を纏った検査員たちが、二人の選手のもとへ向かっている。
GCHが全タイトル戦に義務づけている、試合後の生体検査だ。
神経接続の適正確認、
強化臓器の規格照合、
使用薬剤の残留検査。
ほとんどの場合、これは形式的な手続きに過ぎない。
ほとんどの場合は、だが。
「……異常値、出てます」
検査員の一人が、端末の画面を見ながら小声で言った。
隣の上席検査員が、無言で画面を覗き込む。
数秒の沈黙。
「……もう一度、回してくれ」
「回しました。三回」
上席は、端末をひったくるように受け取った。
数値を確認し、ゆっくりと息を吸って、静かに言う。
「協会本部に繋いでくれ。今すぐ」
華麟の神経系と人工心肺の接続部。
そこに施された強化手術の一部が、GCH規約の定める規定を著しく逸脱していた。
逸脱、という言葉では、少し足りないかもしれない。
数値で言えば、規定上限の三倍を超えている。
少し超えたとか、ギリギリのラインとか、そういう話ではない。
あの最後の熱量の正体は、これだったのか。
王者をあと一歩まで追い詰めたあの焔の源が。
禁忌のドーピングと、非合法な身体改造。
定められた「人間の境界線」を、彼女は密かに踏み越えていた。
「……なあ」
上席検査員は、画面を見たまま隣の部下に言った。
「これ、本当に三倍か」
「はい」
「……試合、見てたか」
「見てました」
「あれで三倍か」
部下は、少し間を置いてから答えた。
「あの王者を、あそこまで追い詰めて。
三倍です」
上席は黙った。
何か言いかけて、やめた。
感想を述べる場面ではないと思い直したのだろう。それでも、端末を閉じる前に彼はもう一度だけ数値を見た。
本部への報告をする前に、一つだけやっておくべきことがある。
規約上、選手本人への事情聴取が必要だった。
会場の片隅に設けられた狭い事務室。
パイプ椅子が二脚と、折りたたみのテーブル。
壁に貼られた緊急連絡先のラミネートが、蛍光灯の光を鈍く反射している。
格闘技のタイトル戦の夜に似つかわしくない、あまりにも事務的な空間だった。
上席検査員が先に入って待っていると、しばらくして扉が開き、華麟が入ってきた。
試合着から着替えてはいたが、首と左腕には分厚い医療テープが巻かれている。
右の頬から顎にかけて、処置しきれていない裂傷が生々しく残っていた。
それでも、その目だけは、まだ燃えていた。
上席検査員は、一瞬だけ言葉に詰まってしまう。
リングの上で見ていた熱量の残滓が、この狭い部屋の中にまだ漂っている気がして。
「……座ってください」
「立ったままで構いません」
短く、静かな声だった。
柔らかくも、険しくもない。
ただ、揺れていなかった。
上席は少し間を置いてから、端末を開いた。
「GCH規約に基づく、試合後生体検査の結果についてお聞きします。神経系と人工心肺の接続部に関する数値が、規定上限を著しく超過していました。これについて、説明していただけますか」
「分かって使いました」
即答だった。
弁解でも言い訳でも、ない。
彼女は上席の目を、まっすぐに見たまま続けた。
「いつから、どの施設で施術を受けたかということでしたら、答える気はありません。ですが、知っていて使ったということは、はっきりお伝えします」
上席は、端末に視線を落とした。
記録する手が、わずかに遅れる。
「……正規の部品の供給が断たれたのは、三年前のことですね」
「それとこれとは、別の話だと言いたいんでしょう」
「そういう意図では」
「いいえ」
華麟は、かすかに首を振った。
「あなたがそう言いたくないのは分かっています。でも、誰かがどこかで必ずそういうことを言う。だから先に言っておきます。別の話ではない、と」
上席は、何も言わなかった。
「正規の供給ルートを断たれた時点で、私には二つの選択肢しかなかった。諦めるか、別の方法を探すか。それだけです」
「あなたたちが守っている規約は、正規のルートが機能していることを前提に作られている。前提が崩れたとき、その規約が誰を守るのか、私には分からなかった」
蛍光灯が、微かに瞬いた。
(……言い返せる言葉が、ない)
上席は思った。
この女性が言っていることは、少なくとも論理としては正しい。
正規の鍛造技術を外側から封じられながら、リングに立ち続けるための別の手段を探した。
その結果が、この数値だ。
でも自分は今、その数値を前に書類を作っている。
「規定上限の三倍を超えていました」
上席は、静かに言った。
事実を告げることで、感情の逃げ場を作ろうとするように。
「知っています」
「それでも、使うと」
「使いました」
一拍の間があった。
華麟の視線が、ほんの一瞬だけ下へ落ちた。
それからまた、正面に戻ってくる。
「あなたは、今夜の試合を最後まで見ていましたか」
上席は、答えに詰まった。
「……見ていました」
「届きませんでした」
それだけを言って、華麟は静かに息を吐いた。
「三倍の反応速度を使って、それでも届かなかった。それがこの試合の結果です。違反は違反として受け取ります。ですが、一つだけ聞かせてください」
上席が黙って待つと、彼女は続けた。

「規約が守ろうとしているのは、リングですか。それとも、玉座ですか」
沈黙が、部屋を満たした。
(……答えられない)
上席検査員には、答えられなかった。
答える立場にないから、ではない。
答えが、自分の中にも見つからなかったから、だ。
華麟は、それを確認するように一秒だけ待ってから、立ち上がった。
「以上で、よろしいですか」
「……はい」
「では、失礼します」
扉が、静かに閉まった。
上席は、しばらくの間、その扉を見つめていた。
端末の入力欄には、まだ何も打ち込まれていない。やがて、一つだけ短く息を吐いて、指を動かした。
書類に署名して、端末を閉じる。
協会本部に深夜の報せが飛ぶことになる。
受け取った側の反応は、二種類に分かれた。
一方は「やはりそうか」という顔。
もう一方は「まずい」という顔。
不思議なことに、その二種類の顔は、別々の理由で同じ結論に辿り着いていた。
どちらにせよ、手続きは動く。
機構というものは、そういうものだ。
感情があろうとなかろうと、書類は翌朝には完成している。
協会の法務部門が動いたのは夜明け前のこと。
電話が何本かかかった。
誰かが何かを確認し、誰かが何かに署名する。
廊下を歩く足音が、いつもより多かった。
翌朝。
一通の正式通達が、深センに届いた。
受け取ったのが誰だったのか、記録には残っていない。
華麟本人だったのか、チームの誰かだったのか。ただ、その内容は明確だった。
GCH規約第十七条、第二十二条、および補則第四項に基づく、ファイターライセンスの即時剥奪。
異議申し立ての期間、三十日。
紙は薄かった。
内容の割に、ずいぶんと薄い紙だった。
後から聞いた話では、深センのチームオフィスにその通達が届いたとき、室内には誰もいなかったという。
受け取りのサインだけが残されていて、あとは空だった。
華麟はすでに、その場にいなかった。
後日、業界のある古参記者がこんなことを書いた。
「規約とは、リングを守るためにある。だが時に、規約はリングを守るふりをして、別の何かを守る」
記事はすぐに削除された。
理由は「事実確認不足」とされた。
ただ、そのスクリーンショットは、しばらくの間、業界の裏コミュニティで静かに出回り続けた。
正式通達が届いた日から三日後、協会は声明を発表することになる。
内容は簡潔で、感情のない文章だった。
「当該選手の違反行為は、GCHが長年にわたって守り続けてきた『人間の境界線』という理念を根本から損なうものである。よって、厳正な規定に従い処分を執行した」
理念。
その言葉を、声明を読んだ人間たちは、それぞれの顔で受け取った。
拍手した人間もいた。
唇を噛んだ人間もいた。
何も言わずにモニターを閉じた人間も、おそらくたくさんいた。
世界は、静かに次の話題へと移っていった。
興行というものは、そういうものだ。
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