【千年王国の落日】―王都が拒んだ英雄たち― (アカリウム創作大賞参加作品)
こちらの作品を【アカリウム創作大賞】の参加作品とさせて頂きたく思います。
こちらの文章含め、総文字数は作成画面にて約9900字となります。 ギリギリでしたね(笑)
以下、本文となります。
◇
【プロローグ】
アウレリア王国……
それが、この国の名だった。
王の血統が代々国を治め、法は公正に運用され、戦も飢えもない時代が続く。
人々はそれを「完成された調和と秩序」と呼び、永遠に続くものだと信じていた。その国は「千年王国」とも呼ばれる程の栄華を誇った。
しかしある日、その調和は破られた。
北方の空に、裂け目が走る。
裂け目から顕現したものを、人々は「邪神」と呼んだ。
なぜ現れたのか、どこから来たのか誰にもわからない。
わかっているのは、それが軍勢を率いていたということだけだった。
邪神の軍勢は半日で北方の都市を焼き払い、
王が送った正規軍は為す術もなく壊滅した。
人々は荷車に家財を積み、
王都を目指して逃げ惑う。
国を守るはずの国家は、ただ立ち尽くすだけだった。
そんな中、四人の冒険者が立ち上がる。
剣士のガレオン。
魔術師のフィーネ。
盗賊のラウル。
神官のメイア。
誰に頼まれたわけでもない。
誰に命じられたわけでもない。
彼らはただ、邪神の場所へ向かった。
激闘は三日三晩に及んだという。
そして四日目の朝、邪神は倒れた。
崩れ落ちる間際、それは確かに声を発した。
耳で聞いたのか、頭の中に直接響いたのか、誰にも判然としない。
「我は人の心に邪心ある限り、何度でも蘇る。今回は1000年の時が必要だったが、な……」
その言葉に足を止めたのは、古代語を解するフィーネだけだった。
王都の鐘が、かつて誰も聞いたことのない長さで鳴り続けたのはその日のこと。
これは、その勝利の鐘の音から始まる話だ。

【第一章:蜜月】
三日後。
四人は王宮の大広間に立っていた。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、王が自ら歩み寄り、ガレオンの肩に手を置く。
「諸君らは、アウレリアの救世主だ」
広間が歓声に揺れた。
通りに出れば、誰もが彼らの名を呼んだ。
「ガレオン様!」
「メイア様、こちらを見て!」
子供たちが後を追いかけ、商人が店先の品を無償で差し出そうとする。
酒場の主人はラウルの肩を叩いて、好きなだけ飲んでいけと笑う。
フィーネはその熱狂の中心にいることに少し落ち着かなさを感じながらも、久しぶりに安堵していた。
世界は、確かに守られた。
褒美として、四人には多額の報奨金に、大きな屋敷までもが与えられた。
「これでもう、
危険な仕事をしなくていいのね」
メイアが微笑む。
ガレオンは胸を張った。
「いや、俺はまだやるぞ。せっかく英雄になったんだ」
ラウルは肩をすくめる。
「俺は寝て暮らす。金があるならそれでいいじゃないか」
フィーネだけが何も言わずに窓の外を見ていた。称賛とは何かの代償として支払われるものだ、と彼女は知っている。
問題はその代償が何なのか、まだわかっていないということだった。
祝賀の宴は連夜続いた。
ある夜会で、フィーネは初めて宰相ヴァイスを間近に見る。
痩せた、表情の読めない男。
誰よりも丁寧な祝辞を述べ、誰よりも深く頭を下げる。
だが杯を交わす笑い声の中、フィーネがふと彼を見た時、その目だけが笑っていないことに気づいた。
一瞬のことだった。
視線が合うとヴァイスはすぐに穏やかな笑みを浮かべ、グラスを掲げる。
「英雄殿の活躍に」
フィーネも杯を上げ返したが、その夜以来、小さな棘が胸の奥に残った。
それから何週間か、宴の華やかさは続いた。
ガレオンは騎士団の演習に招かれ、若い兵士たちに指導を求められた。
メイアは大聖堂で説教を頼まれ、子供たちに祝福を授ける。
ラウルは賭場で顔を覚えられ、酒場ではいつも誰かが彼の杯を満たした。
フィーネは王立図書館への自由な立ち入りを許され、邪神に関する古い文献を読み解く日々を過ごした。

そしてある晩、四人は屋敷の一室で静かに酒を飲んでいた。
「な、最近思うんだけどなあ」
ラウルがパンを千切る手を止める。
「俺たち、結局なんで戦ったんだろうなぁ」
「邪神を倒すためだろう」
ガレオンが当然のように答える。
「いや、そうじゃなくてよ」
ラウルは苦笑しながら。
「俺は最初は、金になるからってついてきたんだよな」
「知ってたわよ」
「あの時もそうだったわね。南砦で報酬袋を数える前に、あなたが全部賭場と酒代で溶かした時」
「あれは投資だ」
「翌朝、馬も借りられなかったじゃない」
ガレオンが吹き出し、
メイアが呆れたように笑った。
フィーネはグラスを揺らしながら、静かに、
「理由なんて、後からどうとでも言えるものよ」
その言葉に、皆が頷いた。
穏やかな夜だった。
冬が終わり、春の気配が王都に満ち始めた頃。フィーネは図書館からの帰り道、市場を通りかかった。
果物屋の主人が、彼女に気づいて手を振る
「フィーネ様!今日のリンゴは特別に良いものが入ってますよ」
代金を払おうとしたが、主人は手を振って断った。
「とんでもない。アウレリアの英雄からお金なんていただけませんや」
礼を言い、リンゴを片手に屋敷へ戻る。
何の変わりもない、穏やかな日常。
その帰り道、ふと王宮の方角を見上げた。
塔の窓に、人影があった。
顔まではわからないが……
だが、それがヴァイスのものだという確信だけが、なぜか胸に残った。
フィーネは肩をすくめ、歩き続ける。
ただ、千年王国の「完成された調和と秩序」という言葉が、最近ふとした時に妙に空虚な響きを持って耳に残ることがある。
◇
【第二章:亀裂】
そのまま約二年にわたり、平和な日々が続いていた。
ガレオンは剣の講師に、メイアは聖堂での説教にと忙しく励んでいたある日の夜。
「な、フィーネ」
夕食の席で、ラウルがパンを千切る手を止めた
「俺たち、なんか最近避けられてないか」
メイアが顔を上げる。
「気にしすぎじゃない?」
「いや」
ラウルは続けた。
「市場でグエンの店に寄ったんだよ。前は『ラウル様、特別に安くしときます』って肩叩いてきたあのグエンが、今日は目も合わせずに『今日は品切れです』って。後ろの棚、山ほど野菜あったぞ」
ガレオンが笑った。
「お前が何かやったんじゃないのか」
「何もしてねえよ」
フィーネは何も言わなかった。
先週、いつも挨拶を交わしていた裁縫店の女主人が彼女を見て視線を逸らし、店の奥に引っ込んだことを思い出す。
その時は気のせいだと思った。
だがそんな話を聞いた今、それが気のせいではなかったかもしれないと思い始めている。
数日後、フィーネは一人で街を歩いてみた。
行きつけの茶屋の前を通る。
店主の老人は、いつもなら通りの向こうから声をかけてくるのだが。今日は目の前を通り過ぎても、皿を拭く手も止めなかった。
「こんにちは」
老人は一瞬手を止め、「……どうも」とだけ返して、また皿を拭き始めた。
怒っているわけでも、敵意を見せているわけでもない。ただ、以前あった親しみがきれいに抜け落ちていた。
◇
その頃、王宮では別の動きがあった。
貴族院の定例会に、宰相ヴァイスが登壇する。
議題は「第二次戦後復興予算」
誰もが眠そうに聞いていた会の中盤、ヴァイスは静かに言葉を継いだ。
「我らが英雄たちの功績は、未来永劫語られるべきものです。だからこそ……彼らの『力』を、国の制度の中に正しく位置づける必要がある」
「秩序とは、変わらぬことです。昨日と同じ朝が来て、昨日と同じ法があり、昨日と同じ場所に王がいる。その安心を守るためなら、私はどんな例外も認めない」
拍手が起きた。
誰も、その言葉の裏側を疑わなかった。
その翌週。
フィーネは図書館で偶然、新しい告示を目にする。「特別功労者の行動及び資産に関する報告義務令」
長い条文の中に、見慣れない言葉が何度も繰り返されて。
「所在の確認」
「動向の記録」
「異常の通報」
発令者の名は、宰相府。
フィーネは、その告示を見て漠然と嫌な予感がしていた。
(何かがすでに動き始めている気がする……)

別の日、フィーネは大聖堂でメイアと会った。
礎石に座り、空を見上げる。
「最近、説教に来る人が減ったような……」
メイアがぽつりとこぼす。
「減った?」
「うん。前は席が足りないくらい多くの方が来て下さっていたのに……」
二人はしばらく黙っていた。
鳩が一羽、礎石の上を歩いて去っていく。
◇
その数日前。
フィーネは図書館で古い文献の一節を見つけていた。邪神について書かれた、ごく短い記述だった。
曰く、邪神とは何者かに「造られた」ものではなく、ある種の条件が満ちた時に世界そのものから滲み出るものらしい……。
その条件とは何か、文献はそこで途切れていた。彼女はその一節を、特に意味があるとも思わずに読み流していた。
その帰り、フィーネは路地裏で数人の男たちの立ち話を耳にする。
「……あれだけの力を持ってるんだぞ。もし気が変わったらどうする」
「あの邪神を倒したくらいだ。国一つくらい、簡単に乗っ取れるだろうな」
フィーネは足を止めず、聞こえなかったことにして帰路につく。
だが、その夜屋敷に戻ってからも、その言葉が頭の中で繰り返されていた。
数日後、ガレオンが屋敷の食堂で拳をテーブルに叩きつけながら、
「役所に行ってきた。市民団体の連中が広場でビラを配ってたっていうから、見に行ったんだよ」
ガレオンは黙って一枚の紙を取り出し、テーブルに置く。
フィーネはそれを手に取った。
粗い印刷の文字が並んでいる。
『英雄の名のもとに王国は新たな脅威を抱え込んだ。邪神を倒すほどの力を持つ者たちがいつ我々に牙を剥くか、誰にもわからない』
「役所の連中に聞いたら?」
「『表現の自由ですから』だ。表現の自由、ってね」
「誰が書いたか分かるの?」
メイアが聞く。
「市民団体、ってだけだ。代表者の名前すら書いてない」
フィーネはビラを見つめたまま、しばらく言葉を発しなかった。
粗い紙質、急いで刷ったような文字の歪み。
それにしては、論旨があまりにも整っている。
誰かが、市民の言葉を借りて、計算された主張を流し込んでいるように見えた。
「これ、誰かが書かせたものじゃない?」
「誰が」
ガレオンが聞く。
「わからない」
その場に、しばらく沈黙が落ちた。
王宮の前庭では、ある日、ヴァイスが市民団体の代表らしき数人と話している姿が見られたという。
その目撃談は、ガレオンの古い知人である衛兵から、まわりまわってフィーネの耳に届く。
本当かどうかは、誰にも確かめられなかった。
王宮に礫が投げ込まれたという話を、フィーネは図書館の帰りに小耳に挟んだ。
礫には紙が巻かれていたという。
何が書かれていたのかは誰も知らなかったが、フィーネの脳裏にある考えが走る。
(もし、知らなかったのではなく『教えてくれなかった』のだとしたら……)
◇
【第三章:決裂】
しばらく経った日の夜、煙の匂いでフィーネは目を覚ました。
窓の外が赤い。
屋敷の一階から炎が上がっていた。
「起きろ!」
ガレオンの声が響く。
階段を駆け下りる足音、メイアが水を求める声、ラウルが裏口の鍵を蹴り破る音。
四人は何とか屋敷から脱出した。
誰も怪我はなかった。
だが、屋敷は半分近くが焼け落ちていた。
外で、燃える屋敷を見上げながら、誰も口を開くことが出来ずにいた。
夜が明けて衛兵が現場を見に来る。
彼らは記録だけ取ってすぐに引き返した。
三日後、何の進展も報告されないことに業を煮やしたガレオンは衛兵隊長を直接訪ねる。
フィーネも同行した。
「捜査はどうなっている」
隊長は資料を見もせずに、
「目撃者がいません。火元も特定できておりません」
「市民団体が活動家を集めてたって噂は知ってるだろう」
「噂だけでは、捜査は進められません」
「噂じゃない。俺たちは聞いたんだ、路地裏で……」
「ガレオン様」
隊長が遮る。
「お気持ちはわかりますが、これは正式な手続きに従って進めるべき案件です」
ガレオンは何か言おうとして、結局何も言わずに踵を返した。
その帰り道、フィーネは尋ねる。
「本気で調べるつもりはない、ってことでしょうね」
「ああ」
ガレオンは前を見たまま答えた。
「最初から調べないと決めてる目だった」
王宮からは、見舞いの品と丁寧な手紙が届いた。それ以上の動きは何もなかった。
数日後、フィーネは図書館で若い書記官と話す機会があった。
彼は声を落として。
「貴族院の一部に、勇者様方を危険視する派閥があるそうです。宰相様もその派閥に近いとか」
「ヴァイス様が?」
書記官は答えず、周りを見回して話を切り上げた。
ちょうどその頃、貴族院ではもう一つの法案が静かに通過していた。
「治安維持特別措置法」
新聞の隅、燃え落ちた屋敷の記事よりもずっと小さな見出しで、それは報じられた。
誰も大きく取り上げなかった。
発令の中心には、やはり宰相府の名があった。
その夜、焼け残った屋敷の一室で、四人は久しぶりに顔を揃える。
誰も眠れなかった。
「もういい」
ガレオンが唸る。
「この国にはもう守る価値なんかない!」
「言い過ぎよ」
メイアがたしなめる。
「全員が私たちを憎んでるわけじゃない」
「そいつらを国が守ってるって言うんだぞ。それで十分だ」
ラウルは壁にもたれて、何も言わずに天井を見ていた。
「ラウル」
メイアが声をかける。
「あなたはどう思う」
「俺は前から思ってたんだ。こうなるかもしれねえってな」
「だから、どうするの」
「何もしねえ。隠れる。これ以上目立てばもっと面倒なことになる」
フィーネは、ずっと黙っていた。
やがて口を開く。
「……怖いのは、わかる気もする」
ガレオンが眉を上げた。
「お前まで、向こうの言い分を認めるのか」
「認めてるとかじゃなくて。私たちは邪神を倒した力を持ってる。その力でもし私たちが王宮を奪うと決めたら……誰も止められない。それだけのことだと思う」
「俺たちはそんなことはしない!」
「私たちはしない。でも、言葉以外にそれを保証する方法はないわ」
「お前、それを理解しろって言うのか。家を焼かれて、捜査もしてもらえなくて」
フィーネは少し黙った。
それから、ぽつりと言う。
「理解することと、許すことはたぶん違う」
フィーネはさらに続ける。
「ねえ。もしかしたら」
「私たちが恐れられる存在なら……いっそ、その力で、何かを変えてしまった方が早いのかもしれない」
部屋の温度が変わったように、誰も何も言わなかった。
「フィーネ」
メイアの声が、初めて低くなる。
「それは、王宮を奪うってこと?」
「わからない。今のままじゃ、また同じことが起きる気がするだけ」
「それは支配だ!」
ガレオンが声を荒げた。
「俺たちが恐れられてる理由そのものを、お前は今実行しようとしてる!」
「違う、と思う」
「同じだ!」
メイアが二人の間に入った。
「やめて。今、私たちが争うことが一番向こうの望んでることよ」
部屋に重い沈黙が落ちた。
ラウルだけが、壁にもたれたまま、誰とも目を合わせずに呟く。
「だから最初に言ったろ。関わるだけ無駄だってよ」

その夜を境に、四人は別々の道を選んだ。
ガレオンは数日のうちに荷物をまとめる。
「行く先は決めてない。だがここにはもう居られない」
メイアは焼け残った屋敷を出て、遠く郊外の小さな教会に移った。
「力を封印して、それでできることだけをする。私はそれでいい」
ラウルは誰にも告げずに姿を消した。
後で聞いた話では、名前を変えて田舎の村に住み着いたという。
フィーネだけが王都に残った。
誰も、彼女がその後どう動いたのか、知らない。
四人が最後に顔を合わせた夜、誰も別れは言わなかった。
それぞれが、それぞれの答えの出ない問いを抱えたまま、屋敷の焼け跡を後にした。
◇
【終章:新たなる門出】
それから数か月の間、フィーネは王都に残り一日の大半を図書館の奥で過ごした。
時折、貴族院から漏れ聞こえる話がある。
宰相ヴァイスが新たな法令を次々に通しているという。
どれも一つひとつは小さく、
危険には見えない。
◇
最初に異変を感じたのは、聖堂の鐘だった。
決まった時刻に鳴るはずの鐘が、ある朝、鳴らなかった。
代わりに地の底から響くような低い音が、王都の石畳を震わせた。
フィーネは書庫の窓から空を見る。
雲の形が崩れ、紫色に渦を巻いていた。
王宮は何の発表もしなかった。
「前例がない」という言葉が、役所の窓口で繰り返された。
それから三日後、北の空が裂ける。
あの時と同じ、邪神が顕現した瞬間だった。
逃げる人々の声が、すぐに王都を満たした。
「英雄を呼べ!」
「どこへ行った、英雄様は!」
「国が追い出したんだろう、お前らが叫んでたんじゃないか」
「違う、お前たち市民が火を放ったんだろう!」
「今そんなこと言ってる場合か!」
罵声が罵声を呼び、人々は互いを指差した。
誰も自分のせいだとは思っていない。
誰もが、誰かのせいにしたがっていた。
その中で、フィーネの近くに立っていた一人の老婆が、誰に向けるでもなく。
「私たちが、追い払ったんだ……」
その一言だけで、周りの罵声が一瞬止んだ。
誰も反論しなかった。
だがその沈黙も長くは続かず、再び怒声と悲鳴が王都を満たしていった。
その時、王宮の高い窓に人影があった。
フィーネは見上げる余裕もなかったが、後で思えば、あの位置からは逃げ惑う群衆の全てが見えたはずだった。
フィーネは人々の流れに逆らって歩いた。
瓦礫を越え、炎の上がる通りを避け、王宮へ向かった。
裂け目から這い出てきたものが、王都の空を覆い始めていた。
それが何なのか、彼女は文献の中でずっと探していたが、答えらしきものは一つしか見つからなかった。
……あれは誰かに造られたものではなく、秩序の綻びから滲み出るものだという、古い一節。
誰かを恐れ、誰かを切り捨てる心が積み重なったところにそれが生まれる。
あの日、崩れ落ちる間際に聞いた声が、ふいに耳の奥で再生された。
……我は人の心に邪心ある限り、何度でも蘇る。
あの時は、気にも留めなかった言葉だった。フィーネ自身も、長い間負け惜しみのようなものだと思っていた。
だが今、罵声を上げ続ける人々と、空を覆うものを同時に見て、フィーネは初めてその言葉の重さを知った。
あの時は1000年もかかったものが、今は数年で。それだけ皆の心が荒んでしまっていた。
倒した、と思っていたものは最初から、剣の届く場所にはいなかったのだ。
◇
辺境の街道で、ガレオンは旅人から噂を聞いた。
雲の形が崩れ、紫色に渦を巻いていたという。
それが邪神の帰還を意味するのだと、すぐに理解した。
その時脳裏に浮かんだのは、王都の人々の顔ではなく、三日三晩、共に戦った仲間たちの顔。
「……っ」
息を吐き、剣の柄を握り直す。
半歩、王都の方角へ踏み出した。
だが、それ以上足が前に出なかった。
それでも、行かなければ何かが終わる気がした。
長い間その場に立ち尽くしていたが、やがて剣を鞘に納める。
何度も自分に言い聞かせたはずだった。
あの国はもう、守る価値がないと。
「……クソッ!」
ガレオンは長い舌打ちの後、王都の方向に向き直る。
今度は迷わなかった。
剣を背負い直し、王都の方角へ、できるだけ速く歩き出す。
何日かかるかもわからない。
手遅れかもしれない。
それでも、行かない理由より、行く理由の方が最後にはわずかに、勝った。
◇
郊外の教会で、メイアは避難を告げる鐘の音を遠くに聞いた。
信徒たちが駆け込んできて、彼女に縋る。
「メイア様、一緒に逃げてください」
「王都に向かわれるのですか」
答えられなかった。
祭壇の前で、両手を強く握り合わせる。
力を封じ、ただの神官として生きると決めた日から、その選択を疑ったことはない。
誰も傷つけない代わりに、誰も大きく救えない人生。それでいいと思っていたはずだった。
鐘の音がやがて止み、静寂が戻っても、メイアは祭壇の前から動けない。
膝が震え、座り込む。
「私は……」
その先の言葉は、誰にも聞かれることなく、教会の静寂に消えた。

田舎の村で、ラウルは酒場の隅で旅人の噂話を聞いていた。
杯を傾ける手が止まる。
「……そうかよ」
喉から出た声は、思いのほか平坦だった。
胸の奥では、何かが波立っていた。
「知ってたさ。そのうちこうなることくらいよ」
誰にともなく呟いた言葉は、自分への言い訳のように響いた。
誰も彼を責めない。
誰も彼に、何かを求めなかった。
それが、何よりも彼を打ちのめした。
酒場の窓の外、北の方角に赤い光が見えた。
ラウルは長い間、それを見ていたという。
◇
フィーネが王宮の庭に辿り着いた時、邪神の眷属はすでに街の半分を焼いていた。
瓦礫の散らばる通りを抜けてきた彼女に、誰も気づかない。
既に誰も「英雄」を探してはいなかった。
王宮の庭で、フィーネは一人の男に出会う。
宰相、ヴァイス。
崩れかけた回廊の柱に、片手をついて立っている。
逃げる様子はなかったが、いつか見た超然とした佇まいはなかった。
「あなたが仕組んでいたの」
ヴァイスはゆっくり振り返った。
笑みはあった。
だが、あの夜会の夜とは違う。
口の端だけで作った、疲れた笑みだった。
「仕組んだのではない。私はただ、皆が薄々思っていたことを、少しずつ形にしただけだ」
「秩序を守るには、誰かを制度の外に置いてはならない。たとえそれが救世主であっても」
法令、噂、ビラ、議会の演説。
フィーネの脳裏に、机の上に積まれていった紙の束の様に、これまでの経緯が浮かんだ。
一枚一枚は薄く、軽い。
それが積み重なって、いつの間にか、誰にも持ち上げられない重さになっていた。
「その結果が、これ?」
ヴァイスは答えなかった。
しばらく、王都の方角を見ていた。
やがて、独り言のような声で言った。
「……結果は、いつも、誰かの想定を超える。まさか、こんなことになるとはな……」
その横顔に、さっきまでなかった何かがあった。フィーネには、それが後悔なのか恐怖なのか、判別できなかった。
「窓から見ていたのね。あの群衆を」
ヴァイスは答えなかった。
回廊の柱についた手が、わずかに震えている。
怪物のような男だと思っていた相手が今は、自分と同じくらい小さな人間に見えた。
ヴァイスはそれ以上何も言わず、震える足で、崩れていく回廊の向こうへ去っていった。
彼がその後どうなったのか、知る者はいない。
◇
王都はもう、原形をとどめていなかった。
塔は崩れ、市場は灰になり、かつて誰もが彼女の名を呼んだ通りは、瓦礫の道としか呼べないものに変わっていた。
しかし邪神とその眷属は、いつまでもそこに留まりはしなかったようだ。
なすべきことを終えたとでも言うように、空を覆っていた影は、次第に薄れ、ほどけていく。
まるで満ちきった潮が、何かに引かれるように静かに退いていくように。
咆哮も、羽ばたきも、いつの間にか聞こえなくなっていた。
そして気づけば、ただ風だけが、焼け跡の上を吹き抜けている。
あの夜、自分が口にした言葉を思い出す。
力で何かを変えてしまった方が早いのかもしれない、と。
あれは正しかったのか、間違っていたのか、今でもわからない。たぶんこれからも、わからないままなのだろう。
もう一度、かつての王国を取り戻したいとは思わなかった。
あの秩序は美しかった。 けれど、美しいまま長く置かれた水が、いつか底から澱んでいくように、完成されたものは少しずつ腐っていく。
立て直すのなら、元の形ではいけない。
壊れたものを戻すのではなく、壊れた理由ごと見つめなければならない。
◇
崩れていく王宮の尖塔を見上げながら、フィーネは小さく息を吐いた。
「私にも、正解はわからない」
声は、瓦礫の上に小さく落ちて消える。
「でも……進むしかない」
それが希望なのか、ただの惰性なのか、彼女自身にも判別がつかなかった。
それでも、フィーネは廃墟となった王都の中を、一人歩き出した。
その背中に足音が追いついたのは、城門の崩れた跡を過ぎた頃だった。
「フィーネ!」
振り返らなくても、誰の声かわかった。
ガレオンが、肩で息をしながら立っていた。
鎧は埃と煤で覆われ、長い間歩き続けたのか、頬がひどくこけている。
「来るのが遅いわよ」
「……ああ」
それだけ言って、ガレオンは視線を逸らした。
燃え尽きた王都の残骸を見回す目に、何かをこらえるような色があった。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
やがてガレオンが、ひどく不器用な調子で口を開いた。
「俺も……手伝う。何をすればいいか、わからんが」
それ以上の言葉は出てこなかった。

謝罪でも、説明でも、決意の演説でもない。
ただそれだけの、ぎこちない一言だった。
フィーネは少し笑った。
今日初めて笑ったような気がした。
「だから、遅いって言ったでしょう」
「悪かったよ」
「いいわ。今からでも」
二人は、それ以上多くを語らず、並んで瓦礫の道を歩き出した。先に何があるのか、どちらにもわからなかった。
それでも、隣に誰かがいるという事実だけが、わずかに、足を前へ向けさせていた。
fin.
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