ペルセポリス
一九六八年の秋、ギリシャ人ヤニスはイランにいた。彼はヨーロッパを代表する前衛芸術家の一人として、「前衛」についてもお目が高いというパフラヴィー朝の女王様が主催する「シーラーズ芸術祭」に招かれ、「夜(Nuits)」と題された声楽作品を披露した。声楽といってもそれはシューベルトの歌曲などとは似ても似つかない、言葉以前の声が蠢きあうような得体の知れない作品だった。かつて言葉として存在した声が意味を失って残響しているのか、あるいはいまだ意味を成さぬ衝動そのもののような声が世界へと生成する予感をはらんで立ち上がりつつあるのか、そもそもそれが音楽といえる代物なのかすらも判然としない。いずれにせよ、そのような声が響くのは確かに「夜」でなければならないだろう。ヤニスがその作品を「消えた政治犯たち」に捧げていたからには、それは義憤や裏切りへの不安に揺れる目が独房の壁をじっと見つめた夜でもあっただろう。ヤニスがかつて若き日に祖国ギリシャで共に闘った者たちの中にも、そんな独房の夜の彼方に消えて、二度と会えなくなった者たちがいた。ヤニスたちが目指した自由で平等な社会の理想は「現実政治」のなかで弱々しく揺れる煙となり、視界から遠ざかっていた。
ファシズムという敵を打倒した第二次大戦後の世界はあらためて共産主義という敵に対する恐怖によって駆り立てられた。ヤニスの祖国ギリシャも、前年(一九六七年)に起きたクーデターによって反共軍事独裁政権が権力を握った。ヤニスをイランの地に招いたパフラヴィー朝もまた、反逆の気配、体制転覆の不安におびえながら各地に秘密警察を忍ばせて、共産主義者たちとイスラームの宗教勢力をふくむ反体制派をその存在ごと消し去ろうとしていたのであってみれば、ヤニスがその作品を「消えた政治犯たち」に捧げたことは自分を芸術祭に招待した当の王朝への挑発以外のなにものでもなかった。ヤニスはわざわざ公演前に政治犯たちに捧げたその献辞を読み上げることすらした。しかし仮にそんなものが女王様の耳に届いたとしても、最新の前衛芸術を鑑賞してご満悦の女王様には蚊の鳴き声ほどにも意に介されなかっただろう。ヤニスはふたたび女王様の招きを受けることになる。
* * *
少年の頃からヤニスはホメロスやプラトンを愛読していた。いじめられっ子だった彼は同年代の友達と遊ぶよりも古典古代の詩や物語の世界に遊ぶことを好んだ。彼の姓「クセナキス」が「異邦人」を意味する言葉に由来しているのに似つかわしく、彼の精神は幼い頃からすでに異邦をさまよっていた。「私は二〇世紀に生きる古代ギリシャ人だ」「私は自分のものではない時代に生きていることが不満だった。自分は間違った時代に生まれたのだと思っていた。私には現代の生活は耐え難い。醜くて退屈過ぎる。私は逃げ出して、自分自身の世界を作り出したかった」。ヤニスはフランス製のロードバイクにテントを積んで、一人でマラトンやアクロポリスを訪ねては、遺跡の上で寝そべって、海から聞こえてくる波の音や草の奥で震える何百匹ものコオロギの鳴き声、そして失われた古代の遠い余韻に酔いしれていた。
* * *
十八世紀末、フランス革命の爆風はオスマン帝国支配下にあったバルカン半島の正教徒たちの脳みそを揺らした。かれらは自分たちが「ギリシャ人」であったことを思い出し、弱体化するオスマン帝国に反旗を翻した。激怒したオスマン帝国のスルタンはジハードを宣告してギリシャ正教の聖職者たちを次々と処刑した。イギリスから目を血走らせてバルカン半島に駆けつけたバイロンのようなロマン主義者たちには、ツルツルしたギリシャ彫刻のような戦士たちがヒゲ面のアラブ野郎どもを敵に回して新たな時代の幕開けを賭けて戦う姿が神々しく見えていた。しかし大英帝国のお偉方にとってはオスマン帝国の凋落はロシア帝国の南進に歯止めがかからなくなること、すなわちはインドに至る回廊が脅かされることを意味し、それだけが憂慮すべき深刻な問題であり、ギリシャの独立などその些末な関数に過ぎなかった。やがて第一次大戦後ついにオスマン帝国が解体し、独立したトルコがレーニンにすり寄っていることに痺れを切らせたイギリスは、ギリシャ人がヨーロッパの同胞であったことをやはりふと思い出して、先に独立して以来トルコとは武力紛争の絶えない関係にあったギリシャ人たちの肩を持ってトルコを牽制することに決めたのだった。
* * *
寄宿学校時代のヤニスに知的な刺激を与えてくれたほとんど唯一の大人であったイギリス人の校長は、大英帝国のスパイまがいの任務を兼ねてギリシャに赴任していた怪しげな人物だった。ギリシャの首相メタクサスは、ギリシャを反共の防波堤として影響下に置いておきたいチャーチルに媚を売ってその地位を固め、共産党主導のゼネストを阻止するという口実のもとに憲法と議会を廃止して独裁制を敷いた。メタクサスは「ヒトラーやムッソリーニはギリシャを見習うべきだ」とまで豪語したが、やがてそのヒトラーとムッソリーニがギリシャに侵略してきた際にはチャーチルに尻尾を振って助けを求めた。メタクサスの哀願もむなしく、ギリシャはイタリア、ドイツ、そして両国の動きに便乗したブルガリアによって分割占領され、国王と政府は海外に逃亡した。ヤニスが何度目かの受験失敗を経てようやく合格したばかりだった工科大学は閉鎖され、校舎は捕虜収容所になってしまった。やがてギリシャ全土でイタリア軍とドイツ軍に対するレジスタンスがはじまった。精悍な青年となっていたヤニスは左右の勢力が入り交じるレジスタンス活動で共産主義者の戦列に加わり、デモやサボタージュの組織化に奔走した。その過程で何度も逮捕されたヤニスは獄中でもやはりプラトンを読んでいたが、死と隣り合わせのレジスタンス活動はヤニスに生まれてはじめて自らの行為には目の前の現実を形作る力があるのだという手応えを与えてくれた。レジスタンスは一定の成功を見せていたものの、その勢いのままギリシャで共産主義勢力がのさばるような事態をチャーチルがみすみす放置するはずもなかった。レジスタンスに手を焼いたドイツがギリシャから撤退することが決定的になった頃合いを見計らったチャーチルがスターリンと手打ちをした結果、ギリシャは改めてイギリスの勢力圏として抑えられることになった。ドイツ軍が撤退した同じ月にイギリス軍がギリシャにやってきたのだ。最初はイギリス軍を解放軍として歓迎したレジスタンスたちも、間もなくその真の意図が「反共」であることを見抜いた。一九四四年十二月三日、非武装のデモ隊に突然ギリシャの警察が発砲をはじめ、二八名が死亡した。その翌日にも、静かな追悼集会を終えたばかりでやはり非武装だった民衆を右翼(王党派)勢力が襲撃して多数の死傷者を出した。民族解放戦線はすぐさま右翼に対する反撃に出たが、右翼の拠点が他ならぬイギリス軍によって防衛されているという事実を突きつけられることになった。チャーチルによってギリシャから赤い連中を叩き出すことを命じられたイギリス軍とギリシャ民族解放戦線との武力衝突は激化した。しかし解放戦線のリーダーたちは常にモスクワからの指示を待つばかりで主体的に戦況を打開する機会を逃し続けていた。アテネの市街地に戦車を走らせ機関銃をぶっ放すイギリス軍に対して、解放戦線の戦士たちは火炎瓶を投げつけていた。解放戦線のある分隊で指揮官の立場にあったヤニスは、ある日二人の仲間と建物内に潜んでいたところにイギリス軍の砲撃を受けた。仲間たちは脳みそを壁にぶちまけて即死した。ヤニスはその場で気絶した。レジスタンスの仲間が白旗を上げながらどうにかヤニスを救護施設まで搬送した。「もうこいつは数時間も持たない、せめて最後は静かに死なせてやってくれ!」……明滅する意識のなかで仲間がそう言っているのがヤニスに聞こえた。彼の顎骨は破壊され、砲弾の破片が突き刺さり、顔面の左側に大きく穴を空けた裂傷の中から潰乱した歯や肉片が覗いていた。左目も破裂していた。ヤニスは自分の血で窒息しそうになって何度も血を吐き出した。数度に渡る手術を、あるときは無麻酔で受けながら、その激痛の中で「自分はとうとう死ぬのだ」という考えが半ば解放の予感のようにヤニスを酔わせていた。レジスタンスの戦いは敗北に終わった。おそらくはスターリンからの指示を受けたのであろう解放戦線のリーダーたちは自らの恩赦と引き換えに武装を解除すること、及び戦後の政権には参加しないという条件を呑み、ヤニスをはじめ無数の同志たちを失望させた。失望のなか、ヤニスの死への願望はいっそう強固なものとなった。
ヤニスは奇跡的に生き延びた。しかし、激しくよろけていた。左目を失い、三半規管が破壊されていたために遠近感も狂っていた。何もせずにただ立っていることすら時に困難だった。手すりをつかもうとした手が宙をまさぐり、無様に転げた。病院を出てもどこにも居場所はなかった。すでにギリシャ国軍は徴兵を始めており、ヤニスは障害を理由に兵役を免除されることを期待していたが、結果として軍で事務職をあてがわれることになった。しかし反省の色もないファシストたちが大手を振って歩く軍の空気に嫌気が差したヤニスは一時休暇が許可された際に逃亡してアテネで地下に潜った。軍からの脱走者は指名手配され、捕まれば死刑が宣告される。まもなくヤニスはよろけながら祖国を去らねばならなかった。粗悪な模造パスポートを手にしてイタリア行の船に乗り込んだヤニスは、海の向こうに遠ざかってゆく、二度と帰ることはないであろう祖国ギリシャを眺めていた。
* * *
二十世紀初頭、ロシアに発した共産主義革命の波はコーカサス山脈を超えてイランにも押し寄せていた。末期症状を呈していたガージャール朝のペルシャがボリシェヴィキの手に落ちてしまうことを恐れるイギリスは、ペルシア・コサック旅団の将軍レザー・ハーンを焚き付けてガージャール朝に対するクーデターを起こさせた。列強による干渉戦争と内部の路線対立に翻弄されていたボリシェヴィキにはそんなイランの面倒を見る余裕はなかった。レザーが各地でまつろわぬ部族どもや共産主義者たちをイギリス製の武器で鎮圧しながらテヘランに進軍したとき、ガージャール朝はすでに死んでいた。新生パフラヴィー朝の王(シャー)となったレザーは、伝統的に「ペルシャ」として知られてきた国名を「アーリア人の地」を意味する「イラン」に変え、ヨーロッパの源流としてのイランの復興を標榜しつつ、鉄道敷設から洋装の奨励に至る近代化路線を猪突猛進した。もはや「イスラム」や「アラブ」は旧弊の象徴でしかなかった。反イスラム的な政策の数々は宗教勢力の強烈な反発を引き起こしもしたが、レザーは止まらなかった。レザーは気に食わない家臣や政治家がいれば、時にはそれが聖職者であっても容赦なく文字通り鞭や杖で叩きのめした。レザーはイランを食い物にしていたイギリスの利権すらも段階的に廃止してイギリスの神経を逆なでして、南進の野望を露わにするソ連も牽制し続け、第二次大戦時にはこれまで利害関係の希薄だったドイツ、すでにナチスが支配していたドイツに接近した。レザーのイランが「古代アーリア人の国家」ならば、ヒトラーのドイツは「近代アーリア人の国家」であり、馬が合わないはずはないというわけだ。しかしレザーのヒトラーとの火遊びは度を越していると見なされた。一九四一年、チャーチルはスターリンと歩調を合わせてイランに軍事侵攻、イランを分割占領したうえで、レザーを退任に追い込んだ。チャーチルはそもそもイギリスがレザーをけしかけて倒したはずのあのガージャール朝をまたぞろ担ぎ出すことを画策したものの、王朝の正当な継承権をもつ人物は忠実な大英帝国の臣民よろしくイギリス育ちでペルシャ語も話せなかったために、仕方なくレザーの息子モハンマド・レザーにパフラビー朝を継承させることで妥協した。パパ・レザーが国外追放される際には「パパ、僕を置いて行かないで」と泣きすがったモハンマドは、しばらくは国内政治を積極的に指導する気配など微塵も見せなかった。そんな中、第二次大戦後に急激に台頭してきたのが民族主義者モサッデクだった。広汎な民衆的支持を背景に宗教勢力や共産主義者たちとの政治的主導権争いを危うく制し続けたモサッデクの最大の野望は石油利権をイギリスから奪還することだった。ついにイランの議会で石油国有化法案が可決されたことを知ったイギリスは、自らの利権を守るべくアメリカをけしかけてモサッデクの追放を画策した。当初は介入を渋っていたアメリカも、中国やチェコスロバキアの共産化、朝鮮戦争の勃発などの世界情勢によって反共パラノイアを亢進させ、ついにイランの共産化は現実的な脅威であり叩き潰さねばならないという結論に至った。CIAが実行に移したクーデターはイラン軍部にも浸透していた共産党勢力やモサッデク支持の民衆の抵抗にあって一旦は頓挫しかけ、若きシャーが国外に逃亡する事態にまで至ったが、あくまでも状況が「革命化」することは望まず、立憲君主制の枠を守ろうとしていたモサッデク自身の共産党に対する不信によって民族主義者と共産主義者たちの共同戦線に隙が生まれ、それを見逃さなかったCIAが最終的には漁夫の利を得ることになった。激しい市街戦の末、自宅に籠城していたモサッデクは強引に拉致され、戦車でラジオ局に乗り込んだクーデター勢力がモサッデクを混乱の元凶として断罪し、イラン国民のアイドルである若きシャー様の帰還を宣言してしまえば、それが既成事実として凱歌をあげることになった。
最大の危機を脱した若きシャー、モハンマド・レザーは自らの地位を固守して、父親の威光を乗り越えるべく、強行的な近代化・西洋化に父親以上の執念を見せた。反体制勢力を黙らせ、消し去るために、アメリカの軍人の指導を受けて秘密警察も設立した。やがてヤニスが招かれることになるシーラーズ芸術祭は、そんな危うい権力基盤によって立つ王朝が自らの危うさを糊塗するために国家の表層を西洋近代の色に強引に染め抜こうとした諸政策の一環をなすものだった。イギリスやアメリカに首根っこを握られた王朝が文化・芸術の名のもとに都市部で繰り広げる猿芝居の喧騒のあわいには、危険分子として国外に追放され、あるいは地下に潜伏することを強いられたイスラムの聖職者たちや共産主義者たちの歯ぎしり、そして、信仰も思想も土地も持たない、何ものでもない者として都市の隙間で密かに生き延びる者たちの深いため息やうめき声が、遠い地鳴りのように聞こえていた。
* * *
ヤニスが「夜」を上演した一九六八年に引き続き、一九七一年に再度開催されることになったシーラーズ芸術祭は「イラン建国二千五百年祭典」の前夜祭的な位置づけを与えられていた。「イラン建国」とはキュロス二世によるアケメネス朝ペルシアの建国(紀元前五五〇年)のことである。ペルシア帝国の首都であったペルセポリスが会場のひとつに選ばれた。しかしモハンマド・レザーをはじめパフラヴィー朝の要職にあった者たちの誰一人として、つい最近イスラエル人から教えてもらうまで、ユダヤ人がバビロン捕囚を終わらせた恩人として記憶していたこの古代の王のことなど知る者はおらず、ペルセポリスの遺跡は広大な砂漠の中で太古の夢と蛇とサソリに囲まれて眠っていた。ホテルその他の迎賓施設はおろか道路すら敷かれていなかったペルセポリスだったが、世界中の王族・貴族を招くにふさわしい優美さと機能を持つテント村が巨額を投じた突貫工事で建設された。イラン全土を覆う祝祭ムードの裏には、国家の威信をかけて不測の事態を防ごうとする戒厳状態が張り付いていた。祭典はあのプラトンも称賛したキュロス二世を世界で最初の人権派として称えていたが、皮肉にも祭典に向けて大学は閉鎖され、学生団体のリーダーたちは大した理由もなく秘密警察に身柄を拘束されていた。当時イラン国民の八割は農村に生活しており、その大半は貧しく無知であった。政権による強引な近代化政策によって機械化された農業が導入されたところで、そうした農業を受け入れる素地が農村には存在しなかった。機械が故障してもそれを修理する能力も設備も持っていないイランの農村はアメリカ製のトラクターや動力製粉機の墓場になる他なかった。近代的な教育を標榜して設立された学校でも農村の現実とは無関係な教育が押し付けられるだけだった。やがて農民たちは荒廃した農村を捨てて大量に都市へと移動しはじめた。観光客や諸外国から招かれる貴賓たちの目につかぬように警察によって都市の陰へ陰へと追い立てられたそんな貧民たちが、そのうつろな目で建国祭の乱痴気騒ぎを遠くにまなざしていた。
* * *
砂漠に浮かぶ幻のような祭典の会場で、今回も女王の招きを受けたヤニスが新たにこの芸術祭のために作曲・構成した「ペルセポリス」の上演が始まった。……怪獣ゾロアスターの吐く火の息が文明を業火に包む。幾重にも重なる電気音のグリッサンドは古代の貴族たちが羽織る袈裟の描く放物線となって闇夜に舞う。千の僧侶が祇園精舎の鐘を抱きかかえて転げ回る。無量大数の原子が砂漠から巻き上がりペルシャの大地に降り注ぐ……あいもかわらずいったい音楽なのか否かも定かならぬ怪物的音響の洪水。ヤニスはこの作品をペルシャの古代に、その栄光に包まれた歴史を受け継ぐペルシャ人たちに捧げたかったのだろう。レーザービームが夜空に突き抜け、古代の遺跡が夜の闇に浮かび上がる魔術的な演出とともに演奏されたその作品を実際に鑑賞した各国の王族や君主たちはそんなヤニスの意図をいくらかは感じ取って、大いなるスペクタクルを堪能したかもしれない。しかし建国際の乱痴気騒ぎを遠くで苦々しく眺めていた人々には全く異なる景色が見えていた。イランの新聞のなかには芸術祭にヤニスが参加したことを「第二の侵略」と形容したものがあった。前衛音楽だと?ふざけるな。実際にどんな音楽が演奏されたのかなど問題ではなかった。かつてギリシャ人たちが自らを「ギリシャ人」として思い出さねばならなかったように、イラン人たちはペルセポリスがどのような場所だったのかをイラン人として思い出そうとしていた。ペルセポリスは「ギリシャ人」であるアレクサンドロス大王の部隊がペルシア帝国侵略の最後に足を踏み入れて、略奪と破壊の限りを尽くした場所だったのだ。またぞろギリシャ人がやってきてペルシアを西洋の火で焼きつくそうというのか。強国の思惑に翻弄されてきたイランで、人々は王朝が振りかざす西洋近代なるものをますます疑いの目で見ていた。かつてレザー・ハーンが、あるいはモサッデクが、大英帝国でもソ連でもない方向に見出そうとした近代国家としてのイランの自立の夢は未成のまま民衆のあいだにくすぶっており、CIAに操られる王が裸であることを見抜く者たちのなかでは革命への意思が発酵していた。イスラム学徒たちは亡命を強いられていたホメイニのブロマイドを懐に忍ばせていたし、共産主義あるいは民族主義を標榜する学生たちのあいだでは『西洋かぶれ(ガルブザデギー)』というタイトルの発禁本がひそかに出回っていた。そんなかれらにとってヤニスの前衛音楽など、シャーがなりふり構わず輸入して人々に押し付けようとした「西洋近代」の先棒を担ぐものでしかなかった。フランスに帰国した後もヤニスはイランからの亡命者などによる厳しい批判に曝され、やがてヤニスはイランの女王からの支援を一切立つ決断をすることになった。
ヤニスは同志たちが消えていった夜を思い出していた。「民主主義など虚偽です。どの体制も人工甘味料で味付けされた神話を人々の口に突っ込むだけなのです。癌に侵されていない国があるでしょうか。アメリカのベトナム侵略、黒人差別。外国人やアイルランドの愛国者たちに対するイギリスの非道な扱い。永久にナチズムが支配するままのドイツ。創造し思考する自由を失墜させるソ連。中国における毛沢東の宗教的崇拝、そしてその中国が資本主義の先兵として非難していたアメリカとの国交回復……どこに行けばよいというのでしょうか。私はさまよえる者です。どこの国でも、芸術の世界でも、つねに「異邦人」なのです。ソ連や連合国によって裏切られたあのギリシャのレジスタンスの火、そして自分の音楽への必死の努力、それだけが私を光に、あるいは死に、導いてゆくものです。」
【あとがき】
ある時、私はヤニス・クセナキスがイスラム革命前夜のイランに招かれて作品を上演したという事実を知って「いったいなぜイランで?」と不思議に思い、あれこれ調べてみました。当時クセナキスはフランスにいましたが、六〇年代後半のフランスは政治的にも文化・芸術的にも最高度の緊張のなかで沸騰していたはずで、そんな場所で誰よりも先鋭的な音楽を作っていたともいえるクセナキスが革命前のイランの建国祭に招かれて作品を上演したということに、なんとはなしに奇異なコントラストを感じたのです。当時のイランはフランスをはじめとしたヨーロッパと濃い繋がりを持っており、たまたま各種の芸術祭などの企画に携わっていたあるイランの政府関係者がクセナキスを知ったことがきっかけとなって芸術際への招待に発展したようで、それ自体は特に大した話ではなさそうでした。ただあれこれ調べてみて、フランスその他世界各国が一九六八年という年に象徴される政治的・文化的高揚を迎えるなか、そこからは少しだけ外れたところに漂いながら生き延びてきたクセナキスのかなり特異ともいえる経験、そして彼の生来の気質であるとともに歴史的・政治的状況が彼に強いたものも含むその「異邦人」性に少なからぬ興味を覚えました。この文章は、クセナキスという音楽家が七〇年代初頭にイランの建国祭において「ペルセポリス」という作品を上演したという音楽史的なエピソードがどのような歴史的・政治的コンテキストの中にあったのかを、少し長期的な視野でごく荒く素描したものですが、文章にまとめようとするうちにあれこれ触れておきたいことが広がってしまい、一つの完結した文章として自分なりにケリをつけるには何かが足りない気もして、書きかけのまま放置していました。この文章は少しバイロン的なロマン主義に満ちたナショナリズムのようなものをやや曖昧に肯定しているようなところもあるように思われるかもしれませんが、「近代国民国家」というものが様々な歴史的文脈において人々に与えてきた夢の意味については未だに考えるべきことがあるのだろうとは思います。とりわけ冷戦の負の遺産が未だに決定的な意味を持っている東アジアの一国家である日本が、どこか危ういナショナリズムに傾斜しているかに見える状況においては。
この文章はおおむね、私が調べることのできた範囲ではほぼ確定的となっている事実に沿って書いてはいるつもりですが、ギリシャやイランの現代史などはまとまった著作よりも主にネット上に散らばる情報を参考にしてまとめていますし、なんら独自の研究や考察が含まれていないことは言うまでもなく、素人が余興で書いたものですので細かい検証に耐えられるものではないかと思います。また私の文体のなかに隠微な創作や検証不足な評価が混じっていることも否定できません。
イランからはしばらく前から抗議デモの激化など体制の動揺が日本にも伝わってきていて、いまアメリカが再度イランを攻撃するという話も上がっています。この記事でも名前が出てくるモハンマド・レザーの息子は、イランのイスラム体制が崩壊したら自分の出番が来るのではないかと阿呆面をしてアメリカで待機しているようですが、現在の世界情勢ではその願望が実現しないとは誰にも確言はできないでしょう。そんなイラン周辺の報道温度が上がりつつある情勢に便乗するような魂胆がなくもありませんが、この文章にこれ以上画竜点睛をもたらす霊感がいつかどこかから降ってくるという予感も特にないことですし、中途半端で荒い素描のままですが、公開することにしました。
※クセナキスが音楽家になる過程に文章中では触れていませんが、クセナキスはギリシャで地下に潜ってイタリアに出国し、そこからすぐにフランスに移動しており、当初はアメリカに渡る予定だったようです。このあたりはすべて共産主義者のネットワークを頼っているはずです。で、フランスでたまたまコルビュジエが誰かも知らずに工学の知識を活かして求人広告に応募してコルビュジエの助手になり、そこで働く傍ら音楽の勉強をすることになり、パリ音楽院で出会ったメシアンから「君は数学という武器を活かすべきだ」と助言されたことがあのスタイルに発展するわけですね。
※こちらはイギリスの統治に抗議するギリシャの民族解放戦線系のデモの写真と思われるもので隊列左端から二番目にクセナキスが映っています。
参考文献
Nouritza Matossian (1986), Xenakis, London : Kahn & Averill.
Aram Yardumian, Persepolis, Bloomsbury USA Academic.
