飛翔
土が口に入ってむせる。落下の衝撃はさほど身体にダメージを与えてはいないようだった。湧き出る唾と共に口の中の土を吐き出しつづけていた。
「大丈夫か?」
上の方から声がして、振り返れば、知らない男が立っていた。ちらと前方に視線をやり、それから再度男を見る。こちらを覗きこんでくる男の視線には純粋な心配の色が見て取れたような気がした。右足のつま先を前に向けたまま、男に向けてうなずく。
「そっち、降りてもいいか?」
言いながら、もう男は進みはじめていた。光は慎重に男が足を進めて崖の比較的緩やかになった箇所を滑るようにして土を落としながら降りてくるのを眺めていた。スーツに革靴、そしてその恰好に不釣り合いの大きめのリュックサックを背負っている。そんな恰好で危なっかしげに降りてくる。あともう少し、光がいる比較的水平な地面に降りるというところで、男は滑った。うお、と声を発し、尻餅をついた。
「だいじょうぶ?」
咄嗟に言って、光はすぐ口をつぐんだ。尻についた土を払いながら男は照れたようなばつの悪いような顔をして、笑った。光はその顔に苛立ちを覚える。
「飛ぼうとしたのか? できたか? いや、失敗したからここにいるんだよな」
妙にわかった口を利く男にまた、苛立ちを覚える。
「おっさん、誰。何しに来たの? 関係ないよね」
声をとがらせて、光は男の目を見る。男はその顔を見て苦笑すると、
「そう警戒すんな。まあ、同士だよ」
「同士?」
「俺も飛ぼうとしたんだ」
光は男を見る。まだ若さが残るが、その顔に疲労を上塗りしたようなくたびれた男が自分と同士とは到底思えなかった。少なくとも、そう簡単に同士と言ってくるその慣れ慣れしさが光には許せなかった。
「違う」
「違わねえよ」
「おっさんは、死のうとしたんだろ」
「さあな。近く歩いてたら、なんかが落ちる音がした。で、近づいてみたらそこにお前がいて、咳してて、そりゃ大人として、心配になるだろ」
「大人として、ね」
「なんだ、その物言いは。まあ、いい。それより」
男は静かに首を振るう。光の肩ごしのそれを指さす。
「それ、翼だろ」
光は、びくん、と反応し、それからその反応に顔が熱くなるのを感じた。
「珍しいな。羽持ちなんて、久しぶりに見た」
「見るな。もう、帰る」
光は言いながらもう歩きはじめていた。男の横を通り過ぎて、崖を昇っていく。
「おい、なんだ、別にいいだろ。気にすんなよ。俺は気にしてねえよ」
光は家に向かって歩き続ける。翼がちいさく震えるのを止められなかった。
足に力を入れて、思い切り地面を蹴る。重力から解放される感覚が一瞬身体を覆い、そのつけを払わされるように一気に身体が重くなる。翼を動かしてどうにか滞空しようとして、けれど、地面はどんどん近づいていき、やがて、落ちる。
着地は足でできた。五体を同時に地面に叩きつけられることはもうなくなり、少しずつ滞空できる時間は伸びていた。
「惜しかったな」
空の声が聞こえた。
「まだまだだ」
光は翼の調子を確かめながら言う。肩甲骨の根元が痛んでいた。今日はもう無理かもしれない、と思う。左手首を振ると、かすかに痛んだ。今日生まれた痛みではない。ずっと前からある痛みだった。飛べるようになれれば、この痛みから解放されるような気がする。
「なあ、おまえが飛びたいのはわかってるけど、そこまでしないとだめなのか?」
「だめだ。俺はもう、飛ぶしかない」
光は、それを以前にも思ったことを思い出す。翼があるんだから、飛べない方がおかしい。頭の内側を誰かが言ったその言葉が響き渡る。
「あんま、無理すんなよ」
空の声が優しく光に届いた。何度も見てくれているからこその声だった。光はちいさくかぶりを振る。無理してでも、飛ばなきゃなんだ。そう声には出さず、思った。
「羽持ちで、そこまでできればお前は天才だよ。うん十年ぶりだろ、羽持ちが生まれてくるのは。お前はそれだけで、才能があるんだ。天才だよ」
そうではない、と思った。遺伝子異常で発現するこれが才能だなんて思ったことはなかった。神様がくれたこれはただの疾患で、余計でしかない。普通でありたいとずっと思っていた。
「前の、そのうん十年前の天才はどうなったんだ?」
光はしゃがみ込んでふくらはぎの筋肉をほぐしながら空に訊ねる。
「さあな、きっとしがないサラリーマンにでもなって、えっさほいさと働いてるんじゃねえか」
「じゃあ、翼の意味ねえじゃん。才能ないだろ」
そうだな、と空が笑う。光の嫌いな、誰にともいえないおもねる笑いだった。
「神様が本当にいるなら、おれのこの翼はきっと罰なんだろうな」
「どうして」
「おれはこのせいでいいことなんてひとつもなかった。みんなと違う、その一点で、おれはもう誰かと肩を並べるなんて、できなかった」
「神様はきっといるよ。で、おまえのこともほめてくれる。きっとな」
「どうやってだよ。神様見たことねえ」
「きっとでかすぎるんだろうな。空からでかい顔がにゅっと出てくるさ」
「怖えよ」
ま、それにさ。と空が言う。神様がいなくたって、
「俺がいるだろ」
素早く振り返って、光はまじまじと空の顔を見る。空の顔にいつもの笑いが浮かんでいる。そう思った。でも、そうではなかった。光はわざとあくびをして、のびをする。
「なあ、汗かいちゃったし、銭湯いかね? もちろん、空のおごりで」
「なんでだよ、いやだよ。こっちは失業サラリーマンだぞ。おまえなんかよりよっぽど金がない。それだけは自信を持って言える」
「そんなことに自信持つなって。ま、いいわけだろ。おれのより、空のがちいさかったら悔しいもんな」
空は、ぽかんとして、それから破顔した。
「あほ言うな。これだから中学生は生意気で困る。俺が断ったのはな、おまえが羽持ちの天才なのに、無職のおっさんに負けるのが悔しいだろうってやさしさなんだよ。俺のアナコンダでお前をビビらせない、配慮だよ」
「ばーか」
駆ける。蹴る。顔を風が切り、翼を動かす。ふっと身体が軽くなって、空気が下から身体を押し上げる。飛んでいた。下から空の声が聞こえると思った。喜んでくれると。
でも、いなかった。上から影が差して、声がする。
「やったな」
空だった。空が光と同じように飛んでいた。
「なんだよ」
光は笑いながら言う。
「天才、おれだけじゃねえじゃん。おまえも天才だったのかよ」
「悪いな。恥ずかしくて。でも、アナコンダは本当だぞ」
「うるせえよ」
