【小説】大冒険のつづき
「はぁ、なんで絵本なんて子供じみた仕事しなきゃ…」
今の時代、どこで誰がこの言葉を聞いているのかなんて分からない。可愛らしい子どもの前でこの発言をしたのならば即刻炎上ものだろう。
肩からかけたショルダーバッグは今の出版社に拾ってもらった当初からの相棒だ。肩紐が日に焼けては取り替え、破れては取り替え、、、ここまで長い付き合いなことだ。
俺は子供の頃から小説が好きで、よく父さんの本棚から勝手に小説を取り出して読み漁ったものだ。たまにジュースをこぼしたりして怒鳴られたり、菓子の食べこぼしを挟んだまま本棚に戻して怒鳴られたり、まあ良い思い出だ。
そんな子供もついに成人し、しこたま面接を繰り返してようやく夢だった出版社に勤めることができた。
初めは新人の書いた少し拙い小説、次に中堅の唸るような文学、たまに大御所の傑作を担当してはや十数年。
今日は新しい"先生"の原稿を受け取るために足を動かしている。その先生を担当していたやつがインフルエンザに罹患したのが昨日、俺に原稿の受け取りを命じられたのが今朝の8時、こなさなければいけない仕事もあるというのに迷惑な話だ。
これから顔を合わせる先生、双葉小弓は絵本を主に描かれているらしい。つい昨年に子どもが小学校から卒業した我が家にはもう数えるほどしか絵本はないし、その絵本も物置の隅に細々と存在感を放っている。上手く話を合わせられるだろうか、そんな不安を抱えて手元の地図を見る。
「次の角を右ね、、、」
上司直々に渡された手書きの地図に従い、90度の回れ右、そして再度歩みを始める。
「はぁ、スマホ壊れてなけりゃなあ」
先週、酔っ払ってスマホを落とし、全治2ヶ月の重傷を負わせてしまった。このあたりの地形に詳しくない俺に上司はニコニコと『相手方も手書きなのだからお前も手書きのものでいけ』という訳のわからない理屈を並べられながら地図を手渡され、今に至る。
まったく、パソコンのボタンひとつでデータを送れる時代なのにも関わらず、なぜ俺が直接出向かなければならないのだ。
そう愚痴をこぼしそうになったが、また上司の『とにかく売上を期待できる作品を書く先生だ。きちんとお相手しろ』とのありがたいお言葉を思い出し、吐きかけたものを飲み込んだ。出版業界の唯一苦手なところは、どんな本にも「売上」などの資本主義を連想させる言葉が付きまとう点だ。
さあ、この角を曲がればいよいよ大先生とのご対面だ。
「、、、ここか?」
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「じゃあこちらの原稿用紙を、読み方が分からないものは私の方で訂正してあります」
約束通りに短編小説にふさわしい分厚さの原稿用紙を受け取った。原稿の上に敷かれた文字は一貫して不揃いでまず目を大きく飛び出している。俺には解読不可の部分には波打った線が引かれている。その隣には達筆な字が美しい佇まいで並んでいる。
それだけではなく数枚の原稿用紙の後ろには折り畳まれた画用紙が10数枚ほどあり、どれもが独特な色合いで、しかしどこか心温まる線画であった。
触り慣れたものであるはずなのに、手中のそれにはどこか奇妙な印象を受けている。
それは先生のせい、、、であるからなのか。
「あっ、ありがとう、、、ございます。この度は双葉先生とお仕事をさせていただけて光栄です」
「いーよー!」
俺は確かに目の前の女性に向かって話したはずなのだが、返事はベッドの中でクレヨンを自由自在に動かす少年から帰ってきた。思わず「は?」と疑問の声をあげてしまうところであったが、なんとか堪えて女性に向き直る。
「ああ、これまでの原稿は全部この子が描いたんですよ」
「、、、え?しかし双葉先生ってあなたでは?」
「この子が自分の名前では恥ずかしいというので仮に私の名前を使っているんです。私も恥ずかしいんですがね」
手を口元に当てて笑う姿には気品に溢れており、俺は自分の動揺を忘れてしまいそうになった。対する俺は気品とはかけ離れた不恰好な笑みを作るのに精一杯だ。
「おじさんだあれ?」
「え、あっ、私は」
どんな大御所の前でも言い淀むことのなかった自己紹介が初めて詰まってしまった。先生は私の目をまっすぐと見つめた後、また画用紙へ向かった。
「おっ、お世話になっております。私は宗谷出版の樋口と申します」
ようやく絞り出した自己紹介は先生に届いたのか、反応が返ってこないのでやはり戸惑う。
清潔に整頓された白い部屋に爽やかな風が吹き込んだのと同時に先生が俺をみて元気よく口を開いた。
「ふたばまさとっていいます!」
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「驚かれたでしょう、息子はまだ5歳なので」
まず手書きの地図はこの地域で最も名のある病院がゴールに指していたことにも驚いたが、先ほどベッドの上にいた少年、双葉正人くんがこれまでの作品を描いていた"先生"であることにここ10年で最も驚いた。
正人の隣に置かれた簡素な丸椅子に座った小弓は、自分の世界を表現し尽くそうと画用紙を彩っていく息子の姿を噛み締めるように見つめている。
そして暖かみにあふれた微笑みを浮かべたまま、俺の顔に向き合った。
「えぇ、まあ。驚かなかったと言えば嘘ですが」
「いつも担当していただける佐伯さん、インフルエンザに罹られたんでしょう。お大事に申し上げください」
座りながらも深々とお辞儀する小弓に釣られ、俺も不自然なくらいに頭を下げてしまった。先ほど受け取った原稿と目があった。
視線を直すと正人は描いた絵に満足したのか、机の隅に追いやっていた原稿用紙を手に取った。すると画用紙にするのと同じように大きく大きく文字を書き始めた。
「もう文字を書けるんですか。凄いですね」
「ええ、もう5年ですから」
『もう5年』という言い回しに少し首を傾げながら、正人が辿々しく文字を書く様を見つめてみる。使っているのは一般的なHBの鉛筆、それを手のひらでしっかりと握っているため少し書きにくそうだ。
しかしそんな不満を微塵も漏らさず、正人の顔は初めての冒険に出た少年の顔をしていた。
「5年ですか、来年からは小学校に?」
まずい質問をしてしまったかと不安になる。小弓の顔に少し悲痛の色が見えたからだ。
すぐに先ほどのような微笑みを浮かべて言葉を紡ぎはじめた。
「いえ、その、息子は」
何かを言い淀む母親の様子を見かねたのか、正人はさっきよりも元気な声で俺に言葉を投げてきた。
「ぼくね!ここから出たことないの!」
「え?」
「ずーっとおふとんのうえ!でもね、でもね。おえかきとか、ぼうけんたんをね、かいたりしてたのしいんだ〜」
そう言い放った正人はまた目の前の原稿用紙に視線を落とした。
5歳の子どもから『冒険譚』なんて言葉が出てくる驚きよりも先に、正人の生い立ちを想像してしまう。なんて言葉が適切なのであろうか、あんなに本を読んだのに適切な言葉が見つからない。
空気を読まない爽やかな風が病室に流れ込む。このやけに重い緊張感ごと攫ってくれと強く思う。
「正人は生まれつき体が弱いんですよ」
諦めたように、そして先ほどよりも強い悲しみを顔に浮かべた小弓は語り出した。
膠着した首を何とか動かし、頷くことで小弓の次の言葉を促す。
「歩けたとしても数十メートル、本人は同年代の子に比べても元気なんですけどね」
「ええ、それは、はい」
何とも情けない声を出したものだ。こんな時に気の利いた一言も言えない自分が恥ずかしくなってくる。
「3歳くらいかな、夫が絵本を大量に持ってきて。病室の棚にも入りきらなくなっちゃうくらいに抱え込んできたんです。あの人と息子はすごく楽しそうだったんですけど、他の人のご迷惑になるか私は心配で」
「息子さん思いのいいお父様じゃないですか」
「ええ、本当に子ども好きで。こっちが困っちゃうくらい」
昔の思い出を指でなぞりながら、栞を挟んだページを読み直すように小弓は正人が絵本作家となる経緯を話しはじめた。
パンドラの箱を開けるような雰囲気ではなく、宝箱を開けるような幸福感と共に言葉が風に乗って流れてくる。
「そんな大量の絵本もすぐに読み終わっちゃって。すると代わりに私の読んでた文庫本を読みたいと言ったんです。あ、ちょうど宗谷出版さんの本だったかしら」
「それは、ありがとうございます」
「ええ、分からない言葉や漢字を教えながら一緒に読みました。30分もあれば読み終わる短編も2週間かけて、長編を読みたいと言われた時は少し気が重かったですけどね」
この子が5歳に似合わないほどの文才を持っている理由がよく分かった。俺でさえ小学校高学年になってから小説を読むようになったのに。子どもの探究意欲とはすごいものだなと改めて思う。
「それからSFものだったりファンタジーものだったり、サスペンスは読ませないようにしてましたがいろいろなものを一緒に読みました」
「そして自分でも書くように?」
「はい、最初はやはり拙いものでしたけれど、書くにつれて正人の世界が洗練されていったんです。新しい絵の具が付け足されていくように、どんどんと美しく綺麗な世界に」
『手前味噌ですが』と恥ずかしそうに、けれど心から息子への賞賛を並べる小弓の姿はとても美しかった。
先ほど、確認のために正人の書いた原稿用紙や画用紙へ軽く目を通した。だからこそ分かるが、小弓の言っていることは間違いでは決してない。
子どもだから、そんな言葉で括ってしまうのは愚かだと思えるほどに豊かな発想、そしてそれを彩る鮮やかな世界。正人の頭に広がっている世界の美しさが純粋に出力されている。不純物なんてミクロほども含まれない、どんな大御所にもこのような綺麗な世界は作り出せないだろう。
「私もそう思います。子どもがもう少し小さかったらぜひ読んであげたい一冊でした」
「ふふ、そうですか。ねぇ、正人のお話を褒めてくれたよ」
「ほんと!ありがとお!」
「ああ、正人くんはとても素敵な冒険に出ているんだね」
「うんっ!とってもたのしいよ!」
この少年もいつかは自分の運命を恨む日が来るのだろうか。
目の前にいる双葉正人の輝かしい目がとても眩しい、心から作品作りを楽しんでいることがよく分かる。
「おじさん、もう正人くんのファンになったよ」
「ほんとっ!ありがとう!お兄さん!」
"お兄さん"と言われたことがむず痒く、正人に『とても面白いね』という言葉が少し遅れてしまった。
数ヶ月後。
「あれ?父さんが小説以外の本を読んでるの珍しいね」
リビングのソファに背中を預け、いつかの少年が作り上げた世界を眺めていた。その背中にすっかり大きくなった息子の誠也がツチノコでも見つけたかのような声で話しかけてきた。
「この本、父さんが担当したんだよ」
「へぇ、すげえじゃん」
俺が正人を担当した唯一の作品であり、つい先日にようやく出版された。この本を読むことは、どんな小説の新刊よりも待ち望んでいたことである。
「どうだ、読み聞かせしてやろうか」
「は?いくつだと思ってんの」
ため息をつきながら『友達と遊び行ってくる』という言葉を残し、誠也はリビングから離れていった。
誠也の大きくなった背中へ『自由に遊ぶことができるのは幸せなことなんだぞ』と、そんな説教に似た言葉をかける前に『気をつけてな』と背中に投げかけた。
自分勝手な思いで、あたかも正人が不幸であると決めつけてしまうところであった。
「綺麗な話だ…」
一つの旅を終えた気分のようになり、俺は机の上に少年の世界を優しく置いた。
正人は元気にしているだろうか。
今も自分の世界をこの世界に書き写しているのだろうか。
そんなことを考えていると、ポケットの中のスマホが大きく震えた。発信者は俺の上司である。
「はい、樋口です」
『おお、お前に随分前に頼んだ絵本の仕事あっただろ?』
世間話もなしにすぐ仕事の話をされることにため息をつきそうになる。休みの日にすまないという思いはこいつの中にないのだろうか。
『双葉正人がお前のことを随分と気に入ったようでな、つぎもお前に担当して欲しいんだとよ』
『ガキに好かれちまったな』とかふざけたことを続けていう上司に腹を立てつつ、またあの少年と顔を合わせる機会を貰えたことが何よりも嬉しい。
「やります、やらせてください」
今はただ、あの少年の目が曇ってしまわないように。大冒険の続きを書き続けられるような手助けがしたい。
あの日のような爽やかな風が部屋に流れ込み、優しく頬を撫でた。
