避雷針家族 第3話 「認知症を治すハズが!」
避雷針とは、雷を誘い込み地面へ逃がすことで、雷からの災いを防ぐ設備である。野口家は今日も災いを引き寄せる。
昼下がりの穏やかな陽射しが、野口家の居間に差し込んでいた。
三人は縁側に近い畳の上で、温かい緑茶をすすりながら、のんびりとワイドショーを眺めている。画面の中では、コメンテーターたちが「認知症予防の対策特集」について熱弁を振るっていた。
「ねえ和彦さん」
詩織が茶碗を置き、いたずらっぽく微笑む。
「もし私が、おばあちゃんになって和彦さんのことを忘れちゃっても……和彦さんは私のこと、ちゃんと覚えててくれるから幸せっ!」
「そうよね、本当に幸せだよね」
百合も湯呑みを置いて頷く。
「和彦さんの肉体は、時間が止まったみたいに老化しないんだもの。脳の部分だってずっと若いままで、ボケようと思ってもボケられないんだから。私たち、将来の介護の心配だけはしなくていいから、絶対に損しないわよね」
和彦は「おいおい」と苦笑いしながら、頭をかいた。
「君たち、僕を何だと思ってるんだい? 肉体が老化しなくたって、うっかり物忘れすることくらいはあるんだから。それに、二人ともまだアラサーなんだから、そんな縁起でもないこと言わないでくれよ」
「あははははは!」
三人の明るい笑い声が、平和な午後の空気に溶けていく。
しかし、その幸せなひと時の裏側で、彼らの知らない場所から、新たな事件の足音が近づこうとしていた。
その男、曽我(そが)は、愛蘇講の熱心な修験者の一人だった。
しかし彼も、「肉体の蘇り」を信じているわけではなかった。科学者として日夜研究に励む彼にとって、死んだ細胞を物理的に蘇らせることはあまりに非現実的な空論に思えていたのだ。
「せめて……脳の部分的な蘇り、すなわち『失われた記憶』を呼び戻すことさえできれば」
それが、認知症研究を専門とする彼なりの、切実な「信仰」の形だった。
そんな折、彼は和彦たち三人と出会った。あの凄惨なバス事故の現場で、だ。
大型の観光バスがあれほど激しく衝突し、たくさんの破片が散らばる中で、和彦だけは驚くほどわずかなダメージで済んでおり、淡々と人々を救い出していた。その異常なまでの生命力を目の当たりにした曽我は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(あの若者の肉体には、損傷を瞬時に補完し、細胞の活力を極限まで高める未知のスイッチがあるのではないか……)
「あの凄まじい活性化の仕組みを、もし脳細胞の再起動に応用できれば……」
曽我の知的好奇心は、その日を境に爆発した。
それからの彼は、文字通り時間を忘れ、周囲の声すら届かないほど研究に没頭した。和彦という存在から得た強烈なインスピレーション
――「強制的に細胞を呼び覚ます生命力」のイメージ――
をもとに、脳の休眠領域を劇的に活性化させる画期的な「認知症の新薬」の着想を得たのだ。
研究はさらに加速し、ついに曽我の中で「完璧」と思える新薬が完成した。
眼前に広がる、認知症のない未来。彼はその輝かしいビジョンに目が眩み、もはや正常な判断力すら失っていた。
「これは山による福音だ。一刻も早く、苦しんでいる人々を救わなければ」
安全性を確認するための慎重なプロセスや、国が定める厳格な手続き。本来あるべき「理性のブレーキ」は、もはや存在しなかった。彼は認可を仰ごうという発想すら持たず、ただ救済という名の本能に突き動かされるまま、密かに独断での臨床試験に踏み切ってしまった。
臨床試験の開始から数日後、その「福音」は一転して惨劇へと変わった。
70代以上の高齢患者には劇的な改善が見られたものの、若年性認知症を抱える比較的若い患者たちが、脳のオーバーロードによって次々と倒れ、意識を失ったのだ。
開発者である曽我は、天国から地獄へ突き落とされたような衝撃に打ちひしがれた。目の前で泡を吹いて倒れる人々。彼は自らの過ちの重さに耐えかね、その場に立ち尽くしたまま、魂が抜けたような放心状態で動けなくなっていた。
野口家のもとに、愛蘇講から緊急の連絡が入った。
事態の隠匿と救護を兼ね、倒れた人々はすべて愛蘇講の地下施設へと秘密裏に収容されていた。駆けつけた和彦は、横たわる多くの人々を見て、激しい自責の念に駆られた。
(ああ、僕のせいだ。僕がいたから、彼はあんなものを作ってしまったんだ……)
だが、今の和彦には専門的な知識も、彼らを即座に治療する術もなかった。和彦はただ、罪滅ぼしをするかのように全力で患者たちに寄り添い、額の汗を拭い、手を握り、看病を続けるしかなかった。
その傍らで、詩織は真っ先に曽我のもとへ歩み寄った。
「曽我さん、しっかりして。あなたが止まったら、この人たちは本当に救われないわよ」
詩織は、絶望の底にいる曽我の心に、霊力の宿ったような力強い言葉を掛け続けた。生きる力を呼び覚ます彼女の言霊が、曽我の凍りついた理性を少しずつ解かしていく。
百合は一人、冷静に現状を観察していた。
「……おかしいわ。わずかに意識がある若い患者ほど、身体機能は安定しているのに、周囲とのコミュニケーションが全く成立しなくなっている」
彼らは周囲の呼びかけを完全に無視し、うつろな瞳で哲学を語るように呟いてる人や、指先で宙に不可解な図形を描き続けている人もいた。その姿は、特定の対象に異常なまでの執着を見せる「自閉症」の特性を、極限まで先鋭化させたかのようだった。百合がその違和感を周囲の修験者に告げると、修験者の中には自閉症を専門に研究している科学者、愛智(あいち)がいるという。
百合は即座に愛智を呼び寄せてもらい話を聞くと、まさしく自閉症の症状によく似ているという。特定の能力がずば抜けて優れているあの症状に。
百合はすぐさま詩織によって正気を取り戻した曽我と引き合わせた。
「二人の知恵を合わせて暫定的でいいので、今すぐこれ以上脳を壊さないための中和剤を作ることは可能でしょうか?」百合の冷静な言葉に二人は全力を尽くすことになった。
和彦・詩織が患者たちの心と体に寄り添い、百合がその傍らで見守る中、研究室では二人の学者が必死の解析を続けた。
24時間後、ついに中和剤が完成した。
すべての患者に注射が行われると、昏睡していた人たちが次々と意識を取り戻していった。
だが、やはり事態は好転しなかった。意識は戻ったものの、彼らの思考はあまりに高次元へ加速しすぎており、健常者とのコミュニケーションはもはや皆無だった。若い人ほど、己の内部で暴走する「知能」という名の宇宙に飲み込まれ、他者と言葉を交わす術を失っていた。
愛智と協力してデータを洗った曽我が、震える声で結論を口にした。
「若い人ほど……知能が、極限まで高まりすぎてしまったんだ。脳が急激に獲得した膨大な情報処理能力が、人間本来の情緒や対話の機能を置き去りにして、独自の論理体系の中に彼らを閉じ込めてしまった……」
ひとまずの危機は去った。しかし、そこに残されたのは「超知能」という名の孤独な檻だった。患者たちは愛智の指示のもと、一時的に施設で静養させた後、百合の手配によって順次、市内の精神科へと移送されていった。
すべての患者を精神科へ移し終えてから、数日が経過した。
事態は収束に向かっているかに見えたが、百合のもとに一報の不穏な連絡が入る。
「……あの患者の中で、一番若かった45歳の男性が、病院で手の付けられないほど狂乱しているみたい」
三人は即座に病院へ駆けつけ、百合と合流した。
担当医の話によれば、昨日まではうつろな表情で何事かを呟き続ける、比較的静かな容態だったという。だが今日になり、いきなり専門医でも見たことがないほどの激しい狂乱状態に陥ったのだ。
隔離された病室の中で、男性は獣のように咆哮し、周囲の物をなぎ倒していた。
「僕が、話を聞くよ」
和彦が先頭に立ち、男性の傍らに座り込んだ。和彦の持つ「穏やかな受容の空気」が、荒れ狂う男性の心に触れる。その横で百合が、今の医学的状況と彼に起きている異変を冷静に、かつ論理的に説明し、混濁した意識を整理しようと試みる。さらに詩織が、絶望を光に変えるような力強い言霊を、一滴ずつ注ぎ込むように語りかけた。
三人の必死の働きにより、男性の暴れるような身体的な狂乱は、次第に収まっていったが、それと入れ替わるように、彼の声は別の鋭さを帯び始めた。落ち着くどころか、三人が投げかける善意や理屈の一つひとつに対し、それを根底から否定するような反論を、喉が裂けんばかりの大きな声で叫び始めたのだ。
それは、この世界のあらゆる救いを拒絶し、深い虚無の底から響いてくるような、呪いに近い叫びだった。
それでも三人は諦めなかった。和彦はただ寄り添い、百合は導き、詩織は祈るように言葉を重ねる。三人がかりで、彼という一人の人間を闇から引き戻そうと、持てる力のすべてを振り絞って対話を続けた。
やがて、その熱意が届いたのか。
激しく叫び続けていた男性は、ふっと憑き物が落ちたように静かになった。
「……分かりました。ありがとうございました」
彼は深く一礼すると、驚くほど落ち着いた足取りで、自らの病室へと帰っていった。
三人はようやく彼と心を通わせ、救い出せたと確信した。安堵の溜息を漏らしながら、夕闇の迫る家路についた。
だが、翌朝届いた知らせは、あまりにも無慈悲なものだった。
昨夜、深夜の静寂に紛れて、彼が病院の屋上から飛び降りて亡くなったというのだ。
病院からの連絡を受けた和彦は、大きな落胆に沈んだ。
だが、それ以上にショックを受けたのは、詩織と百合の二人だった。
二人は放心状態のままその場に崩れ落ち、溢れ出る涙を止めることができなかった。
彼は、あまりにも高知能になりすぎたがゆえに、三人が投げかけた言葉の意味だけでなく、その裏側にある真実までも瞬時に見抜いてしまったのだ。
三人の献身は、彼にとってはこれまで出会った誰よりも気高く、尊いものに映った。しかし、それほどまでに心を動かした彼らであっても、所詮はこのごく小さな世界の理(ことわり)に縛られた「その程度の人間」に過ぎないのだと、冷酷な計算結果が導き出されてしまったのだった。
この素晴らしい三人をもってしても自分を救いきれないのなら、この世に生きる価値などどこにもない――。彼は夜中、静かに寝たふりをして周囲を欺き、誰にも見つからない時間を狙って、自らの意志で屋上へと向かった。
野口家の居間には、沈痛な空気が流れていた。
詩織と百合の二人は、結婚して以来、自分たちが関わった事件で「救えなかった命」など、ただの一人もいなかった。自分たちの絆と能力があれば、どんな理不尽も跳ね返せると信じていた。その自信が、今は彼女たちの心を鋭く切り裂いている。
「……二人とも、よく頑張ったよ」
和彦が、縁側を朱く染める夕焼けを見つめたまま、静かに口を開いた。
「二人がいたからこそ、これまでの5年、あんなに大勢の人を救うことができたんだ。君たちと夫婦になってから、僕は毎日、信じられないような奇跡をずっと見せてもらってきたんだよ」
和彦は二人の肩にそっと手を置き、引き寄せるようにして語りかけた。
「……僕一人では、君たちと出会うまで、何度もこの落胆を味わってきた。今回、本当に残念なことが起きてしまったけれど、また、未来のためにできることを全力でやるしかないよ。そうすれば、また必ず奇跡は起きるから」
二人は、和彦の穏やかな、けれど揺るぎない言葉に、溢れる涙を拭いながら小さく、何度も頷いた。
和彦は、愛蘇講と深く関わってしまったことを心の隅で少しだけ悔やみつつ、燃えるような夕焼けが差し込む縁側に座り、静かに妻たちの悲しみを受け止め続けていた。
和彦の静かな言葉が、傷ついた二人の心に染み渡っていく。
詩織と百合は、まだ溢れる涙を止めることができず、俯いたまま和彦の言葉を噛み締めていた。
和彦は二人を励ましながら、ふと、何気なく縁側の向こう側、燃えるような夕焼け空に目をやった。
「え……?」
50メートルほど先の上空。庭にある大きな樹の、すぐ右上あたりの方角に、それが見えた。
人のようなものが音もなく空中に浮いている。
アラフォーの女性が微笑みながら涙を流しているように見えた。
「え、え……? ね、ねえ、あそこ! あそこを見て!」
和彦は驚愕のあまり声を震わせ、俯いている二人の肩を激しく揺さぶった。
和彦に急かされ、二人が慌てて涙を拭いながら空を仰ぎ見たときには、もうそこには、ただの澄み渡った夕焼けが広がっているだけだった。
「……まーた、和彦さん。私たちを笑わそうとしてるんでしょ」
視線を戻した詩織が、少し赤くなった目でクスクスと笑い声を漏らす。
「でも確かに……和彦さんのような不思議な人がいるんだから、空飛ぶ女性がいても、おかしくないかもしれないわね」
百合も、少しだけ和彦の言葉に現実味を感じながら、詩織の明るさに釣られるように微笑んだ。
「そんなことあるわけないよ~! 和彦さんったら、もう!」
詩織がわざとらしく和彦の腕を叩いて笑う。その明るい響きが空気に混ざった瞬間、和彦の脳裏にあった鮮烈な残像が、急速に色褪せていった。
「……そっか。そうだよね。見間違いかな」
和彦は、詩織の無意識の言霊に抗うことなく、不思議なほど素直にその言葉を受け入れてしまった。根拠のない納得が、彼の胸の中にすとんと落ちる。
「……泣いた後に笑ったら、なんだかお腹が空いちゃった」
詩織が立ち上がり、台所の方を向いて言った。
「夕飯にしよっか」
「そうだね。そうしよう」
「僕も、腹ペコだ」
三人は、胸の奥に刻まれた「一人の死」という消えない傷と、空に消えた「謎の微笑み」へのわずかな違和感を抱えたまま、連れ立って居間に入っていった。
夕焼けがゆっくりと闇に変わっていく中、野口家の食卓には、いつものように三つの茶碗が並べられようとしていた。
⚡毎週木曜 夜 公開⚡全11話⚡
次回第4話は、2026年6月25日(木)夜に公開です
タイトルは「野口家は何故、三人夫婦なのか?」です
よろしくお願いします
真紀 友則
