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物語を作ることの暴力——『バガボンド』が描く他者理解と自己理解の罠


はじめに

私は「自分」のことを語るのが得意ではない。自分がこれまで何を考え、どんな風に生きてきて、現在に至ったのか。誰かに自分のことを語る時、流石に生まれてから今に至るまでの人生を丁寧に説明するのは時間がかかりすぎるので、なるべくパッケージにして話そうとする。でも、人生に関する取り留めもない記憶の断片を、正確に、正直にまとめあげるのは至難の業である。

それでも、自分のことを語らねばならないタイミングはやってくる。顕著なのは、就職活動や転職活動の際の面接である。面接官は、私がどのような人間なのか「理解」するために、私の経歴について質問する。私も、面接官に私を「理解」してもらう、信用してもらうために、なるべく簡潔かつわかりやすく自分語りをする。

その際、私は自分の人生を「物語化」する。人生を「物語」、つまりストーリー仕立てにすることで、私という人間が採用に値する人間だということを証明しようとする。

面接で話す自分の「物語」は、大まかにはこんな感じである。

私は、子どもの頃からずっと弁護士になりたいと思っていたので、大学の学部は法学部を選択した。法律の勉強に勤しんでいたが、途中でビジネスに興味を持ったので司法試験は受けずに就職活動を行い、第一志望のメーカーに営業職として入社した。営業の仕事はとてもやりがいがあったが、自分の適性を活かせる別の分野にチャレンジしてみたいと考え、一念発起して会社を退職し、IT関係の会社に転職。その後、さらに広告事業にも興味を持ったので、ウェブ広告を取り扱う別のIT企業に転職し、今に至る。

我ながらテンプレートすぎるというか、優等生すぎる内容だが、その実態はどうか。

法学部に入ったのはなんとなく潰しが効きそうだと思ったからだし(弁護士になりたいと熱く燃えていたわけではない)、新卒で入ったメーカーも就活で一番最初に内定が出たから入っただけだ。10ヶ月で退職したのは、営業という仕事にあまりにも自分の適性が向かなかったこと、何より当時の上司のパワハラで心身ともに疲弊していたというのが大きかった。転職も、やりたいことが明確にあったわけでなく、なんとなく条件が良さそうな会社を見つけたので、選考を受けてみたら運良く受かっただけである。

「物語」と、実態は異なる。そして、それは語り手である私自身にしか分からない。

実態、つまりありのままを話しても、面接官は私のことを信用しないだろう。それどころか、こんななんとなくで生きている人間を採用しようとは思わないはずだ。

だから私は「物語」を作り、相手に届ける。

世の中は「物語」で溢れている。一代で成功を掴んだ起業家の自伝は、苦労や逆境を跳ね除けていく立身出世的な「物語」だし、マイナーなバンドやアイドルが着実にスターダムを駆け上がっていくのも、「物語」である。

それらは見るものを魅了し、強い共感や期待を抱かせる。しかし、「物語」を作ること(物語化)は時として大きな問題を起こすこともある。

難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』は、そういった「物語」の力、「物語化」することの問題点について、多角的に分析を行っている。

本書で難波氏は、「物語」以外にもゲームやパズルといった私たちに馴染みのある分野にフォーカスし、人生を理解する方法や可能性について言及している。

ここでは、メインテーマである「物語」について注目したい。

「物語化」が持つ暴力性

 なぜ物語化は問題になるのか?
まず、物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。
 第二に、物語を通じて画面の向こうの誰かと情動をリンクさせたいという願いは、その人がもともと持っていた情動が、誰かの思惑通りに上書きされてしまうことや、可能だった別の仕方での情動理解の可能性を狭めてしまうことにつながる。誰かのデザインした情動に、自分の情動がチューニングし始めてしまうのだ。
 第三に、物語を用いた自己像の探求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。

難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』

物語化することは心地がいい。自分の人生を物語化すれば、ストーリーの主人公としてのアイデンティティを自分自身に与え、「何者」かになれたような快感を得ることができる。

一方で、他人の人生を物語化すれば、その人の内面をスムーズに理解できる(かもしれない)。例えば、逆境を跳ね除けて成功を掴んだという物語からは、その人の忍耐強さ、我慢強さが浮かび上がってくるように、その人の物語を作ることができれば、その人の性格や主義思考を推測する手掛かりになる。

しかし、ここで注意すべきなのは、安易な物語の押し付けは危険であるということだ。私たちは、私たちが作った(信じたい)物語で他人を理解してしまう傾向がある。例えば、推しのアイドルに対して勝手に「物語」を作り、自分の中で「この人の性格は〇〇だ」「この人なら絶対〇〇と思うだろう」のようなイメージを持っていた場合、そのアイドルが理想に反する言動をとろうものなら、直ちに裏切られたような感覚に陥るだろう。

それは、自分が信じたい「物語」を他人に押し付けて、勝手に誤解していただけだ。他人への不当な解釈は「暴力」になり得る。

『バガボンド』の武蔵と又八の関係にみる「物語化」の暴力性

井上雄彦『バガボンド』は、作中で複雑な人間関係を描写することで、「物語化」が持つ暴力性の様相を鮮明に描き出している。

主人公の武蔵と幼馴染の又八が再会するシーンである。

武蔵と又八は、元々同じ村で育った幼馴染同士だった。武蔵は誰よりも強い人間になるために武者修行の旅に出る。そして、次々と猛者たちを倒すことで力と名声を上げていく。一方の又八は、武蔵を追うように自身も旅に出たものの、トラブル続きで見るに耐えない廃れた生活を送っている。又八は武蔵に対して友情を抱いているが、同時に、「弱い」自分とは比べ物にならないほど「強い」存在である武蔵にコンプレックスを抱いている。そして何より、武蔵の旅に、自分の許嫁であるおつうも同行していると勘違いしている。

数年ぶりの再会を果たした武蔵と又八は、互いに酒を酌み交わすが、又八は名のある剣豪を次々と倒した武蔵と何者でもない自分の間にある差を感じ、だんだんと怒りを露わにする。怒りと酔いに身を任せてしまった又八は、ついには武蔵とおつうの関係を揶揄するような暴言を吐く。そして、武蔵は又八を殴る。

翌日、一乗寺の下り松で、武蔵はその出来事に思いを巡らせる。

又八よう

昨夜のお前が見てたのは俺じゃない
会わない数年の間に
お前の頭の中にこしらえた「俺」

お前の頭ん中の「俺」
お前の頭ん中の物語

その物語こそが
お前自身の姿を映してる

井上雄彦『バガボンド』25巻

このシーンで注目すべきなのは、二方向への「物語」の押し付けである。

又八による武蔵への「物語」の押しつけ

又八は、自分の中で「武蔵」像を作っていた。弱い自分とは異なる存在。強く、人々の尊敬を集める存在。かつては同じ村の幼馴染同士であったのに、随分と差をつけられてしまっている。自分の許嫁のはずだったおつうも、武蔵に同行し(実際はしていないのだが)、二人は男女の仲になっている(と勘違いしている)。

又八は、自分が作った「物語」を武蔵に押しつけることで、武蔵のことを自分勝手に理解していた。

又八は、武蔵に対して複雑な感情を抱いている。同じ村で育った友である武蔵が、剣の名門・吉岡道場の吉岡兄弟を倒したことを又八は誇らしげに思っている。自分の友が天下に名を轟かせていることを痛感した又八は、「とうとうやり遂げたな、武蔵」と武蔵に称賛を送っている。一方で、武蔵が現状に満足せず、まだ高みを目指す姿勢を見せると、又八は「まだ行くのか」と動揺している。どんどんと先を走っていく武蔵の姿を見て、又八は、ただでさえ大きく引き離されているのに、さらに差が開いてしまう、置いていかれてしまうと不安を感じている。又八の中では、羨望や嫉妬、焦燥感など様々な感情が入り混じっている。

当たり前だが、こういった複雑な感情は、フィクション世界のキャラクター同士の関係に限らず、現実世界の人間関係でも起こり得るものである。

人間が他者に対して抱く感情は、(よほど大好き、よほど大嫌い、など極端なケースを除けば)白か黒か、0か100かで計測することは難しい。この人のこういう一面は好きだし好感を持てるけど、ああいう一面は嫌いだな、など、他者に対して同時に相反する感情を抱くことは何ら不思議ではない。

他者に対する複雑な感情は、他者を理解しようとするとする際に大きなハードルになる。複雑な感情を飼い慣らし、他者のことを正確に理解できるほど私たちの思考は精密ではない。むしろ、安易なパターンづけのような「物語」を作り、それを他者理解に用いる方が、思考のコストはかなり低いだろう。

しかし、それは単なる「物語」の押し付けに過ぎない。

又八による自分自身への「物語」の押し付け

武蔵は、力と名声、そして女(おつう)を手に入れ、満たされた「物語」を歩んでいる(と、又八が勝手に思い込んでいる)。

一方で、又八自身はどうか。

武蔵を追うように旅に出たはいいものの、女と酒に溺れ、何も成し遂げていない。自分のプライドを守るために、他人を騙し、傷つけ、嘘を塗り固める人生を歩んでいる。剣豪として名を馳せている武蔵とは大違いだ。そのようにして又八は、武蔵の「物語」を作ると同時に、自己理解のために自分の「物語」も作っている。

『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』で、難波氏は自分語りについてこう述べている。

何より、私たちは過去を「理解」するとき、思い出すのではなく、それを語り直す。過去をそのまま思い出すことはできない。なぜなら、過去とは本質的に、現在の私たちの語りによって更新されていくものだからである。
私たちは、語り直しによってのみ過去を理解できる。

難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』

歴史学者は研究を通じて、過去(歴史)についてなるべく正確に、客観的に理解しようとする。複数人でプロジェクトを立ち上げ、広範囲に資料を集め、喧々囂々に議論を行い、整合性など様々な基準から過去についての解釈を行う。

しかし、私たちが過去を理解する際に、そのような作業は発生しない。自分語りは、自分が好きなように自分の過去を理解する。そこには、都合の良い解釈や、無数のバイアスが含まれている。自分語りは「なんでもあり」になるのだ。つまり、自分語りの結果(過去の解釈)は、過度に楽観的なものになる可能性もあれば、反対に悲観的なものになる可能性もあり得る。

又八は、これまでの過去を振り返り、武蔵と自分自身を比較し、往々にして悲観的になっている。そして、弱い自分がここにいるという事実を補強するかのように「物語」を作り、それを自分に押しつけている。

「物語」を他人に押しつけることは当然相手を傷つけるが、「物語」を自分に押しつけることで自分自身も傷つけるのだ。

武蔵に殴られた翌日、又八は川のほとりで殴られた目を冷やしながら、寂しげにぽつりと呟く。

友達を……
失ったんだな俺は……

井上雄彦『バガボンド』25巻

「物語」の押し付けを自覚する武蔵

一方、武蔵はどうか。

武蔵は、又八の誤解に傷つくと同時に、それとは別の感情も湧き上がっていた。又八の許嫁、おつうのことである。

ただ強き者を追い求め、己を鍛え続ける孤独な旅の中で、武蔵はいつもおつうのことを考えていた。武蔵の中で、確実におつうの存在が大きくなっていた。しかし、又八が武蔵の「物語」を作っていたように、自分もおつうの「物語」を作っているのではないかと、武蔵は自覚的になっている。

おつう
俺の中にいつもお前がいる
そしてそれもまた
俺のこしらえた「おつう」なんだろう

井上雄彦『バガボンド』25巻

おわりに

『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』の中で、難波氏は「物語化」しない勇気、「物語的徳」を鍛えなければならないと主張している。それが、他者を本当に尊重することに繋がるかもしれないのだ。

■不必要に他人を物語的に理解するのではなく、いまの自分の理解を手放し、相手を物語叙述の世界に閉じこめないこと
■いつ物語的理解を行うべきで、いつ行うべきでないのかを判断する能力を身につけること
■物語的には理解不可能な相手を相手の言い分を聞くことで理解しようとすること

難波優輝『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』

私たちは、物語的に他人を理解することで、その人の内面や思考を理解できたと思い込んでしまう。しかしそれは、自分が信じたい「物語」をその人に押し付けているだけかもしれない。

「物語的徳」を鍛えることは、そういった「物語化」が持つ暴力性を抑え込むことができる。しかし、それを実践するのは簡単な話ではないだろう。私たちは生きている中で様々な要素から影響を受け、無数のバイアスを抱えながら生きている。心がけてはいても、知らず知らずのうちに相手のことを傷つけてしまっているかもしれない。

それでも、武蔵のように、大切な人のことを思いながらも、それがもしかしたら自分が作り上げたイメージなのかもしれないという相反する気持ちをそっと心に忍ばせておくことが、真に他者を理解することに繋がるのであろう。

その気持ちは、自分に対しても有効である。自分のことを見つめ直す際、(歴史学者のようにとは言わないまでも)過度に悲観的、楽観的な「物語」を作らないように、慎重に自分の過去を捉え直す必要がある。

フランスの社会学者モーリス・アルヴァックスは、記憶は「思い出す」のではなく、現在の状況や集団に応じて「再構成される」と論じている。つまり、私たちは昔の過去の出来事を思い出す時、それをそのまま脳や心の片隅から再生しているのではなく、思考の枠組みが過去の記憶の内容や意味を選択的に再構成しているのだ。

再構成する際、私たちは安易な「物語化」から距離を取る必要がある。武蔵のように、常に自分自身に問いかけるのだ。その姿勢があれば、心から他者を尊重することができる。そして、自分自身も大切にできる。

#創作大賞2026
#エッセイ部門

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