偶然じゃない/Not by Chance
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プロローグ : 占いの紙
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32歳の誕生日の朝、
エリは静かに目を覚ました。
カーテンの隙間から、
パースの青い空が見えた。
インド洋から吹いてくる潮風が、
薄い布をゆっくりと揺らしている。
昨日とは、違う朝だった。
「エリ、起きてる?」
ドアの向こうから、
クリスの声がした。
「起きてる」
「コーヒー淹れたよ」
「ありがとう」
返事をしながら、
エリはしばらく動けなかった。
昨夜のことを、思い出していた。
夕暮れのビーチ。
赤く染まったインド洋。
片膝をついたクリスの、
少し不格好な日本語。
「結婚してください」
つい笑ってしまった。
笑いながら、泣いていた。
波の音だけが、聞こえていた。
ゆっくりと起き上がり、
ベッドサイドテーブルの引き出しを開けた。
奥の方に、色褪せた一枚の紙がある。
折り目のついた、A5サイズの白い紙。
日本にいた頃、占い師から受け取ったものだ。
エリは紙を胸に押し当てた。
後頭部から両腕にかけて、
鳥肌が立っていた。
これは、偶然だったのだろうか。
それとも最初から、
決まっていたのだろうか。
答えはまだ、出ていない。
でも一つだけ、確かなことがある。
この場所に辿り着いたのは、
誰かに連れてきてもらったからじゃない。
自分で動き続けたから、
ここにいる。
「コーヒー冷めるよ」
クリスの声がまた聞こえた。
エリは紙をそっと折り畳んで、
また引き出しの奥に戻した。
行こう。
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1話 : 占い師
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友達に「本当に当たるよ」と言われて、
半ば強引に連れて行かれた。
雑居ビルの四階。
エレベーターを降りると、
廊下にアロマの匂いが漂っていた。
薄暗い部屋に通された。
壁の小さな棚に、水晶や石や
意味のわからない置物が並んでいる。
占い師は五十代くらいの女性で、
派手でも地味でもない。
ただ、静かな人だった。
「手を見せてください」
言われた通りにした。
しばらく、沈黙があった。
「正直に言います」
女性はそう言って、エリの手を見た。
「あなた、もうすぐ仕事を辞めますよ」
思わず笑いそうになった。
辞める?
毎朝五時に起きて現場に向かい、
クレーンの運転席に乗り込む。
風の方向を読んで、
吊り荷の重心を確かめて、
レバーを操作して数センチの精度で動かす。
力ではなく、繊細さで動かす仕事。
男ばかりの現場で、
女だからと舐められないように、
人の倍以上に丁寧にやってきた。
その積み重ねが、エリの自信だった。
本当に好きな仕事だった。
「辞めませんよ」
とエリは言った。
占い師は小さく微笑んだ。
「南の方へ行きます。日本じゃないです」
「ワーキングホリデーで、
オーストラリアに行こうとは思っています」
エリは正直に答えた。
「そこで大きな恋をします」
エリは黙った。
大きな恋。
どんな恋だろう?
今まで恋愛が苦手なわけじゃなかった。
でも「大きな」という感じのものは、
まだない気がした。
「31歳で引っ越して、同棲します。
32歳になる頃に、プロポーズされます」
「それ、全部当たったら怖いですね」
そう言って、また笑いそうになった。
占い師は何も言わなかった。
ただ静かに、エリの手を見ていた。
帰り道、占い師の言葉はすぐに忘れた。
ワーホリの準備の方が、
ずっと現実的で忙しかったから。
でもなぜか、手書きのメモを捨てられなかった。
引き出しの奥に、そっとしまった。
もし当たったら面白い。
そのくらいの気持ちだった。
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2話 : コロナが止めた夢
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コロナが世界を止めた年、
エリは日本でモヤモヤしながら働いていた。
オーストラリアへのワーキングホリデーが、突然行けなくなった。
ただそれだけのことが、
思っていたよりずっとこたえた。
渡航禁止。
国境閉鎖。
ニュースが毎日、数字を並べた。
最初の一ヶ月は、ただ待った。
すぐ終わると思っていたから。
でも一ヶ月が二ヶ月になり、
三ヶ月が過ぎた。
思い描いた夢が、
見えない何かによって延期される。
その感覚が、
思っていたより歯痒く、重かった。
諦めたわけじゃない。
でも、止まっている。動いていない。
ある朝、天井を見ながらぼんやり考えた。
この時間をただ無駄に過ごす事は出来ない、何に使うか。
答えは意外とすぐに出た。
英語とクレーンだ。
最近はクレーン女子も増えている。
移動式クレーン免許を取り、小さいクレーンから乗り始めて、
少しずつ大きなものに慣れていった。
「女には無理だろ」という目を何度も感じた。
でも続けた。
続けているうちに、その目が変わる瞬間があった。
言葉ではなく技術で証明した時、
現場の空気は変わる。
その変化が、エリには何より嬉しかった。
やがて25トンの移動式クレーンを、
現場で操縦するようになっていた。
ある日の現場で、
ベテランの職人がこう言った。
「お前、筋がいいな」
それだけだった。
でも、その一言が、
どんな褒め言葉より嬉しかった。
お世辞を言わない人間の言葉だったから。
その頃には密かにオーストラリアでもクレーンに乗れたらいいと思っていた。
海外のクレーンについて色々ネットで検索してた時、
インスタで一人の日本人男性を見つけた。
プロフィールには
「オーストラリアでクレーンオペレーター」と書いてある。
初めて見た、本当にいるんだ。
思わずいいねを押して、DMを送った。
「この出会いが嬉しすぎて、興奮しています。
私もオーストラリアでクレーンオペレーターになりたいです」
送った後で、少し恥ずかしくなった。
でも、本当にそう思っていた。
返信が来た。
「僕で力になれるなら、
遠慮なく何でも聞いてください」
その言葉が、思っていたより温かかった。
次のメッセージにはこうあった、
「計画を立てて、英会話は必須だよ」
何度かメッセージをやりとりするうちに、
電話で話すことになった。
「直接話した方が伝えられることがある」
とメッセージに書いてあった。
電話をかけると、
相手の声は想像していたより穏やかだった。
オーストラリアでの仕事のこと、
ビザのこと、生活のこと。
色々と教えてもらった。
最後にこう言った。
「諦めなければ、必ずいつかチャンスはくる。
動けば何か見えてくるから、
とにかくこっちに来ちゃいなよ」
今思えば、かなり無責任に聞こえるかもしれない。
でもその時のエリには、
完璧な答えより背中を押す一言の方が、
ずっと必要だった。
電話を切った翌日、
航空券を取った。
コロナで止まった時間は、
無駄じゃなかった。
あの時間があったから、
25トンのクレーンに乗れるようになった。
英語も怖くなくなった。
夢が延期された分だけ、
未来の自分に武器を渡せた気がした。
そう気づいたのは、
ずいぶん後のことだったけど。
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3話 : オーストラリアへ
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2023年5月、ついにオーストラリアへ来た。
飛行機がケアンズの空港に降り立った瞬間、
ドアが開いて外の空気が入ってきた。
モワッとする湿気と、
嗅いだことの無い匂い。
ブリスベンに数日滞在してから来たけど、
全然違う。
でも、悪くなかった。
むしろ、
「ここだ」という感じがした。
空港を出ると、
日焼けした顔の男性が立っていた。
TシャツにビーチサンダルでYouTubeで見たままの人だった。
「エリちゃんですか?」
「はい、やっと来ました」
大きなスーツケースを引きながら、
エリは歩きだした。
まるで「この街を攻略しに来た」
そんな気持ちだった。
街を案内してもらいながら、
マーケットにある彼の馴染みの店でランチを食べた。
オーストラリアのクレーンライセンスのこと、
仕事や住む場所の探し方。
ヒロキさんはいろいろ教えてくれた。
でも、エリはすでに自分でも調べていた。
「留学エージェントとか使わなかったの?」
「自分でできることはやろうと思って。
QLD州でワーホリでもHRWライセンスが
取れるかどうかも直接問い合わせました」
ヒロキさんが少し黙った。
「もう僕の出番はないかもしれないね」
エリは笑った。
そうじゃない、と思った。
でも、そう言ってもらえるのは嬉しかった。
ケアンズの町は、
思っていたより小さかった。
でもその小ささが、
居心地よかった。
海が近い。
空が広い。
人が温かい。
この町で、何かが始まる気がした。
根拠はなかった。
でも、確かにそう思った。
英語環境のシェアハウスを見つけ、
オーストラリア人の女性の家に住む事になった。
次の日から、動き始めた。
ヒロキさんが働く会社に連れて行ってもらい、ヤードを案内してもらった。
見慣れたクレーンを見てホッとした。
見た事ないクレーンがあった。
聞くと「オーストラリアで作られてるクレーンだよ、日本には無いね。」
と教えてくれた。
ボスを紹介してもらった。
オーストラリア人女性の英語は意外にも理解出来た。
とりあえず建設現場に入る際に必ず必要なコースを受ける事にした。
オーストラリアの運転免許を取得した。
仕事の面接を二件獲得した。
トラックの免許にも挑戦した。
やることは山ほどあった。
でも、全然苦じゃなかった。
ワクワクの方が大きかった。
コロナで止まっていた時間が、
ここで一気に動き出した気がした。
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4話 : 動き続ける
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次に見つけたのは
カフェの皿洗いの仕事だった。
朝、開店前から厨房に入り、
ひたすら皿や調理器具を洗う。
シンプルで、地味で、
でも不思議と嫌じゃなかった。
体を動かしていると、
余計なことを考えなくていい。
ただ、目の前のことをやる。
それだけでよかった。
しばらくすると、
簡単な調理を任されるようになった。
サラダを仕込んで、
サンドイッチを作って、
スープやスイーツの仕込みを手伝う。
英語で指示を受けて、
英語で確認する。
最初は聞き返してばかりだったが、
だんだん流れが分かってきた。
さらに数週間後、
ウェイターとしてホールに出るようになった。
テーブルを回って、
注文を取って、
料理を運ぶ。
お客さんと話す機会が増えた。
ローカルのオーストラリア人、
観光客、バックパッカー。
色んな人と短い言葉を交わすうちに、友達と呼べる繋がりも出来た。
ケアンズという町が
少しずつ自分のものになっていく感覚があった。
そう思いながら、
毎日何かが起きていた。
止まっていた時間を、
取り戻しているような感覚があった。
日本の事を考える時間は無かった。
カフェと並行して、
夜はナイトマーケットでも働いた。
ヒロキさんに
「最近どう?」と聞かれて、
「人生で一番働いてます」と返すと、
「オーストラリアで働きすぎは、法律違反だよ」
と返ってきた。
あっという間に3か月過ぎた。
カフェでの勤務日数が
セカンドビザの条件を満たした。
申請した。
「秒でGrantedされました」
ヒロキさんに報告すると、
「笑)さすがだね」と返ってきた。
その一言が、
なんとなく嬉しかった。
セカンドビザが下りた頃、ふと思った。
せっかくオーストラリアに来たなら、
もっと色んな場所を見てみたい。
ヒロキさんに言うと
「行こうと思った時に行かないと、俺みたいに20年ケアンズにいる事になるよ」と言ってた。
ケアンズは好きだ。
でも、ここだけじゃない気がした。
まずブリスベンへ向かうことにした。
前にも来た事があったけど、
着いてみると、どこか違った。
嫌いじゃない。
でも、ここで生活したいとは思わなかった。
だから、また移動した。
次はさらに南へ。
タスマニアにいる友人を訪ねた。
気づけばそのままカフェで仕事が決まり、
2ヶ月暮らした。
計画なんてほとんどない。
でも、流れに乗る力だけはある。
ヒロキさんから
「その先は南極だよ」とメッセージが来た。
「気が済んだら帰ります」と返した。
夏のタスマニアは、
しんとしていた。
夜はとても静かで、
星が多かった。
その静けさの中で、
よく考えた。
自分は何をしたいのか。
クレーンオペレーターとして
オーストラリアで働く夢は今もある。
でも、それが「全て」じゃない気がしてきた。
今どちらかに決めなくていい。
両方を持ったまま、動き続ける。
それがエリの答えだった。
しばらくして、
西へ向かうことにした。
パースだ。
ケアンズで仲良くなった友達が、
ワーホリを終えて日本に帰る前に
もう一度会いたかった。
ただ、それだけの理由だった。
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5話 : インド洋へ向かって
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パースの街は、思っていたより大きくて静かだった。
空港を出た瞬間、
空気が違うと思った。
ケアンズの湿った熱気とも、
タスマニアのひんやりした空気とも、
全然違う。
乾いていて、広い。
どこまでも続く青空の下、
街がゆったりと広がっている。
「ここ、いいかもしれない」
そう思ったのは、着いて数分後だった。
友達と数日を過ごした後、
見送りのハグをして空港で別れた。
「またね」
そう言ったが、
次にいつ会えるか分からない。
一人になった。
でも、不思議と寂しくなかった。
パースにはまだ、自分の知らない何かがある気がした。
住む場所を探していると、
たまたまいい縁が繋がった。
最初に住んだ家のオーナーの奥さんが日本人で、
アウトドアブランドのショップマネージャーだった。
「仕事、探してるの?」
「はい」
「うちのショップ、人が足りないんだけど」
あっさりと仕事が決まった。
マッサージの仕事とも掛け持ちすることになった。
ある日仕事の帰り道、
海に寄った。
コットスロービーチ。
砂浜に出た瞬間、
息が止まりそうになった。
インド洋だ。
今まで見てきた海と、
色が違う。
深くて、透き通っていて、
どこまでも続いている。
波が打ち寄せるたびに、
白い泡が砂に広がる。
水平線の向こうに、
何があるのか分からない。
でも、その向こうへ行きたいとは思わなかった。
ここにいたかった。
靴を脱いで、
砂の上を歩いた。
足の裏にくすぐったい砂の感触があった。
「パースに来た」とヒロキさんにメッセージを送った。
「どう?」
「海の色が全然違います。
なんか、ここ好きかもしれないです」
「でしょ!インド洋は特別だよ」
その返信を読みながら、
波を見ていた。
なんとなく、
ここにしばらくいてみようと思った。
特に理由はなかった。
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6話 : 迷走と、海と
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パースでの生活は、
忙しかった。
ショップとマッサージの掛け持ち。
相変わらず働きすぎだった。
でも、ふとした瞬間に思う。
自分は今、何をしているんだろう。
クレーンに乗りたかった。
オーストラリアで働きたかった。
その夢は今もある。
でも、今やっていることはカフェやショップの仕事だ。
間違ってはいない。
でも、これでいいのか?
ある夜、ヒロキさんにメッセージを送った。
「今やりたいことが見つからなくて迷走中です。
いつか日本に帰りたい気持ちもあるし、
帰ってクレーン乗りたいかって言われたら
そうでもないし……」
送ってから、少し恥ずかしくなった。
こんなこと相談していいのか、
と思った。
でもすぐに返信が来た。
「そういう時は、海に行こう」
それだけだった。
翌日、バスに乗ってコットスロービーチへ向かった。
砂浜に着くと、風が強かった。
青いインド洋の波は荒くて、
たくさんのサーファーたちが波に乗っていた。
波打ち際に膝を抱えて座り、
ただ波を見ていた。
何も考えようとしなかった。
どのくらい時間が過ぎただろう。
しばらくすると、
何かが整っていく感覚があった。
乱れて絡んだ毛糸を
ゆっくりほぐすような、
そういう感覚。
しばらくして気づいた。
答えを急いでいた。
急ぐ理由なんて、無いのに。
家に帰る途中、ヒロキさんにメッセージを送った。
「海に行きました。よかったです」
「でしょ!」
その一言が、なぜかとても心強かった。
翌日、マーケットの掲示板に求人広告が貼ってあった。
チェーンソーで木を倒す男たちの中に混じって
トラックに乗り、切った木を運ぶ仕事だった。
写真を撮ってヒロキさんに送った。
「この仕事どう思いますか?」
「面白そうじゃん。やってみれば」
「男ばっかりの現場ですよ」
「それが何か問題ある?」
そうだな、問題は無いと思った。
面接に行った。
採用された。
答えを急がなくていい。
でも、動くのは止めない。
それだけ決めた。
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7話 : 寡黙なシェアメイト
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伐採会社の仕事を始めてすぐ、
シェアハウスを引っ越すことになった。
新しい家を探していると、
ちょうどいい物件が見つかった。
静かな住宅地にある、
こじんまりとした家。
オーナーは外国人で、
シェアメイトを募集していた。
内見に行った日、
玄関でクリスと初めて会った。
ニュージーランド出身で、
パースの現場で仕事をしていると言った。
がっしりした筋肉質で、
笑うと目が細くなる。
最初の印象は「なんか気さくな人だな」だった。
引越して最初の一週間は、
廊下で挨拶する程度だった。
おはよう。
おかえり。
おやすみ。
それだけだった。
クリスはあまり自分のことを話さなかった。
でも、嫌な感じはしなかった。
静かな人だな、と思っていた。
関係が変わったのは、
ある夜のこと。
エリがキッチンで夕食を作っていると、
クリスが帰ってきた。
「いい匂いがするね、何を作ったの?」
「肉じゃが、日本の家庭料理です。
多く作りすぎました、少し食べてみますか?」
「いいの?」
「どうぞ」
2人でテーブルに向かい合って座って食べた。
会話は多くなかった。
「おいしい」
それだけだった。
でも「おいしい」の言い方が真面目だった。
お世辞じゃない「おいしい」だった。
その日から、
一週間に何度か夕食を一緒に食べるようになった。
特に約束したわけじゃないけど、
気づいたらなんとなくそうなっていた。
食後にコーヒーを飲みながら
今日あった出来事を話したり、
お互い英語と日本語を教え合ったりした。
「日本語を少し知ってる」とクリスがある夜言った。
「どこで覚えたの?」
「子供の頃、日本人の友達がいた」
「どんな日本語を知ってるの?」
「ありがとう、おいしい、……あと、すみません」
エリは笑って言った。
「それだけ知っていれば十分」
「本当に?」
「本当に、その三つがあれば日本で生きていけるよ」
クリスも笑った。
目が細くなって、
少し子どもみたいな顔になる笑い方。
どちらかというと普段は寡黙で落ち着いているのに、
笑うと別の顔が出てくる。
その笑い方が好きだった、と
エリは後から気づいた。
ある夜、クリスが珍しく自分から話してきた。
「今日、現場でうまくいかなくてさ」
「どうしたの?」
「段取りがずれて、時間をロスした。
俺のせいじゃないけど、俺が段取りすべきだった」
「でも、あなたのせいじゃないんでしょ?」
「そうだけど、
自分が動けば防げたことだから」
エリはしばらく考えた。
「それ、私も現場でよく思う。
防げたかもしれないことを、
ずっと引きずるやつ」
「そう、そういう感じ」
「でも、次に活かせばいいと思う。
引きずっても現場は変わらないし」
クリスはコーヒーを一口飲んだ。
「そうだな」
それだけ言って、少し表情が和らいだ。
クリスのことを、
少しずつ知っていった。
ニュージーランドの小さな町の出身で、
高校を出てすぐ建設現場の仕事を始めた。
いくつかの現場を経験して、
パースに来たのは3年前だった。
家族とは仲がいいが、
年に一度会えればいい方だと言った。
「友達は少ないけれど深い」と言った。
その言い方が、なんとなく好きだった。
ある週末、2人でビーチへ行った。
その日見たインド洋の夕日は、
エリが今まで見た夕日の中で一番きれいだった。
「きれいだね」とエリが言うと、
「本当に」とクリスが言った。
それだけだった。
でも、その沈黙が不思議と全然嫌じゃなくて、
かえって落ち着いた。
どちらからともなく立ち上がり、
自然と手を繋いで歩いた。
手の温かさが、じんわりと伝わってきた。
エリはそれを黙って受け取った。
帰り道、2人はほとんど何も話さなかった。
でも、それでよかった。
言葉がなくても、
隣に誰かがいる感じが、
ちゃんとあった。
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8話 : たまたま起きてた
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伐採会社の仕事は、
想像よりずっとハードだった。
朝は暗いうちから始まる。
山道を走り、木材を積んで、
指定の場所まで運ぶ。
積み荷のバランスを考えながら運転して、
重量物を積んでいるとブレーキの効き具合も変わる。
体は疲れた。
でも、疲れの中に充実感があった。
仕事が終わって家に帰ると、
クリスがソファで起きて待っていることがあった。
「待っててくれたの?」とエリが言うと、
「たまたま起きてた」とクリスは言った。
たまたまではないとエリはわかっていた。
でも、何も言わなかった。
「たまたま」をそのまま受け取っておくことにした。
「疲れた?」
「疲れた」
「お腹空いてる?」
「空いてるけど大丈夫、
自分で何か作るから。
クリスはもう寝たほうがいいんじゃない?」
「もう作ってあるよ」
クリスはそう言って立ち上がり、
電子レンジで温め直したものをテーブルに置いた。
エリが帰ってくる前から作っておいたのだろう。
「ありがとう」
「うん」
それだけ言うと、
自分の部屋に入って行った。
いつもと同じ不器用な優しさだった。
エリはしばらく、
テーブルに置かれた料理を見ていた。
「たまたま起きてた」
「もう作ってあるよ」
言葉は少ない。
でも全部、ちゃんと伝わっていた。
別の夜は、こんなこともあった。
帰り道、雨が降り出した。
傘を持っていなかった。
バス停から家まで、
走って帰るしかなかった。
びしょ濡れで玄関を開けると、
クリスがタオルを持って立っていた。
「雨、すごかったね」
「なんで分かったの?」
「窓から見てた」
それだけだった。
差し出されたタオルを受け取りながら、
エリは思った。
この人は、
いつも気づいている。
言葉にはしないけど、
ちゃんと見ている。
そういう人だった。
またある夜は、
エリが仕事のことで落ち込んで帰ってきた。
その日、現場でミスをした。
大きなミスじゃない。
でも、自分が悔しかった。
クリスに話すと、
じっと聞いていた。
アドバイスも、慰めも、なかった。
ただ、聞いていた。
「ありがとう、話せてよかった」とエリが言うと、
「そっか」とクリスは言った。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
その頃には、
夕食を一緒に食べない日の方が少なくなっていた。
特に何も変わったわけじゃない。
でも確かに、
何かが変わっていた。
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9話 : 少しだけ泣いた日
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伐採会社の仕事が始まって最初の朝、
現場に着くと男たちがエリを見た。
珍しいものを見る目だった。
でも誰も何も言わなかった。
エリも何も言わなかった。
仕事をするだけだった。
仕事はトラックの運転だった。
伐採した木材を積んで、
指定の場所まで運ぶ。
シンプルだが、
山道を走ることも多く、
積み荷のバランスを考えながら
運転しなければいけない。
エリは手を抜かなかった。
どんな荷物でも、
どんな道でも、
安全第一で丁寧に運んだ。
一週間後、男たちの態度が少し変わった。
今まで働いてきた職場でも感じたことだけど、
オーストラリアは国籍も性別も年齢も関係ない。
誰もがお互いを、
実力でフラットに評価する。
余計な気遣いはしない。
でも、認めた相手には敬意を持つ。
そのフェアな空気が、
エリにはとても合っていた。
クリスに現場の話をすると、
いつも真剣に聞いてくれた。
「今日、山道で荷崩れしそうになって怖かった」
「どう対処したの?」
「左に寄せてゆっくり止めて、荷物を縛り直した」
「正解だよ。積荷の管理はドライバーの責任だからね、焦ったら余計に崩れる」
現場経験のある人間の言葉だった。
エリはその一言を、
次の日の現場で思い出した。
伐採会社を辞める日が来た。
最終日の午後、
ヤードに戻ってくると仲間たちが集まっていた。
みんなとお別れのハグをしていると、
ボスが近づいてきた。
「エリはBest driverだよ。
いつでも戻ってきてほしい」
短い言葉だったけど、重かった。
この仕事の人たちはお世辞を言わない。
命がかかっている現場で働く人間は、
本当に認めていなければ何も言わない。
家に帰りながら、少しだけ泣いた。
誰にも見せないつもりで泣いた。
家に着くと、
クリスがドアのところで待っていた。
「おかえり、お疲れ様。最後の仕事はどうだった?」
エリは少し黙った。
それから言った。
「ボスにBest driverって言ってもらった。
いつでも戻って来てって」
クリスはそれを聞いて、
少し間を置いた。
「そりゃ当然だよ」
と言ってエリを優しく抱きしめた。
でも、その「当然だよ」という言葉が、
エリにはとても嬉しかった。
疑いのない、迷いのない、
「当然だよ」だった。
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10話 : 言わなくても分かる
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伐採会社を辞めてから、
エリの生活は少しずつ変わった。
クリスとの関係が、
それだけ確かなものになっていた。
2人で話し合って、
パートナービザの申請も始めた。
ワーホリで来た当初、
エリは流れるように「動く」ことを大切にしていた。
ケアンズ、ブリスベン、タスマニア、パース。
どこへでも行ける。
何にでもなれる。
それが自由だと思っていた。
でも今は、少し違う感覚がある。
流れるだけじゃない。
どこかに根を張ることも、
一つの選択肢だ。
フリーマントルのマーケットを
2人で歩いていた時、
クリスが立ち止まってある店を指差した。
「あれ日本のコップじゃない?」
小さな陶器の店で、
並べてある器の形が日本の湯呑みに似ていた。
でもデザインが少し違う。
「似てるけど、ちょっと違うかな」とエリは言って笑った。
「そっか、でもエリも持ってるよね?」とクリスは言って、
でも店の前でしばらくじっと見ていた。
「好きなの?こういうの」
「うん。なんか好き、買おうかな」
その答えが、なんとなく嬉しかった。
クリスが好むものと、エリが好むものが、
どこか遠くで重なっている気がした。
帰り道によく行くビーチを歩きながら、
インド洋の夕日を見た。
「本当にいいところだね」とクリスが言った。
「パース好き?」と聞くと
「うん。最初は仕事のつもりで来たけど、
最近はここにずっといてもいいかなって思ってきた」
「何がそうさせたの?」
クリスはしばらく黙った。
それから言った。
「うーん、いろいろ」
いろいろという言葉の意味は、
なんとなくわかった。
ヒロキさんにメッセージを送った。
「一年働いた仕事を辞めて、
パートナービザを申請します。
あとクリスと旅行に行きます」
返信が来た。
「ついにそこまで来たんだね。
最初のDMからずいぶん遠くに来たね」
「そうですね。でも本当に来てよかったです」
「旅行楽しんできて」
ここに根を張ることにした。
誰かに言われたわけじゃない。
自分で決めた。
それだけで十分だった。
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11話 : 31歳最後の夜
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31歳最後の夜、
2人でビールを飲みながらテレビを見ていた。
エリが半分眠くなってきた頃、
クリスが言った。
「エリ」
「なに?」
「……なんでもないよ」とクリスは言った。
「どうしたの?」とエリが聞くと
「明日どこか行こう」とクリスは言った。
「どこへ?」
「ビーチ」
「いつものビーチ?いいよ」
「天気も良さそうだし夕方がいい。
きっと夕日がきれいだから」
エリはクリスの横顔をチラッと見た。
耳が少し赤かった。
何かあるとわかった。
でも、聞かなかった。
聞かない方がきっといい。
その夜、眠りにつく前に考えた。
占い師が言っていた。
32歳の頃にプロポーズされる——
今日で31歳が終わる——
まさか?とエリは思った。
でも、そのまさかを否定する根拠もない。
引き出しの中の紙を、
頭の中で開いた。
・日本での仕事を辞めて、南の国へ行く
→辞めた。来た。
・31歳で引っ越し、同棲
→31歳でパースに来て、クリスと暮らし始めた。
・人生最大の恋愛をする
→している、気がする。今も。
・31〜32歳でプロポーズされる
→まだ、されていない。
でも——
明日、32歳になる。
クリスのことを考えた。
「たまたま起きてた」と言いながら待っていたこと。
雨の夜、タオルを持って立っていたこと。
「そりゃ当然だよ」と迷いなく言ったこと。
あの人はいつも、
言葉より先に行動している。
だとすれば明日も、
きっとそうなのかもしれない。
そう思ったら、
急に胸がいっぱいになった。
嬉しいのか、緊張しているのか、
自分でもよく分からなかった。
ただ、泣きそうだった。
窓の外を見た。
パースの夜空に、
星がいくつか出ていた。
あの占い師は、
今頃どこで何をしているだろう。
あの薄暗い部屋で、
誰かの手を見ているのだろうか。
まさかこんなことになるとは、
あの時のエリには想像もできなかった。
いや、そもそも占い師の言葉なんて、
帰り道にはもう忘れていた。
でも引き出しの紙だけは、
捨てられなかった。
なぜだろう、と今さら思う。
捨てられなかったのは、
どこかで信じたかったからだろうか。
それとも、
信じたいと思える何かを、
ずっと探していたからだろうか。
胸がどきどきしたまま、
眠った。
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12話 : 言葉はいらない
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32歳の誕生日の夕方、
天気も良く、
昨日の約束通り2人はビーチへ向かった。
平日の夕方で人は少なかった。
インド洋の水平線が、
少しずつオレンジに染まっていた。
エリにとって、
このビーチにはひときわ思い入れがある。
迷走していた時期に一人で来た日のことを、
昨日のように覚えている。
波を見ながら、
答えを急ぐのをやめようと決めた、あの日。
あの日から、
どれくらい経っただろう。
たった1年ちょっとのはずなのに、
ずいぶん遠くに来た気がした。
歩きながら、クリスはあまり話さなかった。
いつもより少し、緊張しているように見えた。
肩が、少し硬い。
呼吸が、いつもより浅い気がする。
エリは何も言わなかった。
ただ、隣を歩いた。
波が打ち寄せる音だけが聞こえていた。
夕日がインド洋を赤く染めていた。
その時、クリスがゆっくりと立ち止まった。
エリも止まった。
クリスが、ゆっくりと片膝をついた。
エリは最初、
何が起きているのか一瞬わからなかった。
クリスが手を差し出した。
「結婚してください」
日本語で言った。
多分ずっと練習していたのだろう。
少しだけ発音がぎこちなかった。
一言一言、確認しながら言っていた。
エリは、動けなかった。
「ありがとう」も「はい」も、
すぐには出てこなかった。
ただ、目の前のクリスを見ていた。
片膝をついたまま、
こちらを見ている。
耳が赤かった。
昨日の夜も、そうだった。
この人はいつも、
言葉より前に体が正直だ。
最初、エリは笑ってしまった。
笑いながら、泣いていた。
差し出された手を握り返して
「はい」と言った時、
一筋の涙が頬をつたった。
ゆっくり立ち上がったクリスは、
しっかりとエリを抱きしめた。
クリスの胸に顔を埋めながら、
エリは思った。
こんなに不器用なプロポーズ、
他の誰もしないだろう。
でも、だからよかった。
この人らしかった。
波の音が、遠くから聞こえていた。
静かだった。
それだけで、十分だった。
空がどんどん暗くなっていく。
星が一つ、また一つと出てきた。
2人はしばらく、
そのままビーチに立っていた。
どちらも何も言わなかった。
言葉は、もういらなかった。
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13話 : 予言の答え合わせ
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翌朝、エリは引き出しの奥の紙を取り出した。
折り目のついた、A5サイズの白い紙。
ゆっくりと広げた。
・日本での仕事を辞めて、南の国へ行く
→辞めた。そしてオーストラリアへ来た。
・31歳で引っ越し、同棲
→31歳でパースへ移り、クリスと一緒に暮らし始めた。
・人生最大の恋愛をする
→している。今も。
・31〜32歳でプロポーズされる
→昨日、32歳の誕生日にされた。
エリは紙をテーブルに置いて、
大きく息を吐いた。
占い師は、この未来を見ていたのだろうか。
でも、すぐに思った。
違う。
もしコロナでワーホリを諦めていたら?
もしケアンズから動かなかったら?
もしパースに来なかったら?
もしあのシェアハウスを選ばなかったら?
その一つでも違っていたら、
クリスとは出会えなかった。
占い師は本当に未来を見たのかもしれない。
けれどその未来を作ったのは、自分だ。
動き続けた自分が、
予言の通りの場所まで歩いてきただけだ。
「エリ、コーヒー冷めるよ」
ドアの向こうからクリスの優しい声がした。
「今行く」とエリは言った。
紙をそっと折り畳んで、
また引き出しの奥に戻した。
もうこの紙は見なくていい。
予言は全部、現実になったから。
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エピローグ : Not by Chance
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これは偶然だったのだろうか。
それとも最初から、
決まっていたのだろうか。
たぶん、どちらでもない。
占い師はあの夜、
何を見ていたのだろう。
それとも、何も見ていなかったのか。
一つだけ確かなことがある。
あの紙の通りの場所に辿り着いたのは、
エリが動き続けたからだ。
コロナで夢が止まっても、動いた。
一人で知らない街に行っても、動いた。
答えが見つからなくても、動いた。
動き続けた結果、
そこに辿り着いただけだ。
その結果にはあとから名前がつく。
運命とか、
宿命とか、
予言とか。
エリは今日も、
インド洋の風の中にいる。
クリスと並んで歩く、
いつものビーチ。
波が打ち寄せて、
また引いていく。
「今日、何したい?」とクリスが言った。
「特に何も」とエリは言った。
「じゃあ、このままでいよう」
「うん」
それで十分だった。
この場所に来るまで、
たくさんの偶然があった。
でも一つも、
ただの偶然じゃなかった。
全部、自分で選んだ道の上にあった。
Not by Chance。
偶然じゃない。
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完
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