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テンプル騎士団の興亡ー聖戦の騎士から金融帝国へ、そして悲劇の終焉

はじめに

中世ヨーロッパで最も謎めいた組織の一つ、テンプル騎士団。
白いマントに赤い十字を身に纏い、聖地エルサレムを守護した彼らは、わずか9人の騎士から始まり、やがてヨーロッパ全土に影響力を持つ巨大な経済組織へと変貌を遂げました。

しかし、1307年10月13日の金曜日、フランス全土で一斉検挙が実行されます。
異端の罪に問われ、拷問を受け、最後の総長ジャック・ド・モレーは炎の中で呪いの言葉を残して絶命しました。

巡礼者の守護から始まった彼らは、なぜ国際的な金融ネットワークを築くに至ったのか。
そして、なぜ突然の破滅を迎えなければならなかったのか。約200年の興亡の歴史を、史実に基づいて紐解いていきます。



目次

  1. 聖地に生まれた新しい騎士道(1119〜1129年)

  2. 教皇の庇護と特権の獲得(1139〜1147年)

  3. 十字軍の精鋭部隊として(1150〜1291年)

  4. 国際金融ネットワークの構築(1150〜1300年)

  5. 目的喪失と王権との対立(1291〜1307年)

  6. 運命の金曜日と異端審問(1307〜1312年)

  7. 最後の総長の火刑と呪いの伝説(1314年)

  8. 歴史が残したもの

1. 聖地に生まれた新しい騎士道(1119〜1129年)

1099年、第1回十字軍によってエルサレムは奪還されました。
しかし、聖地への巡礼路は依然として危険に満ちていました。
盗賊やイスラム勢力の襲撃は絶えず、武装していない巡礼者たちは常に命の危険にさらされていたのです。

この状況を憂いたフランス騎士ユーグ・ド・パイヤンは、1119年頃、同志8名とともにエルサレム王ボードゥアン2世に謁見します。
そして、巡礼者を保護する修道騎士団の創設を提案しました。
王はこれを歓迎し、かつてソロモン神殿があったとされる神殿の丘(テンプル・マウント)を本拠地として提供したのです。

組織の正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」。
ここから「テンプル騎士団」という名が生まれました。

創設当初の騎士団は極めて貧しく、彼らの印章には「一頭の馬にまたがる二人の騎士」が描かれていました。
これは謙遜と貧困の象徴でしたが、皮肉なことに後の異端審問では、この図像が同性愛の証拠として曲解されることになります。

しかし、騎士が武器を取って戦うことと、修道士として祈りを捧げることを両立させる「戦う修道士」という概念は、当時の教会法では前例のないものでした。
この矛盾を解消し、騎士団に正当性を与えるためには、強力な後ろ盾が必要だったのです。

2. 教皇の庇護と特権の獲得(1139〜1147年)

1129年1月13日、フランスのトロワで教会会議が開催されます。
ここに出席したのは、当時のキリスト教界で絶大な影響力を持っていたシトー会の聖ベルナール(クレルヴォーのベルナール)でした。

聖ベルナールは騎士団の理念を擁護し、「戦う修道士」という新しい概念に神学的正当性を与えます。
彼が著した『新しい騎士道への賛美』では、異教徒を殺害することを「殺人」ではなく「悪の殺害」と再定義しました。
これにより、騎士たちは戦場で殺すことと殉教することの双方において、罪から解放されたのです。

トロワ公会議では、ベネディクト会則を基礎とした72条のラテン語会則が採択されました。
騎士は貧困・貞潔・服従の三つの修道誓約に加え、聖地防衛の誓約を課されます。
さらに白いマントの着用が規定され、「純潔」の象徴として位置づけられたのです。

そして1139年3月29日、教皇インノケンティウス2世は教皇勅書『オムネ・ダトゥム・オプティムム』を発布しました。
この勅書により、騎士団には前例のない特権が与えられます。

教皇直属となり、国王や司教からの独立を認められた騎士団は、十分の一税の免除、戦利品の保持権、独自の教会堂や墓地の建設権などを獲得しました。
続く1144年と1145年の教皇勅書でこれらの特権はさらに拡充され、騎士団は「世俗権力と教会権力の双方から独立した、教皇直属の国際組織」という特異な法的地位を確立したのです。

1147年には、第2回十字軍の出陣に際して教皇エウゲニウス3世がパリで騎士団幹部と面会し、白マントに赤十字を付ける正式な許可を与えました。
赤十字はキリストの血と殉教を象徴し、中央が細く先端が広がる「クロス・パッテ」として左胸の心臓の位置に縫い付けられます。

白マントと赤十字の組み合わせは、ヨーロッパ全域で即座に騎士団を識別できる「ブランド・アイデンティティ」を創出しました。
視覚的統一性が組織の結束力と威信を高めたのです。

3. 十字軍の精鋭部隊として(1150〜1291年)

教会の公認を得た騎士団は、聖地における主要な軍事力として急速に成長していきます。
会則は「3対1以上の劣勢でない限り撤退を禁じる」と定めており、騎士たちは文字通り殉教覚悟で戦いました。
戦死率は戦闘ごとに90%に達することもあったと記録されています。

1177年11月、モンギザールの戦いは騎士団の軍事的評価を決定づけました。16歳の「癩病王」ボードゥアン4世率いる十字軍は、サラディンの26,000以上の軍勢に対し、わずか500名のテンプル騎士を中核とする部隊で大勝利を収めたのです。

しかし、1187年7月4日のハッティーンの戦いで騎士団は壊滅的打撃を受けます。
サラディンは捕虜となったテンプル騎士とホスピタル騎士を全員、即座に斬首するよう命じました。
この敗北は直接的に1187年10月のエルサレム陥落を招き、騎士団は本部をアッコに移転せざるを得なくなります。

聖地における騎士団の主要拠点には、エルサレムの神殿の丘の本部のほか、ガザ城、シャトー・ペルラン(最大4,000名を収容可能)、トルトサなどがありました。
これらの城塞では、騎士団は人口支配権を行使し、ムスリム勢力と独自に休戦協定を結ぶなど、もはや一修道会の域を超えた「準領邦」的な権力を握っていたのです。

そして1291年、十字軍最後の主要拠点アッコがマムルーク朝の大軍に包囲されます。
第21代総長ギヨーム・ド・ボージューは防衛戦の指揮を執りましたが、激戦の中で致命傷を負いました。
部下が撤退を諌めると、彼は「私は逃げているのではない、死ぬのだ」と言い残して絶命したと伝えられています。

アッコの陥落により、キリスト教勢力はレバントから駆逐されました。
騎士団はキプロス島に撤退しましたが、本土奪還の展望は開けず、聖地防衛という本来の存在意義を失ってしまったのです。

4. 国際金融ネットワークの構築(1150〜1300年)

騎士団の活動は軍事面に留まりませんでした。
ヨーロッパ各地から寄進された広大な土地を管理し、戦争遂行のための資金と物資を調達する中で、彼らは驚くべき高度な経済システムを構築していきます。

1150年頃、騎士団は画期的な金融システムを開発しました。
巡礼者は出発地の騎士団施設に貴重品を預け、暗号化された証書を受け取ります。
そして聖地で同等の資金を引き出すことができたのです。この「信用状」システムは、巡礼路での強盗のリスクを劇的に低減し、史上初の国際的銀行ネットワークと評価されています。

騎士団の銀行業務は次第に拡大し、王侯貴族への融資、預金管理、年金支給、税の徴収代行などを手掛けるようになりました。
イングランド王ジョンは多額の融資を受け、王冠の宝石をロンドンのテンプル要塞に保管していました。
フランス王ルイ7世も2年間の十字軍遠征のため騎士団から巨額を借り入れています。

パリのテンプル要塞は4階建て、高さ50メートルの塔を有し、フランス王室の第二の国庫として機能しました。
13世紀末には60以上の口座が開設され、王侯貴族や教会関係者の預金・出納が詳細に記録されていたのです。

キリスト教徒の間では「高利貸し」は聖書で禁じられた罪でしたが、騎士団は巧妙な抜け道を用意していました。
異なる通貨間の為替レートを操作することで実質的な利益を得たり、担保として土地の収益権を確保して「管理手数料」名目で徴収したりしたのです。

不動産所有規模について、保守的な推計では約900〜1,000のコマンドリー(地方拠点)と要塞を所有し、より高い推計では9,000〜11,000の不動産を所有したとされています。
フランス国内では11の管区に分かれ、その下に42以上のコマンドリーが存在しました。

農業・商業面でも騎士団は広範な活動を展開します。
広大なブドウ園を経営してワインを輸出し、穀物生産、羊の飼育、水車の運営、塩の生産、織物製造を行いました。
13世紀には独自の船団を保有し、ラ・ロシェルやマルセイユを拠点に貿易・輸送に従事していたのです。

騎士団の年間収入は現代の貨幣価値に換算して約20億ドル相当とする試算があります。
当時の評価として「国庫に匹敵する総資産」「王国を買うのに十分」とされ、フランス国内では「フランスの第二の国庫」とも呼ばれました。

しかし、この莫大な富と権力こそが、やがて騎士団を破滅へと導く要因となっていくのです。

5. 目的喪失と王権との対立(1291〜1307年)

1291年のアッコ陥落により、騎士団は「目的を失った常備軍」となりました。
彼らは依然として莫大な富と特権を保持していましたが、それを正当化する「聖戦」が存在しなくなったのです。

同じ騎士修道会である聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)との合併案が浮上しましたが、最後の総長ジャック・ド・モレーはこれを拒否しました。
ホスピタル騎士団がロードス島を拠点に海軍として再編を進めたのに対し、テンプル騎士団は新たな役割を見出せませんでした。

一方、フランス王フィリップ4世(在位1285〜1314年)は、中央集権的な官僚国家の建設を目指していました。
しかし、彼の治世は財政的に困難を極めます。
度重なる戦争により、年間通常収入では賄いきれない莫大な戦費が必要となっていたのです。

1286年11月の時点で、フィリップ4世は騎士団に対し8トンの銀(約15万リーヴル・トゥルノワ、政府年間収入の17%に相当)の負債を抱えていました。
この負債は1287〜88年には返済されましたが、1299年には再び50万リーヴルを借り入れています。

伝統的な歴史解釈では、フィリップ4世が騎士団を弾圧した主因は、この巨額の債務を帳消しにし、騎士団の莫大な資産を没収することにあったとされてきました。
しかし、近年の研究では、財政的動機よりも政治的・宗教的動機を重視する見方も強まっています。

いずれにせよ、騎士団は教皇直属であり、国王や司教の権威に従わず、独自の軍隊を持ち、国境を自由に越え、莫大な土地と資金を有する「国家内国家」でした。
この状況は王権の中央集権化にとって明白な脅威だったのです。

1305年、フランス出身の教皇クレメンス5世が選出され、1309年にアヴィニョンに教皇庁を移します(「アヴィニョン捕囚」の始まり)。
これによりフィリップ4世は教皇に対する強力な影響力を持つに至り、騎士団弾圧への道が開かれました。

フィリップ4世は周到に計画を進めます。
1306年にはユダヤ人を追放してその資産を没収していた王は、次なる「資産没収のターゲット」として騎士団に狙いを定めたのです。

6. 運命の金曜日と異端審問(1307〜1312年)

1307年9月14日、フィリップ4世はフランス全土の執行官と地方長官に封印された秘密命令を送付しました。
10月13日の夜明けに全テンプル騎士を同時逮捕するよう指示する内容でした。
標的とされたのは約15,000名(騎士、従士、聖職者、使用人を含む)とされています。

1307年10月13日金曜日の夜明け、フランス全土で同時逮捕が実行されました。
ジャック・ド・モレー総長は前日10月12日にカトリーヌ・ド・クールトネの葬儀で棺を担ぐ役を務めており、翌朝に逮捕されます。
パリのテンプル要塞には数百名の戦闘可能な騎士がいましたが、彼らは抵抗しませんでした。
騎士団は教皇直属であるため、王には逮捕権がないと信じていたのです。

10月14日、フィリップ4世は逮捕を正当化する書簡を発表し、その中で騎士団の罪を「苦々しきもの、嘆かわしきもの、考えるだに恐ろしきもの」と形容しました。

告発内容は、当時の人々の嫌悪感を煽るセンセーショナルなものでした。
入団儀式でキリストを否定し十字架に唾を吐くこと、下背部・臍・口への「三つの卑猥な接吻」、団員間の性的関係の強制、偶像(猫や三つの顔を持つ頭部「バフォメット」)の崇拝などです。

裁判と尋問は組織的に実施され、拷問が広範に使用されました。
1307年10月19日から11月24日の第一次パリ裁判では、138名の囚人が証言し、ほぼ全員が告発の一つ以上を認めています。
しかし、これらは拷問によって強制された自白であり、多くの騎士が後に撤回しました。
1310年には54人が「背教者」として火刑にされています。

1308年8月17〜20日、シノン城で3名の枢機卿がモレー総長ら5名の幹部を尋問し、教皇の名において赦免を与えました。
この記録は2001年にバチカン公文書館で発見された「シノン羊皮紙」に残されています。

しかし、この赦免の事実は公表されず、フィリップ4世の圧力の前に教皇は屈することになります。

1311年10月16日から1312年5月6日まで、ウィーン公会議(正しくはヴィエンヌ公会議)が開催されました。
公会議の聖職者たちは長く慎重な審議を行い、過半数は騎士団に弁護の機会を与えることを望みました。
投票では「参加した全ての国の5分の4の多数」が、適切な弁護なしの断罪に反対したのです。

しかし、1312年3月、フィリップ4世はリヨンで全国集会を開き、さらに3月20日にはウィーンに到着して圧力をかけます。

そして1312年3月22日、教皇クレメンス5世は勅書『ヴォクス・イン・エクセルソ』を発表し、テンプル騎士団の解散を宣言しました。
勅書は明確に「確定判決によってではなく、教皇の裁量による決定」として騎士団を解散させたのです。
つまり、異端としての有罪判決ではなく、「教会の利益のため」という理由での解散でした。

1312年5月2日、勅書『アド・プロヴィダム』が発布され、騎士団の全資産をホスピタル騎士団に移譲することが命じられます。
しかし、実際には、フィリップ4世は「訴訟費用」の名目で巨額を騎士団の資産から徴収し、相当部分を没収しました。

7. 最後の総長の火刑と呪いの伝説(1314年)

7年間の投獄の後、1314年3月、教皇委員会はモレー総長らに「終身禁固」を宣告しました。
しかし、65〜70歳のモレーとノルマンディー管区長ジョフロワ・ド・シャルニーは、公衆の面前で自白を撤回します。

彼らは「告発された犯罪の罪を負うのではなく、自分たちの命を救うために卑劣にも騎士団を裏切った罪を負う」と宣言したのです。

激怒したフィリップ4世は、即日彼らを火刑に処することを決定します。

1314年3月18日(一説には3月11日)、セーヌ川のユダヤ人島で、モレーとシャルニーは火刑に処されました。
火刑台はゆっくりと燃えるよう意図的に準備され、モレーは両手を自由にして祈ることを求めたと伝えられています。

モレーの最後の言葉として伝えられるのは、「我々を不当に断罪した者たちに速やかに災いあれ。神が我々の仇を討つだろう」という呪いの言葉でした。

そして、この「呪い」は不気味な符合を見せることになります。
教皇クレメンス5世は1314年4月20日(火刑の33日後)に死去し、フィリップ4世は1314年11月29日(8か月後)に狩猟中の脳卒中で死去しました。
さらに王の3人の息子は全員、14年以内に男子相続人なく死去し、1328年にカペー朝直系は断絶したのです。

この一連の出来事は「テンプル騎士団の呪い」として後世に語り継がれることとなりました。

8. 歴史が残したもの

テンプル騎士団の解散は、中世ヨーロッパ史における分水嶺です。
それは教皇の普遍的権威の衰退と、主権国家の台頭を象徴する出来事でした。

フィリップ4世の作戦は、周到な計画と前例のない規模の同時行動、拷問を用いた組織的手法、弱体化した教皇に対する政治的操作、異端審問の手続きを悪用する法的革新を特徴としていました。

2007年、バチカンは「シノン羊皮紙」の発見を受けて、テンプル騎士団が無実であったことを事実上認めました。
告発は捏造され、自白は拷問によって強制され、物的証拠は一切発見されなかったのです。

騎士団の歴史的遺産は多岐にわたります。

第一に、国際銀行システムの先駆けとして、信用状、預金管理、国際決済の仕組みを開発しました。
これは近代的小切手やトラベラーズチェックの原型となっています。

第二に、「ブランド・アイデンティティ」の創出において、統一された視覚的シンボル(白マントと赤十字)と厳格な組織規律が、国際的な認知と内部結束を生み出しました。

第三に、法的には教皇直属の国際組織という特異な地位を確立し、後の超国家組織の先例となりました。

第四に、軍事的には十字軍の主力として聖地防衛に貢献し、中世ヨーロッパ最精鋭の戦闘部隊としての評価を確立しました。

騎士団の興亡は、宗教的理想、経済的拡大、そして政治的権力の相克が生み出した、中世ヨーロッパ史における最も劇的な物語の一つなのです。

参考文献

一次資料

  • The Original Rule of the Knights Templar(ラテン語会則の英訳), Robert T. Wojtowicz(訳), 1991年

  • Omne Datum Optimum(教皇勅書), Pope Innocent II, 1139年3月29日

  • Chinon Parchment(シノン羊皮紙), 教皇クレメンス5世の枢機卿委員会, 1308年8月17〜20日

  • Vox in excelso(ウィーン公会議解散勅書), Pope Clement V, 1312年3月22日

  • William of Tyre, Historia rerum in partibus transmarinis gestarum(歴史行程録), 1170年代

二次資料

  • Malcolm Barber, The Trial of the Templars(第2版), Cambridge University Press, 2006年

  • Malcolm Barber, The New Knighthood: A History of the Order of the Temple, Cambridge University Press, 1994年

  • Helen J. Nicholson, The Knights Templar: A New History, The History Press, 2001年(改訂2021年)

  • Jochen Burgtorf, The Central Convent of Hospitallers and Templars, Brill, 2008年

  • Julien Théry, Philip the Fair, the Trial of the 'Perfidious Templars', and the Pontificalization of the French Monarchy, Journal of Medieval Religious Cultures 39(2), 2013年

  • Malcolm Barber & Keith Bate(編訳), The Templars: Selected Sources Translated and Annotated, Manchester University Press, 2002年

ウェブ資料

  • Wikipedia - Knights Templar, Council of Troyes (1129), Trials of the Knights Templar

  • TemplarsNow - 各種テンプル騎士団関連記事

  • Historic Royal Palaces - Templars at the Tower

  • History.com - Why the Knights Templar Gave False Confessions of Depravity

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