池田恒興 | 乳兄弟として信長を支えた実務武将
はじめに
戦国時代、数多の武将が権力者の側近として仕えました。
しかし、その中でも「主君の乳兄弟」という特殊な立場に生まれながら、実力でもその名を刻んだ人物は多くありません。
池田恒興(1536〜1584)は、織田信長の乳兄弟として知られます。
「コネで出世した」と片づけられることもある人物です。
しかし実際に史料をたどると、花隈城攻略で自ら槍を持ち、山崎の戦いで先陣を切り、清須会議では四宿老の一人として天下の行方を左右した武将の姿が浮かび上がります。
本記事では、一次史料と近年の研究成果をもとに、池田恒興の実像を丁寧に追います。
乳兄弟という出発点を超えて、戦国の荒波を実力で泳ぎきった男の生涯をご覧ください。
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1.乳兄弟という出発点――養徳院と信長との特別な絆
池田恒興は天文5年(1536)、尾張国に生まれました。
父・池田恒利は織田信秀の家臣でしたが、天文7年(1538)頃に早世したとされます(没年については1548年説もあり、確定していません)。
恒興の生涯を決定づけたのは、母・養徳院(1515〜1608)の存在です。
養徳院は幼い織田信長の乳母を務め、後に信長の父・信秀の側室ともなりました。
このため、恒興と信長は「乳兄弟(めのときょうだい)」という関係にあるだけでなく、義理の兄弟でもありました。
乳兄弟の関係は、戦国時代において単なる主従を超えた絶対的な信頼の基盤とされていました。
恒興は天文14年(1545)頃から信長の御伽小姓として仕え、以後、信長のそばで育ちます。
ただし注意が必要なのは、この出発点がいかに特別であっても、それだけで天下分け目の会議に四宿老として座れるほどの地位は得られなかったという点です。
後に述べる実績が、乳兄弟という縁を確かな力に変えたのです。
なお、「信輝」という呼称が一部の資料に見られますが、同時代に発給された文書はすべて「恒興」と自署されており、研究者・谷口克広氏も「信輝」の根拠が薄いと指摘しています。
本記事では「恒興」を正式な諱(いみな)として使用します。
2.信長家臣団での歩み――最初の武功から犬山城主へ
恒興の軍歴において、同時代史料に最初に明確に記録されるのは、永禄4年(1561)の美濃国軽海の戦いです。
『信長公記』巻1には「池田勝三郎(恒興の幼名)」が佐々成政とともに敵将・稲葉又右衛門を討ち取ったと記されています。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いへの参加は、池田家の家譜類に記録がありますが、『信長公記』の桶狭間条には恒興の名が見えず、具体的な役割は確認できません。
元亀元年(1570)の姉川の戦いに従軍した後、恒興は尾張国犬山城主に任じられ、1万貫を与えられます。
これが恒興の独立した城持ち大名としての最初の確実な記録です。
その後も元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち、天正2年(1574)の長島一向一揆討伐など、信長の主要な軍事行動に継続して従軍しています。
派手な一番槍の逸話よりも、組織的な任務への持続的参加と着実な成果が恒興の特徴でした。
3.摂津支配の獲得――荒木村重の乱と花隈城攻略
恒興のキャリアにおける最大の転機は、天正6年(1578)に始まる荒木村重の謀反への対応です。
村重は摂津国を治める有力大名でしたが、天正6年10月に信長に反旗を翻しました。
恒興は息子の元助・輝政とともに有岡城(現・兵庫県伊丹市)の包囲網に配置され、2年余りにわたる攻囲に参加します。
村重が有岡城から尼崎城、さらに花隈城(現・神戸市)へと逃亡した最終局面で、信長は恒興に花隈城攻略の総大将を命じました。
天正8年(1580)閏3月2日、城方が恒興の陣に打って出た際、恒興は45歳にして自ら槍を持ち、敵5〜6人を討ち取る白兵戦を展開しました。
次男・輝政(当時16歳)も敵6人を討ち取り、信長から書状で賞されています。
同年7月2日、花隈城は開城。
信長はこの功を、同年8月に佐久間信盛に突きつけた19箇条の折檻状において「恒興は少禄でありながら、花隈城を時間もかけずに攻略した」と名指しで称えました。
反乱鎮圧後、恒興は摂津国の諸城(有岡・尼崎・花隈・大坂)を与えられ、新たに兵庫城を築いて本拠としました。
この時点で恒興の知行は約10万石前後に達し、織田家臣団の中で有力者の一人となります。
4.天下分け目の瞬間――本能寺の変と山崎の戦い
天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の謀反により信長が本能寺で横死しました。
このとき恒興は摂津国にいました。
光秀は畿内の大名に協力を求めましたが、恒興はこれを即座に拒絶。
さらに、中川清秀・高山右近ら摂津衆が光秀側に加担することを防ぎ、秀吉軍との合流を待ちました。
摂津という地理的な要衝にいたことが、恒興に大きな役割を与えたのです。
6月11日、羽柴秀吉の「中国大返し」軍が尼崎に到着すると、恒興は摂津衆を率いて合流。この会合で恒興は剃髪して「勝入」と号し、信長への弔意と光秀討伐の決意を示しました。同時に政治的な同盟も固められました。
6月13日の山崎の戦いにおいて、恒興は右翼先鋒として約5,000(実数は約2,500という説もある)の兵を率いました。
戦闘開始から約1時間後、恒興隊は円明寺川を渡河して津田信春隊を側面から突き崩し、明智軍の総崩れを招きます。
なお、近年の研究では、合戦当日に秀吉は戦場から約12キロ南西の富田(現・大阪府高槻市)にいた可能性が指摘されています。
もしこれが確かなら、山崎の戦いの実質的な勝利者は恒興らであった可能性があります。
ただしこの説は現在も研究途中であり、確定的な結論は出ていません。
5.清須会議と四宿老の座
天正10年6月27日(1582年7月16日)、尾張国清須城において、信長の後継と遺領配分を決定する清須会議が開催されました。
出席者は柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4名です(滝川一益は関東での敗戦により不参加)。
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