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蜂屋頼隆 | 信長政権を支えた「黒のエース」

はじめに

「蜂屋頼隆(はちや よりたか)」という名前は、戦国時代の歴史好きの方でも聞き覚えのない方が多いかもしれません。
しかし彼は、織田信長の精鋭親衛隊「黒母衣衆」に名を連ね、信長・秀吉の二代にわたって政権の中枢を支えた人物です。
京都御馬揃えでは丹羽長秀に次ぐ序列で堂々と行進し、堺の豪商と茶の湯で交わり、秀吉の太閤検地にも直接異議を申し立てた。
それほどの人物でありながら、今日の歴史認知度は驚くほど低い。
なぜなのか——その答えこそが、蜂屋頼隆という武将を理解する鍵です。


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1.蜂屋頼隆とはどんな人物か

蜂屋頼隆は、天文3年(1534年)頃、美濃国加茂郡蜂屋村を本貫とする土豪の家に生まれたとされています。
蜂屋氏は清和源氏・土岐氏の流れを汲む一族と伝わりますが、頼隆本人と蜂屋本宗家の系譜的な接続については確実な一次資料が存在しません。
生年の根拠となる崇福寺の肖像画賛についても、研究者から信頼性への疑問が呈されており、この点は「未確認」として扱う必要があります。

史料上の初出は永禄2年(1559年)で、信長が80名の供を連れて初上洛した際の随行者の一人として『信長公記』に名前が確認されます。
このとき斎藤義龍が送り込んだ刺客の情報が入ると、頼隆は同じ美濃出身の金森長近とともに取次役を務めました。
美濃の人脈と機転を持つ人物として、早くも信長の信頼を得ていたことが分かります。

その後、頼隆は信長の直轄部隊である「黒母衣衆」に選抜されます。
特定の城や領地を持たず、主君の命に応じて全国の激戦地に投入されるという立場は、以後30年間にわたる頼隆のキャリアの基盤となりました。

2.黒母衣衆への選抜——信長直属エリートの誕生

信長は馬廻衆のなかから武勇に優れた精鋭を選び、前田利家が属する「赤母衣衆」と、蜂屋頼隆が属する「黒母衣衆」の2部隊を編成しました。
黒母衣衆のメンバーは佐々成政・河尻秀隆・中川重政らで、いずれも後に織田政権の要職を担う人材ばかりです。

この部隊の最大の特徴は、地域に固定されないことでした。
羽柴秀吉は中国方面、柴田勝家は北陸方面、明智光秀は丹波方面というように、主要武将が地域司令官として独立的な立場を持つようになるなか、黒母衣衆は信長の直轄遊撃力として全国の要所に機動的に投入され続けました。

この立場の強みは即応性にあります。
一方で、特定の領地を長期にわたって治めるわけではないため、後世に「●●城主・●●国主」として語り継がれにくいという側面もありました。
頼隆の知名度が低い最大の理由のひとつは、まさにここにあります。

なお黒母衣衆の成立時期については、小瀬甫庵の『甫庵信長記』が永禄10年(1567年)とする一方、『信長公記』には明確な時期の記載がなく、確定していません。

3.転戦30年——全国を駆けた遊撃武将

頼隆は信長政権の主要な軍事行動のほぼすべてに参加しています。
主な戦歴を確認できる範囲でまとめると、永禄11年(1568年)の上洛戦での勝龍寺城攻め(首50余を挙げる)を皮切りに、元亀元年(1570年)の浅井長政攻め、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いと今堅田城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆征討と蘭奢待切取り奉行、天正3年(1575年)の越前一向一揆掃討、天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正6~7年(1578~1579年)の荒木村重謀反鎮圧など、北陸・東海・畿内・紀伊と広範囲にわたっています。

なかでも天正2年(1574年)の蘭奢待切取り奉行は注目に値します。
正倉院に所蔵された名香・蘭奢待(らんじゃたい)を切り取るこの行為は、信長が朝廷への権威を示す重要な儀礼的行事でした。
頼隆はその奉行10名の一人として選ばれており、単なる戦闘員ではなく儀礼・政務の担い手としても機能していたことが分かります。

天正7年(1579年)の荒木村重謀反鎮圧では、有岡城陥落後に逃亡した村重への見せしめとして、信長は村重方の妻子130名の処刑を命じました。
頼隆は丹羽長秀・滝川一益とともにこれを尼崎で執行しています。
冷徹な命令の実行者として、信長政権の非妥協的な姿勢を体現した場面でもありました。

4.和泉国支配——行政官としての本領

頼隆のキャリアが大きく転換したのは天正8年(1580年)8月のことです。
信長の宿老・佐久間信盛が「19箇条の折檻状」によって高野山に追放されると、その後任として頼隆が和泉国の支配権を委譲されました。
これは頼隆にとって初めて広域の行政権を単独で掌握する立場への就任であり、いわば「遊撃武将」から「行政官」への転換を意味しました。

当時の和泉国は日本最大の国際貿易港・堺を擁し、鉄砲・火薬などの軍事物資調達と商業税収という点で、政権の心臓部に相当する地域でした。
頼隆はここで禁制の発給や寺社勢力との折衝などの行政業務を担います。

翌天正9年(1581年)2月28日、信長が正親町天皇の前で挙行した大軍事パレード「京都御馬揃え」では、頼隆は丹羽長秀に次ぐ二番手として河内衆・和泉衆・根来衆・佐野衆を率いて行進しました。
『信長公記』にも明記されるこの序列は、当時の織田家中における頼隆の地位の高さを公式に示す記録となっています。

同年4月には和泉国で堀秀政を奉行とする検地が実施されました。
寺領没収を恐れた槇尾寺の寺僧800余名が村々を占拠して目録提出を拒否すると、信長は徹底的な対処を命じます。
頼隆は織田信澄・堀秀政・松井友閑・丹羽長秀とともに、5月10日に槇尾寺の堂塔・寺庵・経巻を焼却しました。軍事力と行政権限の双方を行使した、この時代の権力行使の一端を示す事例です。

5.本能寺の変と秀吉陣営への転換

天正10年(1582年)5月、信長は三男・織田信孝を総大将とする四国攻め軍を編成し、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を与力に据えました。
14,000の軍勢が堺に集結し、渡海を待っていた6月2日、本能寺の変が勃発します。

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