電子書籍は自分のためだった
中学時代にあこがれていた美少女に、昼食会で卒業以来70年ぶりに会えた。彼女もきれいに齢を重ねており、「さすが!」と思った。伴侶にも恵まれ、彼女にふさわしい人生だったとわかる。
中学時代から押しも押されもしない才媛で生徒会の会長だか副会長だった。才媛の面影はいまもって健在であり、片っ端から難しい本を読んでいるらしい。惜しむらくは、目の機能が低下している。秀才や才媛が陥りやすいワナである。
文字を大きくして読める電子書籍を勧めてみたが、紙の書籍へのこだわりが深く、聞く耳を持たない。彼女なりに紙の本への深い愛情があり、文庫本(最近の文庫本は文字が少し大きくなっている)も読んでいる彼女に、それ以上、強くは電子書籍を勧められなかった。
編集者時代の後半、ぼくは電子書籍の普及に熱心だった。当然、社内で孤立した。「くだらないことに血道をあげて」とばかり、同僚や後輩たちは冷たかった。35歳で中途入社した男は、孤立に慣れていた。まったく平気だった。
もっとも、中途入社だけに、社長から「やめろ」と命じられたらさっさとやめていたかもしれない。しかし、9歳年長の社長とジュニアの専務が、「いずれはそんな時代がくる」といって、賛同してくれたので平然と続けた。
さまざまな逆風に吹かれた。ぼくの会社の主要な出版物は漫画だった。活字の電子化を意図する他社のグループから幼児のようなイジメを受けてあぜんとした経験も何度となくあった。男たちは、電子書籍の時代を仕切りたかったのかもしれない。
電子書籍普及のぼくの夢も不純だった。朝、ときおり、電車で出会っていた若くて、きれいな女性は、弱視ながら本を読むのがよほど好きだったのだろう。時計職人が眼窩にはめるルーペを使い、本の文字をひとつずつ拾って本を読んでいた。
感動した。彼女こそ、真の本好きだった。彼女のために、なんとしてでも、文字を大きくして読める電子書籍を、一日も早く実現したい。出版社に身をおく人間だったらごく自然の感懐だった。
やがて、アメリカの大資本によって電子書籍はたちまち実現した。日本の男たちの野望など吹き飛んでいた。太平洋戦争のアメリカの戦術を思い出す。日本の読者たる立場の人たちも、たちまち飛びついた。
何はともあれ、電子書籍が実現し、動きだした。時代はすでにデジタルを主流とする日常になっている。日本の出版社のいくばくかの抵抗があったのかどうかは知らないが、読者たちはユーザーと名前を変えて、アメリカの大資本をもろ手をあげて受け入れた。
あの女性が、電子書籍のリーダー(読書端末)で本を読んでいるかどうかまでは、たしかめることができなかった。ただ、老眼の身となったぼく自身が、もっぱら電子書籍のお世話になっている昨今である。
