見出し画像

INDが通っても、なぜ治験はすぐ始まらないのか #08

——FPIまでの「見えない準備」


このシリーズのラインナップは→ 第1回の記事でご確認いただけます。


前回の記事07で、IND申請という最初の関門を越えた。

FDAに「人に投与してよい」と判断してもらうための根拠を示し、30日間の安全性レビューを経て、Clinical Holdがかからなければ、制度上は治験を始められる状態になる。

さあ、治験が始まる——と思いたいところだが、そうはいかない。

INDが有効になった翌日、製薬会社はすぐに患者へ薬を投与できるのか。

まだできない。

ニュースでは「IND有効化」「Phase 1開始」と一言で語られる。
しかし、その裏側では、IRBの審査、プロトコルの修正、施設との契約交渉、治験薬の準備、同意説明文書の作成など、膨大な準備が同時に走っている。

実際に最初の被験者に薬が投与されるまで——これをFPI(First Patient In最初の被験者投与)という——早くて数ヶ月、多くの場合は半年から1年かかることもある。

もちろん、試験の種類によって差は大きい。
健康成人を対象とするシンプルなPhase 1なら数ヶ月で進むこともある。
一方で、患者対象・多施設・グローバル試験では、半年から1年以上かかることも珍しくない。

この「すぐには始まらない理由」を分解すると、FPIまでに必要な4つの準備がある。

この記事では、治験が始まる前に進んでいる準備の全体像を見ていく。

治験の裏側への好奇心がある方には、きっと楽しんでもらえる内容だ。



FPIまでに必要な4つの準備

INDが有効になってからFPIまでに、製薬会社は大きく4つの準備を進めなければならない。

  • IRBの承認

  • プロトコルの確定

  • 治験施設の立ち上げ

  • 被験者の同意取得

これらは順番に進むこともあれば、同時並行で走ることもある。

どれも、治験を安全に、正確に始めるために欠かせない準備である。

しかし、どれか一つが止まれば、FPIは後ろにずれる。

なぜこれほど時間がかかるのか。
それぞれを順番に見ていこう。


IRBの承認

ここで一つ、誤解が生じやすい。

FDAがOKなら、もう始められる。

そうではない。

FDAとは別に、もう一つの審査を行う組織がある。

それがIRB(Institutional Review Board:倫理審査委員会)だ。

IRBは米国の用語だが、同じ役割を担う組織は世界中に存在する。
欧州では「倫理委員会(Ethics Committee)」、日本では「治験審査委員会」と呼ばれ、名称は違っても機能は近い。

大きく単純化すると、FDAはこう問う。

この薬を人に試す科学的・安全性上の根拠はあるか。

一方で、IRBはこう問う。

その試験の進め方は、被験者の権利と安全を十分に守っているか。

もちろん、FDAも被験者保護を見ているし、IRBも試験設計やリスク・ベネフィットを確認する。
両者の役割は完全に分かれているわけではない。

ただ、初心者向けに理解するなら、FDAは「薬を人に試す科学的根拠」を見る機関、IRBは「人にどう試すかの倫理性」を見る機関と捉えるとわかりやすい。

FDA側で問題がなくても、IRBが「この試験計画では被験者を十分に守れていない」と判断すれば、その施設では治験を始められない。

この二重構造が、被験者保護の土台になっている。


IRBは誰で構成されているのか

IRBは、医師などの科学系専門家だけで構成されるわけではない。

科学系の専門家。
非科学系のメンバー。
施設と利害関係のない外部メンバー。

こうした複数の視点を持つ人たちで構成される。

ポイントは、科学の専門家だけで判断しないという点だ。

治験は「科学的に正しいか」だけでなく、人に対して倫理的に正しいかも問われる。

IRBが審査する中心は、プロトコル同意説明文書である。

プロトコルは治験の設計図であり、同意説明文書は被験者に試験内容を説明するための文書だ。

この審査が完了し、承認が下りるまで、治験は始められない。

実務では、IND申請とIRB申請は同時並行で進めることが多い。
FDAの30日レビューが終わっても、IRB承認がなければ治験は始められない。
逆に、IRB承認が先に出ても、FDA側でClinical Holdがかかれば開始できない。


施設ごとにIRBを作らないといけないのか

必ずしもそうではない。

IRBには、各施設が自前で審査する施設内IRBと、複数施設をまとめて審査する中央IRBがある。

施設ごとに審査すると、ある病院では始められても、別の病院ではまだ始められないことがある。

中央IRBは、この重複を減らし、多施設試験の立ち上げを効率化する仕組みだ。

グローバル試験では、さらに複雑になる。

国や地域ごとに規制当局と倫理審査の仕組みが異なるため、米国で準備が整っても、日本や欧州の審査・手続きが残っていれば、その国では治験を始められない。

これが、グローバル試験の準備が複雑になる理由の一つである。


プロトコルの確定

プロトコルとは、治験の実施計画書である。

IND申請の段階で初版を提出しているが、IRBの審査フィードバックを受けて修正が加えられ、この準備期間に最終版として確定していく。

一言で言えば、治験に関わる全員が守るべき「共通ルール」である。


プロトコルには何が書かれているのか

プロトコルには、治験の背景と根拠、対象者の条件、投与や検査の手順、中止基準、統計解析の考え方などが書かれる。

たとえば、次のような内容である。

背景と根拠
なぜこの薬が必要なのか。前臨床データは何を示しているのか。

対象者の定義
健康な成人のみか、患者も含めるのか。年齢・体重の制限はあるのか。他の薬を飲んでいる人は除外するのか。

具体的な手順
初回診察で何をするか。いつ投与するか。採血は何ml採るか。どの検査を、どのタイミングで行うのか。

中止基準
どのような副作用が出たら投与を止めるか。たとえば「肝機能を示す検査値が一定基準を超えたら中止」といった具体的なルール。

統計的な考え方
何人の被験者が必要か。次の用量に進む判断基準は何か。どの評価項目を主要評価項目とするのか。

ここまで細かく決める理由は、複数の施設で同じ手順を再現し、データの一貫性を保つためだ。

「大体こんな感じで」では治験にならない。

プロトコルは、異なる場所・異なる医師が動いても、同じ試験が再現されることを保証する仕組みなのである。


治験施設(サイト)の立ち上げ

治験を実施する場所をサイトという。

健康なボランティアを対象とするPhase 1なら専門の治験施設、患者を対象とする試験なら病院や診療所がサイトになる。


どうやってサイトを選ぶのか

このサイトを選ぶプロセスが、想像以上に複雑だ。

製薬会社は、施設の治験経験、主任治験医の専門性、必要な設備、患者を集められる力などを見てサイトを選ぶ。

たとえば、今回の試験で特殊な検査が必要なら、その検査を安全に実施できる施設でなければならない。

対象疾患の患者を十分に診ているかも重要だ。

どれだけ優れた病院でも、対象となる患者がほとんどいなければ、治験は進まない。

サイト選定は、単に「有名な病院を選ぶ」作業ではない。

その試験を安全に、正確に、予定通り進められる場所を探すプロセスなのである。


契約交渉が驚くほど時間がかかる

サイト候補が決まったら、次は契約交渉だ。

ここが、外からは非常に見えにくい。

治験施設との契約では、実に細かいことまで決めなければならない。

採血や画像検査の費用。
試験が中断になった場合の扱い。
被験者に副作用が起きたときの補償。
データの取り扱い。
論文化における出版権。
秘密保持の範囲。

これらすべてを書面で明文化する。

しかも、この交渉には、治験責任医師だけでなく、病院の契約部門、法務部門、財務部門、IRB、場合によってはCROも関わる。

そのため、一つのサイトを「立ち上げ可能な状態」にするだけでも、かなりの時間がかかる。

実務上、サイト立ち上げの遅れの大きな要因は、科学ではなく、契約と予算であることが多い。

ニュースでは「Phase 1開始予定」と簡単に書かれる。
しかし現場では、その前に、施設との細かい条件交渉が続いている。


SIV——「開幕前のリハーサル」

契約が成立し、IRB承認も得られ、必要な準備が整ったら、SIV(Site Initiation Visit:サイト立ち上げ訪問)が行われる。

これは、試験本番前のリハーサルのようなものだ。

SIVでは、治験担当者がサイトのスタッフに対して、プロトコルの内容、治験薬の管理方法、データ入力の手順、有害事象が起きたときの報告方法などを確認する。

治験では、小さな手順の違いがデータの質に影響する。

だからこそ、始まる前に、全員で細部まで確認する。


被験者の同意取得——インフォームドコンセント

治験に参加するすべての被験者は、事前に同意書に署名する。

これがインフォームドコンセント(IC)である。

ただし、ICは単なる法的手続きではない。

被験者が、治験の目的、検査内容、副作用リスク、参加しない選択肢、途中でやめられる権利を理解した上で、自ら参加を決めるためのプロセスである。

ここで大事なのは、「署名をもらうこと」ではない。

本当に大事なのは、被験者が理解し、納得しているかどうかだ。

つまりICとは、「同意書にサインするイベント」ではなく、理解と納得を確認するプロセスなのである。

同意説明で特に重要なのは、参加の自発性だ。

参加しなくても現在受けている治療は変わらないこと。
途中でやめても不利益を受けないこと。
治験に参加するかどうかは、本人の意思で決められること。

これらを、被験者が本当に理解している必要がある。


同意書に書かれていること

同意説明文書には、治験の目的、検査内容、副作用リスク、期待される利益、他に選べる治療法、途中でやめられること、補償、プライバシー保護などが書かれる。

これらをすべて、被験者が理解できる言葉で伝えなければならない。

医学用語だらけの同意書では、被験者は十分に情報を得た状態とはいえない。

たとえば、

本薬はtransforming growth factor β superfamilyに属するミオスタチンを……

という書き方では、ほとんどの人には伝わらない。

初心者にも伝わるように書くなら、

筋肉の成長を調整するタンパク質の働きを抑える薬です。

といった表現にする必要がある。

ここで求められているのは、単なる文章のやさしさではない。

被験者が自分の体に起きることを理解し、自分で判断できるようにすること。

それが、読みやすさの本当の目的である。


治験開始の遅れは、製薬会社の実行力にも関わる

ここで見えてくるのは、治験開始までの準備が単なる事務作業ではないということだ。

施設を選び、契約を結び、スタッフを教育し、被験者に正しく説明する。
こうした実務を早く、正確に進められるかどうかも、製薬会社の開発力の一部である。

IRBの承認。
プロトコルの確定。
サイトの立ち上げ。
被験者の同意。

これらが揃って初めて、FPIの日を迎えられる。

ただし、多施設試験では、すべての施設が同時に立ち上がるとは限らない。
各サイトの立ち上げが遅れるほど、全体の患者登録スピードは落ち、試験完了は後ろ倒しになっていく。

そのため、創薬力だけでなく、治験を動かす力もまた、製薬会社の競争力なのだ。

INDが有効になってからFPIまでの間に、製薬会社が何を準備しているのか。
その全体像が、少し見えてきただろうか。

次回はいよいよPhase 1に踏み込み、「初めて人に投与する」試験の目的と設計を見ていく。


注記

本記事は、公開情報・規制資料・AIを活用したリサーチをもとに、筆者が内容を確認・編集して整理したものです。筆者は治験オペレーションの実務担当者ではないため、実際の運用は企業・国・試験内容によって異なる点にご留意ください。


今回の内容はいかがでしたか?

皆さんのコメント大歓迎です。

もし「役に立った」と思っていただけたなら、スキやフォローで応援いただけると励みになります。
またXでも製薬×ビジネスの話を発信しているので、@hiro_pharma_map もぜひフォローを。

それでは、また次回の記事で。


参考資料

  • ICH-GCP(E6)— 臨床試験の国際的な倫理・科学基準

  • FDA 21 CFR Part 56 — IRBの構成と審査要件

  • FDA 21 CFR Part 312 — INDの開始条件とClinical Hold

  • FDA Guidance "A Guide to Informed Consent" — 同意説明文書の基本要件

  • NIH Single IRB Policy — 米国における多施設研究の単一IRB利用方針

  • EU Clinical Trials Regulation / CTIS — 欧州における臨床試験申請・審査制度

  • 厚生労働省 GCP省令(医薬品の臨床試験の実施の基準に関する省令)— 日本における治験審査委員会・同意取得の規定

  • WCG / Advarra等の臨床試験サイト立ち上げ・IRB審査に関する実務資料

いいなと思ったら応援しよう!