支えるつもりが、背負っていた。
ー夫のがんを前に、「私が何とかしなければ」と思い続けた私が気づいた、支えることと背負うことの違いー
あなたは、大切な人を支えることと、その人の人生を背負うことを、混同していませんか。私自身、夫の闘病生活の間、その違いが分かっていませんでした。
私は、がん末期から生還するというストーリーを、どこかで夢見ていました。これまで学んできた知識や経験で、何とかできるのではないかと思っていたのです。
その奥には、
愛する人を救いたいという、人として自然な願いがあった
そして、さらに奥には
愛していたからこそ、自分の無力さに耐えられなかった
そして私は、その経験を通して、愛する人を支えることと、その人の人生を背負うことは違うのだと、少しずつ学んでいきました。
当時の私を振り返りながら、そのことについて書いてみたいと思います。
夫の病気を前に、「私が何とか食事を整えなければ」、「私が、しっかりしなければ」、「医療者である私が、治療の舵取りを間違えてはいけない」と、強く思っていました。
なぜ、そこまで必死になっていたのだろう。
今振り返ると、その奥には、いくつもの感情がありました。
愛
不安
怖さ
無力感
そして、後悔したくないという、私自身の願い
でした。
さらに、病気の責任の一端が、自分にもあるように感じてしまい、夫の病気を治すことに必死になっていました。
振り返ると、私は夫の病気だけではなく、「夫の人生そのもの」に責任を負おうとしていたのだと思います。
私が「背負っていた」ことが、いちばん表れていたのは、食事でした。
がんに良いと言われる野菜を選び、スープを作る。
四つ足の動物の肉は避ける。
甘いものを控える。
お酒を飲まない。
サプリメントを試す。
身体を温める。
睡眠時間を確保する。
本当にたくさんの情報を調べ続けました。
書き出したら、あれもこれも、と、これをやったら良いと言われていることを、試してみたことが思い出されます。
「これをすれば治るかもしれない」という希望と、
「やらなければ私が後悔する」という恐れに、私は動かされていたのです。
私は「何を食べるか」は見ていました。でも、「どんな表情で食べているか」は、ほとんど見ていませんでした。
笑っていたか。
幸せそうだったか。
今日という一日を味わえていたか。
そんな大切なことが、私の視界から抜け落ちてしまっていました。
改めて振り返ると、そこには日常の隙間や余白がありませんでした。
いつも切羽詰まっている。
ギリギリまで頑張っている。
私自身が、笑顔よりも、必死な表情の方が多かったように思います。
そして私は、良かれと思っていることを、知らないうちに相手にも求めていたのだと思います。
夫は、私とは違って、病気を「治す方法」を探し続ける人ではありませんでした。それよりも、その日に美味しくご飯を食べることや、仕事をすること、人との時間を楽しむことを選んでいました。
当時の私は、その姿がどこか物足りなく感じることもありました。
でも今振り返ると、それは夫が、自分の人生を自分らしく生きようとしていた姿だったのだと思います。
また、病気と向き合う時間の中でも、本当は笑顔や、何気ない会話、今までのような普段の生活を求めていたのかもしれません。
「治すこと」に必死になるあまり、私はその時間を一緒に生きることを、少し忘れていたのかもしれません。
あなたは、大切な人を支えようとして、相手の人生まで背負ってしまっていませんか。
