【魂の声で唄う#68】本物の言葉でしか、抱きしめられない。——Love Story Series #35「LOVE SONG」に寄せて——
第一章 1989年、僕はやせていく歌を見ていた
1989年。昭和が終わり、
平成という時代が産声を上げたその年に、
一つのラブソングが世に放たれた。
CHAGE and ASKAの「LOVE SONG」である。
甘い恋の歌だと、多くの人はそう聴いた。
片想いの男が、想う人へ届かぬ言葉を抱きしめる歌だと。しかし、私の耳には、もっと別の音が聴こえていた。
冒頭の数行に、私は立ち止まる。
時代の流行に紛れ込み、それらしく振る舞おうとする自分。
中身のないまま、痩せ細っていく言葉。
まるで安っぽい玩具のような歌を、大切な誰かに差し出してしまう申し訳なさ。
これは、恋の歌である前に、
言葉そのものへの懺悔ではないか。
1989年という時代を思い出す。
バブルの残り香がまだ街に漂い、誰もがきらびやかな言葉を求めていた頃だ。
テレビからもラジオからも、甘く軽やかなラブソングが溢れていた。
そんな中で、ASKA氏はあえて弱さを晒した。
かっこつけて、強がって、それでも中身が伴わない自分を、隠さずに描いた。
これは、勇気のいる作業だったはずだ。
流行に乗ることは容易い。
世間が求める言葉を並べれば、それなりに評価される。
だが、それは本当の自分の声だろうか。
ASKA氏はその問いを、静かに、しかし鋭く投げかけていた。
横になって、それを見ていたという一節がある。
戦うでもなく、抗うでもなく、ただ「見ていた」という姿勢。
これもまた興味深い。
批評するでもなく、断罪するでもない。
自分自身の弱さを、少し離れた場所から静かに見つめる目線だ。
この距離感にこそ、この歌の本質が宿っている、
と私は思う。
そして、この痩せていく歌は、やがて一つの覚悟へと変わっていく。
次章では、その覚悟を象徴する、ある比喩について掘り下げたい。
第二章 半オンスの拳
拳を握る。だが、その拳には重さがない。
半オンス、というのは約十四グラムのことだ。
片手で持ち上げた瞬間に忘れてしまうほどの、軽さ。
ASKA氏はこの数字を使って、ある種の人間の姿を描き出した。
生きざまぶった拳、である。
強く生きているふりをする。傷ついてもいないのに、傷ついた顔をする。本当は何も背負っていないのに、重い荷物を背負っているかのように振る舞う。そうした虚勢が、なぜか世間には受け入れられてしまう。むしろ、笑いを取ったり、共感を得たりすることさえある。
これは、痛烈な自己批評だ。
自分自身の弱さを、他人事のように眺める視点。
先ほどの「横になって見ていた」という姿勢と、ここで繋がってくる。批判するでもなく、正当化するでもない。ただ、乾いた目で自分を見つめている。
私はこの箇所を読むたびに、現代のSNSを思い出す。
軽い言葉が、驚くほど遠くまで届く時代だ。
深く考えずに投稿した一言が、何万もの「いいね」を集めることがある。中身のない言葉ほど、実は拡散されやすいという皮肉。半オンスの拳は、まさにこの構造を、三十数年前に見抜いていたのではないか。
本物の重さを持つ言葉は、そう簡単には受け入れられない。
なぜなら、本物は人を立ち止まらせるからだ。軽い言葉のように、すっと通り抜けてはいかない。喉に刺さり、心に残り、時には拒絶されることさえある。だからこそ、多くの人は無意識のうちに、軽い拳を選んでしまう。
ASKA氏は、その構造に気づいていた。気づいた上で、あえて自分自身をその「軽い拳」の持ち主として描いた。これは自己弁護ではない。むしろ、自分もまたその弱さから逃れられないという、痛みを伴う告白である。
そして、この告白の先に、ようやく本物の言葉が姿を現す。
次章では、この歌に込められた、もう一つの秘密――「君」という存在の正体について、私自身の解釈を明かしたい。
第三章 君は、女性ではなかった
告白しよう。
私にとって、この歌の「君」は、女性ではない。
多くの人はこの歌を、片想いの男が、想う女性へ捧げるラブソングとして聴く。それは正しい聴き方だ。否定するつもりは毛頭ない。しかし、私の中では、いつからか別の等式が生まれていた。
歌詞の中の「ぼく」を、私に置き換える。歌詞の中の「君」を、世の中に存在するすべてのLOVE SONGたちに置き換える。
すると、不思議なことが起きた。
すべての言葉が、するりと私の胸に収まったのだ。
流行に紛れて痩せていく歌とは、私自身がこれまで生み出してきた、あるいは触れてきた楽曲への申し訳なさだった。半オンスの拳とは、真剣に向き合わずに軽く扱ってきた、数えきれないラブソングたちへの自戒だった。
そして「抱き合う」という言葉。
これは、YouTubeで唄うことを意味している。
Love Story Seriesという場で、一曲一曲を選び、声にし、届けること。
それは私にとって、その歌そのものを抱きしめる行為に等しい。
欲張りになっていく、という一節がある。一曲を唄えば、次の曲を唄いたくなる。一つの歌に向き合えば、また別の歌にも向き合いたくなる。この終わりのない衝動こそ、私がこのシリーズを続けている理由そのものだ。
相手がどれだけ自分を想っているかよりも、自分の方がずっと深く想っている――そんな心情を綴った一節も、同じ構造で読める。
世の中のLOVE SONGたちが、私にどれほどの価値を認めてくれているかは分からない。だが、それでも構わない。私の方が、きっとずっと、これらの歌を愛している。その一方的なまでの想いが、このシリーズを支えている。
1989年当時、この歌は、その時代のラブソングたちの代表であるかのように、私の耳には響いていた。
だからこそ、Love Story Seriesという場を作ると決めた時、この曲は外せないと直感した。テーマソングとして、必ずここに置きたい一曲だった。
この置き換えは、こじつけではない。
一つの歌詞の中に、複数の意味が同時に息づくことこそ、名曲の証だと私は思う。表面では男女の恋を唄いながら、その奥では、表現者と表現そのものの関係を映し出す。そうした重層性を持つ歌にしか、私はここまで深く入り込めない。
では、なぜ人は、軽い言葉に流されてしまうのか。
次章では、その問いの答えを、クリティカルシンキングという視点から掘り下げていきたい。
第四章 誠の言葉とは何か
甘い言葉には、抗いがたい力がある。
「好き」「愛してる」「君だけだよ」。
使い古された言葉であっても、投げかけられれば心は揺れる。
SNSの世界では、この揺れが商売になる。
歯の浮くような台詞が、フォロワーを増やし、承認欲求を満たし、時には金銭さえも動かす。
人は誰しも、こうした言葉に浮かれてしまう瞬間がある。
私自身、無縁ではいられない。長く音楽を作り続けてきた中で、耳障りの良い言葉に流されそうになったことは、一度や二度ではない。
だからこそ、この歌の警鐘が、他人事として響かないのだ。
ここで必要になるのが、クリティカルシンキングである。
クリティカルシンキングとは、他人を攻撃するための道具ではない。自分自身の思考の癖や、無意識の前提を、静かに問い直す作業だ。
「本当にそうか?」と、一度立ち止まる勇気。
それだけのことだが、これが驚くほど難しい。
ロジカルシンキングが「どう考えるか」を扱うのに対し、クリティカルシンキングは「その考え方の土台は正しいか」を扱う。
似ているようで、まるで違う。
前者は道を舗装する技術であり、後者はその道が本当に目的地へ続いているのかを確かめる目である。舗装がどれほど美しくても、向かう先を間違えていては意味がない。
そしてもう一つ、必要な視点がある。
第一原理思考だ。
これは、常識や慣習をいったん脇に置き、物事の根本――それ以上分解できない本質――から考え直す方法だ。
「みんなが言っているから」「昔からそうだから」という理由を、一度すべて取り払う。
そこに残るのは何か。
半オンスの拳が、なぜ世間に受け入れられてしまうのか。
答えは単純だ。多くの人が、根本から考えることを面倒に感じているからだ。誰かが用意した軽い言葉を、そのまま受け取る方が楽である。
だが、楽な道の先に、本物の重さを持つ何かが待っていることは、まずない。
真の言葉とは、根本から自分の頭で考え抜いた末に、ようやく姿を現すものだ。
借り物の言葉ではなく、自分の内側から絞り出した言葉。
それは時に不格好で、洗練さに欠けるかもしれない。それでも、そこには半オンスにはない重みが宿る。
この歌が三十数年経った今もなお色褪せないのは、その重みを持つ言葉で紡がれているからだと、私は思う。
本物の重さを持つ言葉――それが、なぜこの一曲でなければならなかったのか。理由は、まだ先にある。
第五章 Love Story Seriesのテーマソングである理由
一つのシリーズには、旗印となる歌が要る。
Love Story Seriesを始めると決めた時、私の頭には迷わずこの曲が浮かんだ。
「LOVE SONG」
それ以外の選択肢は、正直なところ考えられなかった。
理由は、これまで綴ってきた通りだ。
この歌は、表向きは男女の恋を唄いながら、その奥に、表現者と表現そのものとの関係を隠し持っている。
ぼくと君。
私と、世の中のLOVE SONGたち。
この二重構造こそが、シリーズ全体を貫く背骨になり得ると直感した。
「抱き合う」とは、私にとって唄うことだ。
一曲を選び、声を吹き込み、YouTubeという場に届ける。
その瞬間、私はその歌を抱きしめている。
画面の向こうに誰が見ていようといまいと、
その一瞬だけは、私とその歌の二人だけの時間になる。
「欲張りになっていく」という一節も、
そのままシリーズの成り立ちを物語っている。
一曲を唄い終えれば、必ず次の曲が唄いたくなる。
ある歌を抱きしめれば、まだ抱きしめていない歌たちが、次々と胸の中に浮かんでくる。
この終わりのない欲求こそが、Love Story Seriesを、これまで一度も止めずに続けてこられた原動力だ。
1989年、この歌は
当時のラブソングたちの代表のような存在として、
私の耳に響いていた。
だからこそ、この曲をシリーズの根幹に据えることは、単なる選曲ではなく、一つの宣言だったのだと、今になって思う。
私がこれから唄っていくすべての歌への、いわば前書きのような一曲。
もちろん、テーマソングになり得る曲は、これ一曲だけではない。
「ラブストーリーは突然に」もまた、いつか必ずこのシリーズに迎え入れたいと考えている曲の一つだ。
それぞれの歌が、それぞれの角度から「愛とは何か」を問いかけてくる。
その多層性こそが、このシリーズを豊かにしていく。
だが、原点は、いつもここに戻ってくる。
半オンスの拳ではなく、本物の重さを持つ言葉で、これからも歌たちを抱きしめ続けたい。
第六章 結章
1989年、私は二十五歳だった。
クラブ歌手として、来る日も来る夜も唄い続けていた時期だ。
借金は、あと少しで返し終わるところまで来ていた。バンマスからは、優しくも厳しい言葉をもらっていた。
もうバイショウは卒業しろ、表の世界へ出ていけ、二度とこの世界に帰ってくるな、と。
その恩に報いる気持ちも込めて、当時は二足の草鞋を履いていた。
NEXT WAVEというバンドのボーカルとして、和歌山のレコード会社・sound staffから、ちょうど同じ1989年の七月に、CDが全国発売されることになっていた。同時に、ソロとしての活動も続けていた。
年間三百本を超えるライブ。
事務所の都合で、一夜に予定が三重に重なり、
トリプルブッキングになることさえあった。
過酷という言葉では足りないほどのスケジュールの中で、ある日、私は分からなくなった。
自分は今、本当に心の底から、真実の歌を唄えているのだろうか、と。
そんな時期に出会ったのが、この「LOVE SONG」だった。
半オンスの拳を、私自身も握っていたのかもしれない。
疲労の中で、なんとなく唄い、なんとなく声を出す。そんな夜が、なかったとは言えない。
だからこそ、この歌は、バイブルのように私の中に残り続けた。
真のラブソングとは何か。
その問いを、あの頃の私に、初めて突きつけてくれた曲だった。
流行に紛れず、誠の言葉を探すこと。
これは、音楽に限った話ではない。
日々の会話、仕事の場での判断、大切な人へ伝える一言。
そのすべてにおいて、問い続けるべき姿勢だ。
「本当に、それは自分の言葉か。」
この一文を、一日に一度でも自分に投げかけられたなら、その日は少しだけ、誠実な一日になるはずだ。
相手が私をどれだけ想っていようと関係ない。
私の方が、きっとずっと、深く想っている――そんな一途な想いを、私はこれからも、唄うすべての歌たちへの誓いとして、胸に刻んでいく。
抱きしめる度に、また一つ、
欲張りになっていく自分を許しながら。
半オンスではなく、確かな重さを持つ言葉で。
二十五歳のあの夜から、もう三十年以上が経った。
それでも、この歌が私に問いかけてくるものは、
今も少しも変わらない。
これからも、唄い続けていきたい。
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