【魂の声で唄う#65】後悔は、深く愛した証——Love Story Series #32「チェリー」に寄せて——
第一章:なぜ「チェリー」だったのか
スピッツの「チェリー」を聴いて、
誰もが一度はぶつかる謎がある。
なぜ、この曲は「チェリー」なのか。
「愛してる」でもいい。「君とめぐり会いたい」でもいい。歌詞の中には、もっとふさわしいタイトル候補がいくつも転がっている。
それなのに、マサムネは「チェリー」を選んだ。
理由は、季節にある。
チェリーが店頭に並ぶのは、5月から7月。国産のさくらんぼも、輸入のアメリカンチェリーも、ちょうどこの時期に出回りのピークを迎える。そして、チェリーの仮タイトルは「ビワ」だったという。
ビワもまた、5月から7月の果実。
バラ科に属し、生態もよく似た植物だ。
果物の名前である必要があった。それも、5月から7月に出てくる果物でなければならなかった。
ここに、この曲を解く最初の鍵がある。
「愛してる」では、意味が固まりすぎる。「君とめぐり会いたい」では、感傷が前に出すぎる。だが「チェリー」という、ただの果実の名前にしてしまえば、聴き手はその意味を、季節の中に探さなければならなくなる。
5月から7月。それは、卒業からしばらく経った頃だ。
卒業式は3月。
別れの直後ではない。
少し時間が空いて、ようやく心が落ち着いてきた頃に、ふと思い出す別れがある。
この曲は、そういう曲なのではないか。
卒業したての痛みを歌った曲ではない。卒業からしばらく経って、ようやく言葉にできるようになった別れを歌った曲。だからこそ、桜でも、別れでもなく、初夏の入り口に実る「チェリー」というタイトルが選ばれた。
そう考えると、聴き慣れたはずのこの曲が、急に違う顔を見せ始める。
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第二章:君は、東へ旅立った
君を忘れない 曲がりくねった道を行く
産まれたての太陽と 夢を渡る黄色い砂
この歌い出しから、もう「君」はそこにいない。
「忘れない」という言葉は、目の前の相手には使わない。失った人、もう会えない人に向けて使う言葉だ。歌が始まった瞬間、僕はすでに、君のいない道を一人で歩いている。
「生まれたての太陽」とは、力の弱い、まだ温度の低い太陽。「黄色い砂」は黄砂のことだろう。どちらも、東から来るものだ。マサムネは福岡の出身。福岡より東には、日本のほとんどが広がっている。
君は、東へ向かったのではないか。
夢を追いかけて、曲がりくねった道に僕を一人残し、東へ旅立っていった。そう読むと、次の一節の意味も変わってくる。
二度と戻れない くすぐり合って転げた日
きっと想像した以上に 騒がしい未来が僕を待ってる
くすぐり合って転げるような、無邪気な日々。
それはもう、二度と戻らない。
過去形で語られるこの記憶は、すでに「思い出」として僕の中に固定されている。だが、不思議なことに、ここに後悔の響きはない。
「きっと想像した以上に騒がしい未来が僕を待ってる」。
これは、待つだけの男の歌ではない。
僕にも、僕自身の新しい人生がある。
それも、騒がしいほど賑やかな未来が。
君は東へ。僕はこの場所で、新しい道を歩き始める。
二人の道は分かれた。けれど、この一文があることで、この曲は「置いていかれた男の未練」ではなく、「それぞれの道を選んだ二人」の物語になる。
ここに、チェリーという曲の芯がある。
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第三章:「愛してる」という、覚悟の言葉
"愛してる"の響きだけで強くなれる気がしたよ
ささやかな喜びを つぶれるほど抱きしめて
この一節を、ただの惚気と読んではいけない。
「愛してる」と言ったのは、君だ。そして、別れることが確定している関係の中で、君はそれでも「愛してる」と言った。
普通、別れを決めた相手には、もう「愛してる」とは言わない。言えば、未練を残してしまうから。それでも君は言った。ということは、その「愛してる」には、相当な覚悟がこもっていたはずだ。
君は、僕と一緒にいるべきか、それとも夢を追いかけるべきか、ぎりぎりまで悩んだだろう。簡単な決断ではなかったはずだ。そして、別れを切り出したのは、実は僕の方だった。君の夢を応援するために、僕が先に身を引いた。
そんな迷いを見せる君に対して、僕はこう言ったのではないか。
「君に愛してるって言われただけで、僕は満足だよ」
その言葉だけで、僕は強くなれる気がした。君がいなくなった今となっては、あの「愛してる」という事実だけが、ずしりと胸に残っている。それを、つぶれるほど強く抱きしめて、僕は生きている。
これは、ただの未練ではない。
ささやかな喜びひとつを、人生を支える芯として抱きしめて生きる。そういう強さの歌だ。
そして、ここで初めて、最初の謎に光が当たる。
なぜ「チェリー」だったのか。「愛してる」をそのままタイトルにしてしまえば、この言葉の持つ覚悟と痛みが、ただの甘い言葉に薄まってしまう。果実の名前という、一見無関係な言葉の奥に沈めることで、この「愛してる」は初めて、その重さを保ったまま聴き手に届く。
タイトルに込められた距離感こそが、この曲の誠実さなのだ。
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第四章:破られた手紙、舞う花びら
どんなに歩いても たどりつけない 心の雪でぬれた頬
悪魔のふりして 切り裂いた歌を
春の風に舞う花びらに変えて
この一節は、おそらくこの曲の中で、もっとも痛みの深い場面だ。
「どんなに歩いてもたどりつけない」。これは、もう物理的な距離の話ではない。心の距離だ。「心の雪でぬれた頬」という表現が、それを物語っている。涙ではなく、雪。冷たく、簡単には溶けない感情。
そして「悪魔のふりして切り裂いた歌」。
ここで僕は、ある行動をとったのではないか。君を引き止めようとして書いた手紙、あるいは歌。それを、僕自身の手で破った。
君が、僕をとるか、夢をとるかで、迷いに迷い、前に進めなくなっていた。だから僕は、悪魔のふりをした。優しい僕のままでは、君の決断を後押しできない。だから、あえて冷たい役を演じて、引き止めの言葉を引き裂いた。
その紙片が手のひらからこぼれ落ちる瞬間、それはまるで、春の風に舞う桜の花びらのように見えた。
破壊の瞬間が、もっとも美しい情景として描かれる。ここに、この曲の核心がある。
優しさだけでは、人を送り出せないことがある。
本当に誰かのためを思うなら、時に悪魔のふりをしてでも、自分の手で、その人の迷いを断ち切ってやらなければならない。それは、愛情の最も過酷な形だ。
この情景があったからこそ、君は東へ旅立つ決心がついた。僕の優しさではなく、僕が悪役を引き受けたことが、君の新しい人生の始まりを後押しした。
桜という、別れの定番のような花ではなく、名もなき「花びら」として描かれているのも、意味があるように思う。誰の人生にも起こりうる、名もなき決断の瞬間として、この情景は描かれている。
だが、この曲が照らす「別れ」は、果たして恋愛だけのものだろうか。
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第五章:私の「チェリー」
ここから書くことは、おそらく、この曲を聴いてきた多くの人の解釈とは違う。
それでも、書かせてほしい。
2015年8月13日。1995年からずっと、家族として苦楽をともにしてきた愛猫「ラッキー」が、この世を去った。
何かできたのではないか。その問いは、長い間、私を離さなかった。あの日々、もっと違うやり方があったのではないか。もっと早く気づいてやれたのではないか。
そして2017年9月14日。母を、交通事故で亡くした。
これで、本当に天涯孤独になった。そう思った瞬間の重さは、言葉では言い表せない。母を見送ったときもまた、同じ問いが頭をもたげた。私は、母に何かしてあげられたのではないか。
ラッキーのときも、母のときも、答えの出ない後悔だけが残った。
「どんなに歩いてもたどりつけない 心の雪でぬれた頬」
この一節を歌うとき、私の中に浮かぶのは、恋人の面影ではない。ラッキーの温もりであり、母の声だ。たどりつけないのは、もう会えない場所にいる、大切な者たちのもとへの道だ。
それでも、不思議なことに、ある想いが頭をよぎるようになった。
私がこの世に残り、この世でやるべきことをやり遂げてから、そちらに行くまで、待っていてね。
これは、別れを受け入れるための言葉ではない。後悔を消すための言葉でもない。後悔を抱えたまま、それでも前を向くための、私なりの誓いだった。
「"愛してる"の響きだけで 強くなれる気がしたよ
ささやかな喜びを つぶれるほど抱きしめて」
この一節を、私は彼らとの記憶として歌う。ラッキーと過ごした日々、母と交わした何気ない会話。ささやかな喜びだったはずのそれらが、今となっては、つぶれるほど強く抱きしめなければならない、かけがえのない宝物になった。
この歌から私が思い出すのは、恋の別れではない。生と死の境界線だ。
それでも、この曲が私に教えてくれることは、恋愛の解釈と何ら変わらない。
全身全霊で向き合った関係に、後悔などないということ。後悔を感じるのは、それだけ深く愛した証だということ。そして、その後悔を抱えたまま、それでも前を向いて生きていくことこそが、残された者の唯一の責務だということ。
この解釈が、皆さんの思うチェリーの世界と違うことは、よくわかっている。
それでも私は、この歌を歌うたび、ラッキーと母を想う。そして、いつかまた、この場所で、君とめぐり会いたい——その一文を、いつか向こう側で再会できる日への、ささやかな約束として歌っている。
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第六章:いつかまた、この場所で
チェリーというタイトルの謎から始まったこの旅は、最後にひとつの問いにたどりつく。
人は、なぜ別れを歌うのか。
恋人との別れであれ、家族やかけがえのない存在との死別であれ、その答えは同じところに行き着くのかもしれない。
別れとは、終わりではない。
ズルしても真面目にも生きてゆける気がしたよ
いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい
この最後の一節に、すべてが集約されている。
ズルをしてでも、不器用にでも、とにかく生きていく。完璧でなくていい。正しくなくていい。
ただ、生き続けるということ。
その先に、再会の約束がある。
恋人と東で別々の道を歩む者にとっても、大切な存在を見送った者にとっても、「いつかまた、この場所で」という一文は、同じ重みを持つ。それは、今この瞬間の別れを否定する言葉ではなく、別れてもなお続いていく関係を信じる言葉だ。
5月から7月。チェリーが実る季節。
卒業からしばらく経って、ようやく言葉にできるようになった別れ。痛みが癒えたわけではない。ただ、その痛みと共に生きていく術を、人は少しずつ覚えていく。
私はこの曲を、もう恋の歌としてだけ聴くことができない。
ラッキーと過ごした日々。母と交わした言葉。それらすべてを抱えながら、それでも前を向いて歩く自分自身への、ささやかな誓いの歌として聴いている。
自分の選んだ選択。その時、その時、全身全霊で向き合ったのなら、後で後悔することなどないはずだ。その時の選択こそが、ベストだったのだから。
たとえ後悔という感情が消えなくても、それは深く愛した証であり、恥じることではない。
その後悔を抱きしめながら、それでも前を向いて生きていく。それが、残された者にできる、ひとつの誠実さなのだと、今は思っている。
いつかまた、この場所で。
そう願いながら、今日も私は歌う。
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