【魂の声で唄う#67】想像では、唄えない。Love Story Series #34「You Raise Me Up」に寄せて
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第一章 六月、二人の魂が旅立った
六月は、二度、灯を消した。
一つ目の灯は、大西洋の向こうで消えた。
ピーボ・ブライソン。
前回で追悼の記事を書き終えたばかりなのに。
ペンを置いた指先が、まだ乾いてもいないうちに。
そして二つ目の灯は、この国で消えた。
六月二十日、午前九時三十分。老衰。九十一歳。
美輪明宏。
その名を打ち込む指が、一瞬止まる。
止まった理由は、悲しみだけではない。
もっと厄介な感情——後悔、憧れ、そして敬愛が、
束になって押し寄せてくるからだ。
一月には久米宏さんが、同じく同月、加藤一二三さんが、五月には橋本淳さんと菅原洋一さんが。
今年という年は、まるで昭和という時代そのものに別れを告げているかのように、次々と大きな存在が旅立っていった。
そんな中での、美輪明宏さんの訃報だった。
正直に書く。私は、この人に一度も会えなかった。
人生で何度かあったはずの機会を、すべてすり抜けてしまった。
ただ一つ、確かなことがある。
生きているうちに会えなかった人を、亡くなってから唄うことでしか弔えないという事実。
それがどれほど不甲斐なく、そしてどれほど尊いことか——この記事を書き終える頃には、少しだけ分かっているかもしれない。
第二章 なぜ、そこまで会いたかったのか
会いたい人は、星の数ほどいる。
だが、心の底から「一度でいい、会いたい」と願った人は、そう多くない。
美輪明宏さんは、その数少ない一人だった。
理由は、単純ではない。
まず、原爆だ。
ご自身が被爆者でありながら、その体験を恨みではなく、平和への祈りに変えていった生き方。
戦争を知る世代が次々といなくなる今、あの声で語られる「平和」の重みは、教科書の百倍も心に刺さった。
次に、性別という境界線だ。
男でも女でもない、その両方でもある。
世間が勝手に引いた線を軽々と越えて、ただ「愛」と「平等」だけを唄い続けた人。
偏見という重力を、鼻歌一つで無効化してしまうような凄みがあった。
そしてもう一つ、スピリチュアルな側面だ。
ご自身を天草四郎の生まれ変わりだと語っていた記憶がある。眉唾だと笑う人もいるだろう。しかし私には、笑えなかった。『紫の履歴書』も『正負の法則』も、貪るように読んだ。あの著作に流れているのは、占いでも神秘主義でもない。
もっと骨太な、人生哲学そのものだった。
声優としての仕事にも、同じ魂が宿っていた。
『もののけ姫』のモロの君、『ハウルの動く城』の荒地の魔女。あの声を聞くたびに、キャラクターという皮を突き破って、本人の魂がこちらを睨んでくる感覚があった。演じているのではない。憑依しているのだ。
だからこそ、三度のすれ違いが悔やまれる。
一度目は、いつだったか記憶も曖昧だ。
二度目は、もう少しで手が届きそうだった。
三度目は——ここには書かない。
書いたところで、今さらどうにもならないからだ。
会えないまま、その人は逝ってしまった。
残されたのは、後悔と、それを上回るほどの敬愛だけだった。
第三章 舞台の上の神
紅白歌合戦の記憶が、今も鮮明に残っている。
暗転した舞台。装飾は何もない。ただ黒い服を纏った一人の人間が、そこに立っているだけだった。派手な照明も、バックダンサーも、何もない。
あるのは、声だけ。
「ヨイトマケの唄」。
歌い出した瞬間、空気が変わった。テレビの前にいたはずの私の腕に、鳥肌が立った。画面越しなのに、だ。労働者の母を思う歌詞が、技巧としてではなく、まるごとの人生として喉から溢れ出てくる。あれは「歌唱」ではなかった。あれは、記憶の再生だった。本人が本当に見てきた光景を、もう一度、目の前で生き直しているような迫力があった。
エディット・ピアフの「愛の讃歌」を原語のフランス語で唄う姿も、忘れられない。
日本人がシャンソンを唄うと、どうしても「模倣」の匂いが残ることが多い。
だが美輪明宏さんには、それがなかった。
パリの街角も、ピアフの人生も知らないはずの日本人が、なぜかピアフそのものになっていた。
技術で越えられる壁ではない。魂の解像度が違うのだ。
声優としての仕事も、同じ質だった。『もののけ姫』のモロの君の低く轟く声、『ハウルの動く城』の荒地の魔女の妖しさ——キャラクターに声を「当てる」仕事のはずなのに、逆だった。キャラクターの方が、美輪明宏という魂に「当てられて」いた。
数え上げればキリがない。メケメケも、シャンソンも、タンゴも。ジャンルを軽々と横断しながら、どの曲を唄っても「美輪明宏の歌」にしてしまう。それは声域の広さでも、技巧の高さでもない。もっと根源的な何か——歌う本人の人生の総量が、そのまま声になって出てくるという、稀有な現象だった。
神がかっている、とよく言う。
だが正確に言えば、逆だったのかもしれない。
神様が、あの人を通して唄っていたのだ。
第四章 唄えない歌がある
美輪明宏さんを悼むなら、当然、美輪明宏さんの曲を唄うべきではないか。
そう思わない人はいないだろう。
私自身も、最初はそう思っていた。
真っ先に浮かんだのは、やはり「ヨイトマケの唄」だった。あの紅白での衝撃を、自分の声でもう一度なぞりたい。そんな衝動が、確かにあった。
だが、唄えなかった。
歌詞の中に、煙草を吹かす情景が描かれている箇所がある。仕事の合間、息子が母を思い出しながらふっと一息つく、そんな場面だ。演技として唄うなら、誰にでもできる。声色を作り、仕草を思い浮かべ、それらしく歌えばいい。
しかし、私にはそれができない。
生まれてこの方、煙草を口にしたことが一度もない。あの匂いも、あの一服の重みも、私は知らない。
想像することはできる。
だが想像と真実の間には、天と地ほどの差がある。
奇妙な符合がある。ピーボ・ブライソンさんを悼んだ記事でも、私は「煙草を一切吸わない」と正直に書いた。あのときは、その一言が、思いがけない出会いへの扉を開いてくれた。
しかし今回は、同じ「吸わない」という事実が、
逆に扉を閉ざす側に回った。
知らないことを、知っているふりで唄う。それは技術的には可能でも、魂の部分で嘘になる。聴く人には分からなくても、唄う本人にだけは分かってしまう嘘だ。
そして私は、
その嘘を抱えたまま美輪明宏さんを弔いたくなかった。
追悼とは、
故人への手紙のようなものだと思っている。
手紙に嘘を書いて、届くはずがない。
心から納得できる歌でなければ、この人には届かない——そう直感していた。
では、何を唄えばいいのか。
ヨイトマケの唄を諦めた瞬間、次の答えが見つかるまでには、まだ数日を要することになる。
第五章 天から降りてきた曲名
数日、答えは見つからなかった。
美輪明宏さんという人の大きさに見合う曲を探して、頭の中で何十曲もの候補が浮かんでは消えていった。どれも違う。技術的には唄えても、心のどこかが「まだ足りない」と囁く。そんな堂々巡りが続いた。
そんな時、ふと、ある曲名が降りてきた。
「You Raise Me Up」。
正直に言えば、避けてきた曲だった。何度も挑戦しようと思い立っては、そのたびに引き返してきた。理由は単純だ。この曲を本気でやろうとすれば、途方もない時間と手間がかかることが、最初から目に見えていたからだ。大安縛りの動画の締め切りに追われる日々の中で、そんな大曲に手を出す余裕など、どこにもなかった。
だから避けた。いつも、避けてきた。
けれど今回だけは、違った。
「これしかない」という声が、どこか天から降りてくるような感覚があった。理屈ではない。説明もつかない。
ただ、美輪明宏さんを送るには、この曲以外に選択肢がないと、体の奥が確信していた。
頭の中には、すでに完成形のイメージが鳴っていた。讃美歌のような荘厳さ。天界から降りてくる声。神々が唄っているかのような響き。憧れのあのエンヤの音楽が持つ、一人の声が幾重にも重なり合って大聖堂を満たすような表現法。そして、ベートーヴェンの第九のような、圧倒的な合唱の厚み。
それを、たった一人で、DTMだけで作り上げる。
どれだけの時間がかかるか、想像もつかなかった。いや、想像してしまえば、きっと手が止まる。だからあえて、想像を止めた。
ダメ元でいい。届かなくてもいい。
そう腹を括った瞬間、長らく避け続けてきた曲が、ようやく自分のものになった気がした。
第六章 百人の自分と向き合う夜
覚悟を決めた翌日から、地獄のような、そして同時に至福のような作業が始まった。
一フレーズずつ、丁寧に唄っていく。録音しては重ね、また録音しては重ねる。地道な作業だ。三十回ほど声を重ねたあたりで、最初の壁にぶつかった。
三十人分の声を重ねたはずなのに、聴こえてくるのは、たった一人の声だった。
これはおかしい。エンヤの音楽は、なぜあれほど大勢の合唱に聴こえるのか。同じように重ねているはずなのに、こちらは分厚くならない。首をひねりながら、何度も聴き比べ、何度も録り直した。
同じ人間、同じ声、同じ呼吸——それをいくら重ねても、生まれるのは「一人」の影の集合でしかない。当たり前のことだった。大勢に聴こえるために必要なのは、数ではなく、違い。声質の違い。フォルマントの違い。音量の違い。リズムの揺れ方の違い。音程への乗り方の違い。微差の集積こそが、「群れ」という響きを生む。
そこからは、自分の中にいる別人格を、一人ずつ引っ張り出す作業になった。
ロックな男。荒々しく、リズムに突っ込みがちなオペラ歌手。逆にリズムが後乗りのオペラ歌手。繊細な男。伸びやかなソプラノの女性。野太い声の女性。思いつく限りのキャラクターを、片っ端から自分の喉に憑依させていった。
一人歌い終えるごとに、次の人格へ切り替える。声色を変え、呼吸を変え、時には性格そのものを変えて、また唄う。まるで、自分の中に眠っていた百人の他人と、一晩かけて一人ずつ対面していくような作業だった。
そうして重ねること、五十人あたり。
パソコンが、悲鳴を上げて固まった。
第七章 第九が鳴った瞬間
パソコンが固まった。当然だった。
人間の声を五十人分、それぞれ別人格として重ねているのだ。一つ一つのトラックが、独立した波形として存在している。データ量は膨れ上がる一方だった。重ね録りが、これほどまでにマシンへ負荷をかけるとは、正直、想定を超えていた。
このままでは、百人には到達できない。
そこで頼ったのが、DTMソフトに備わっているフリーズ機能だった。録音済みのトラックを一度音声として書き出し、演算の負荷を軽くする。これを駆使しながら、一人、また一人と、キャラクターを足していった。
ロックな男の声を足す。フリーズする。オペラ歌手の荒々しさを足す。フリーズする。ソプラノを足す。野太い女の声を足す。気づけば夜が明けかけていた。何度パソコンが悲鳴を上げても、諦めなかった。
そして、ついに百人に達した。
再生ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
流れてきた音を聴いた瞬間、声にならない声が漏れた。
第九だ。
あの、ベートーヴェンが病と孤独の果てに書き上げた、人類への讃歌。その圧倒的な合唱の厚みが、たった一人の人間の手によって、今、目の前に再現されていた。もう「一人の声」ではなかった。無数の魂が、同じ祈りに向かって束になっている。そんな響きだった。
そこに、主旋律を重ねる。
メインの歌声には、他の百人とはまったく違う質を与えたかった。男でもない、女でもない。性別という枠組みそのものを超えた、天使の声。優しく、それでいて芯からぶれない強さを持つ声。力強いのに、決して威圧しない声。
美輪明宏さんが、その生涯を通じて体現していた、あの境界のなさを、声だけで表現したかった。
唄い終えて、目を閉じた。
背後で百人が唄い、その真ん中を、境界を持たない一つの声が貫いていく。それは、技術の勝利ではなかった。祈りの完成だった。
第八章 想像では、唄えない。
完成したのは、大安ぎりぎりのことだった。
正直に告白する。今回だけは、間に合わないだろうと、途中で覚悟していた。百人の声を重ねるという、これまで避け続けてきた作業に手を出した時点で、無謀は承知だった。動画の編集も、SNSへの投稿文も、noteの執筆も、とても全部は間に合わない——そう腹をくくっていた。
それでも、なんとか形になった。
神様に助けられたのだろうか、と本気で思う。理屈では説明のつかない力が、最後の最後で背中を押してくれたような感覚があった。
完成した音を最初から最後まで聴き終えたとき、もうそれ以上、何も望むものはないと感じた。届くか届かないか、評価されるかされないか、そんなことはもうどうでもよかった。
「不可能だと思っていたことに、挑んだ」
という事実だけで、十分だった。
この挑戦をさせてくれたあの人に、感謝している。
そして、最後まで完成させてくれた何か大きな力に、感謝している。
思えば、この記事は「想像では、唄えない。」という一文から始まった。
ヨイトマケの唄を諦めた理由も、そこにあった。煙草を知らない自分が、煙草を知っているふりで唄うことはできなかった。想像で埋め合わせた歌は、どこまでいっても嘘の輪郭しか持たない。
けれど、You Raise Me Up を選んだあの瞬間、私は気づいていなかった真実にもう一つ出会うことになる。
想像では唄えないのなら、想像を超えるところまで、自分自身を連れていくしかない。
百人の人格を、実際に自分の中から引きずり出す。エンヤのような音を、頭の中の理想としてではなく、実際に耳で確かめられる音として作り上げる。それは、想像を諦めることではなく、想像を「現実」に変える作業だった。
唄えない歌があるということは、裏を返せば、唄うに値する歌があるということだ。
皆さんの中にも、きっとある。
「自分には無理だ」と、最初から線を引いてしまっていることが。
けれど、その線は、本当に越えられないものだろうか。
それとも、まだ本気で近づいたことがないだけの線だろうか。
叶わなくても構わない。
挑んだという事実だけが、後から静かに、
人生を支えてくれることがある。
美輪明宏さん。
あなたの唄えなかった歌の代わりに、
私は、あなたのために生きた声を、
百人分、あなたに届けます。
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