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メモ書き 言葉と実力行使/シェイクスピア「ヴェニスの商人」より

シャイロックは証文の文言、つまりは「言葉」を根拠に、「証文どおり」にアントニオの肉1ポンドを求める権利があるのだと言って法廷に登場する。

さて、その舞台たる法廷とは何か。言葉が君臨する最高度の場である。この場では誰もが言葉しか使えない。実力(vis)行使は絶対のご法度、もっとも嫌悪され禁圧されるべき事柄である(論証は省くが簡単に言えば、自由のため、「vis」の支配する世界を止めるために、人は政治を持ち、司法を持ち、つまりは公共空間を作ったのであり、visを用いずに、人が考えを示し、分かち合い、吟味し、進むべき方向を見出す方法には「言葉」を用いることしかないから)。

法にとって最も対立的な暴力……

キケロ『カエキーナ弁護論』(1) <翻訳>吉原達也,廣島法學,34巻4号,148-135[142]頁,2011年

暴力ほど法に反することはなく……

キケロ『カエキーナ弁護論』(2) <翻訳>吉原達也,廣島法學,35巻1号,106-91[103]頁,2011年

ところがシャイロックは、「言葉」を根拠に、なんと「実力」を法廷で行使しようとする。ナイフを研ぎ、アントニオの胸にその刃を迫らせる。

これを許せばもはや法の敗北である。言葉が君臨すべき場が、言葉(証文の文言)を根拠に、実力が自身を表現する舞台となってしまうからである。

……しかもまた、もしかくも立派な人々の権威によって、武装した者の暴力が、裁判において、実際、武器のことは吟味されず、文言だけが問題であると主張される裁判において是認されたと看做されるならば、誰もが財産も資産も占有も奪われてしまうになるのは誰の眼にも明らかなことではないだろうか?

キケロ『カエキーナ弁護論』(2) <翻訳>吉原達也,廣島法學,35巻1号,106-91[101]頁,2011年

すると、ポーシャを通じて「言葉」がアクロバティックに躍動する。言葉がシャイロックを裏切る、とみてもよい。「シャイロックよ、お前が大事に抱えるその記号のシニフィアンは、お前が独善的に思い描くシニフィエと結びついてはいないぞ。なぜか? 言葉は公共空間を飛び交うものであるがゆえに、そのシニフィエを限定されるからだ。どのように限定されるか、もちろん個人の、最後の一人の自由を守るために、という一方向にのみ限定される。忘れたか、ここは法廷である」




*ラテン語「vis」は英訳すると strength, force, power, might, violence である(Latin Dictionary)。だから「暴力」と訳してもよいが、するとすでに評価(この場合はマイナスの価値判断)が付着するので必ずしも相応しくない。他方で「実力」と訳すと、「大丈夫、君にはこの種の問題を解決できる実力があるから」という場合の、見せかけではない能力という意味も含むので、本当はこちらも必ずしも適訳ではない。ただ日本語でも、「実力行使」という場合の「実力」は、vis の意味合いに適合するようである。
*占有vs暴力の構造は、キケロ『カエキーナ弁護論』(前69 or 68年)がその古典的範型をなす。かつ、特示命令を巡る文言解釈に関連しているため、「ヴェニスの商人」の法廷場面への準拠点として最適である。
*「実力は定義上必ず集団の形成によって存在を得るのです」(木庭顕『笑うケースメソッドⅢ 現代日本刑事法の基礎を問う』209頁,勁草書房,2019年)。実力行使に動いたシャイロックは個人ではないのか?しかし違うと思う。シャイロックがアントニオに融資しその自由を縛る契機となった貸金は、シャイロックの自己資金ではなく、テュバルからシャイロックに融通されたものとみられる(シェイクスピア(安西徹雄訳)『ヴェニスの商人』32-33頁,光文社古典新訳文庫,2007年)。ならテュバルなくして本件はない。さらに重要な点は、シャイロックが法廷ないし司法を、自己の実力行使を基底的に支える力としていることである。これは、法廷ないし司法を、自己の力を何十倍にも増強させるため、あたかも集団力と見做しこれを利用している構造を意味するはずである(シャイロックは路上でアントニオの肉一ポンドを切り取ろうと襲い掛かったのではない、ということ)。なお、木庭・同書210頁の論理、すなわち、実力行使により占有側の「相手を服属せしめる集団形成行為をしている」と高度に思考すれば、当然シャイロックは集団形成行為をする集団側となる。
*ポーシャはなぜ自身の最終解釈を、シャイロックがナイフをもってアントニオの胸に迫るあの緊張の頂点まで示さないのか。劇的効果を高めるため、というのは真正の理由ではない。上記のとおり、法廷での実力行使、その現場を押さえるためである。言葉理念をシャイロックが破壊しようとしたその瞬間を、公的に環視させ、誰人も否定できない現実として示し切っておくためである。
*敗北したシャイロックは個人に戻る。法廷でポツンとしている光景である。しかもただの個人ではない。アントニオの建議などによって、掛け替えのないものを奪われていく個人である。抜柱される個人に、もはやその存立はない。
*「言葉」を用いていれば、常に実力 vis の支配のない世界が実現するのか。もちろんそうではない。言葉をまるでvisのように使うこともできるからだ。証文を握りしめるシャイロックが実はそうであった。さらには、敗れ去ったシャイロックにくらわせるアントニオの言葉の矢弾は、こうしたvisの要素を含み持ってはいないか。この場面を楽しむ観衆は、visの世界とよく親和する復讐心を満足させてはいないか。





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