『恩師・O先生』 第1話ー志賀直哉と九十五点の答案。麻布が教えてくれた「自分の言葉」の価値―
【新連載:知性の原点を辿る物語】
著者・宏樹さんの鋭くも温かい「言葉」は、一体どこで育まれたのか。
その答えは、中学一年生の時に出会った一人の教師にありました。
舞台は、自由な校風で知られる名門・麻布中学校。
教科書を捨て、いきなり志賀直哉の文庫本を配るという破格の授業。
当時、日常生活を淡々と描く大家の作風に
全く共感できなかった宏樹さんは、定期試験で
「支離滅裂な解答」を書いてしまいます。
しかし、返ってきた答案に記されていたのは、
予想だにしない高得点と、一言の講評でした。
入試での不思議な符号、そして父と交わした憲法を巡る対話。
「秀才」よりも「変則的であること」を尊ぶ学び舎で、
宏樹さんが手に入れた一生モノの教えとは。全2回でお届けします。
中学一年生の時、現代文の担当になられたO先生は、
黒縁の度の強い眼鏡をかけた、
重厚などちらかといえば教師というより
大学教授の風貌をたたえた先生だった。
一学期からいきなり教材に、志賀直哉を用いた。
文庫本を配ってそれを読むのである。
近代日本文学きっての大家、
美文・模範文の持ち主とされているからだろう。
「清兵衛と瓢箪」「小僧の神様」等々を読んだことが記憶に残っている。
だが、余り共感できなかった。
何故なら、その当時愛読していた
波乱万丈でスリリングな筋書のSF小説や推理小説と異なり、
日常生活を恬淡と描く手法になじめなかったからだ。
どだい、人によって相違はあるだろうが、
第二次性徴に到達していない性を知らない中学一年生にとっては、
自分の産みの親が
実の父でなく祖父と言われても腑に落ちないのである。
それでも、O先生の授業は上手だった。
普通、現代文の授業は退屈なものと相場が決まっているが、
小野寺先生の示唆は的確で蘊蓄に富んでいた。
私は、よく指名された。
何でかとこちらが不思議に思うほど指名された。
もともと、はにかみやのうえに、共感できない作品であるから、
そのたびにしどろもどろ返答していた。
いよいよ、学年末の定期試験になった。
志賀直哉の小説を読んで自由に感想を書くという課題である。
志賀直哉の作品に辟易していたから、
自分勝手で支離滅裂な作文を書いた。
赤点でもいいやぐらいな気持ちだった。
ところが、返却された答案を見て、驚愕した。
なんと九十五点だったのである。
どうしてあんな滅茶苦茶な答案がこんな高得点を獲得できたか、
摩訶不思議な気持ちになった私は、
先生の講評を読んでみた。
そこには、
「自分の言葉を用いて自分で考えて書いている」
と記してあった。
私は、麻布の現代文は、
明晰で端正な首尾一貫性ある作文を書く秀才よりも、
少し変わった変則的な作文を書く生徒を珍重するのだなと
その時悟った。
それとともに、私が頻繁に指名される謎も解けた。
麻布の入学試験を終えたときは、
合格しているか、からっきし自信がなかった。
一応、進学塾の模擬試験では、合格ラインをクリアしていたが、
絶対安全圏とはいえなかった。
私が麻布を選択したのも、
中学御三家(開成・麻布・武蔵)のなかで一番合格ラインが低く、
おまけに麻布の入学試験は正攻法でなく、変則的であったからだ。
入試日が違う国立中学は
学区制の関係で受験できなかった。
最初の試験科目は国語だった。
ここで、妙な符号が起こった。
最後の問題で、長文の物語を読んで、
三百字で感想を書けという設問に、
句読点合わせてぴったり三百字で収まったからだ。
おかげで苦手としていた次の試験科目、算数に
気を良くして臨むことができた。
試験が終了したときの感想は、
大成功もないけれども、
大失敗もないなというものだった。
たまたま、父に社会の設問に関して訊かれた。
今でも記憶に残っているけれども、
社会の設問の一つに
「検閲は憲法上禁止されていますが、その理由を述べなさい」
というのがあった。
私は、父に自分の解答を述べた。
父は私立大学の法学部の出身だった。
法律にはそれなりに自信を持っていた。
父は、それを聞くと
「宏樹、それで良いのだ。もしかしたら、受かっているかもしれないぞ」
と嬉しそうに言った。
試験には、かろうじて合格していた。
だいたい試験に合格するときは、
妙な偶然な符号が一致することが多々ある。
私の場合は、国語の設問で句読点合わせて、
三百字に収まったのがそれかなと思う。
【次回予告:最終回】
志賀直哉を愛し、宮沢賢治を蔑視する(?)風変わりな恩師との日々。
二学期、再び文庫本を手に始まった授業で、
宏樹さんはまたもや頻繁に指名されることに。
早すぎる別れと、その後に訪れた文学への目覚め。
今も宏樹さんの筆を支える、大切な「薫陶」の正体が明かされます。
