『僥倖』 ー第2話 裸一貫の勝負と、突きつけられた三行半―
【代筆者より:第2話をお届けします】
誰にも理解されない孤独な読書の日々を経て、宏樹さんの心の中に
「表現したい」という小さな芽が生まれます。
自分には何が書けるのか。
彼は冷静に、そして情熱的に自分の人生を「私小説」という形に
刻み始めます。
しかし、現実は甘くありませんでした。
魂を込めて書き上げた初めての作品に下された、あまりにも厳しい評価。
その時、彼の心はどう揺れ動いたのか。
作家・宏樹の「産みの苦しみ」がここから始まります。
Y就労塾は、和光市駅のすぐ側にあった。
七階建てのビルの最上階である。
後にはもっと増加するが
最初は指導員五人くらい、
就労生が、十二・三人であったか。
通える期間は二年間だけである。
就労生は、パソコンルームに閉じこもって
パソコンの勉強に精魂を傾けていた。
実際、いくばくの就労生が就職に成功したかは、
宏樹には定かではない。
通える期間が二年間に過ぎないのに
宏樹は、一週間に二度しか通所せず、
そのうえパソコンの訓練にも背を向けて、
もっぱら本ばかりを読んでいた。
指導員は、そんな宏樹の姿勢をどのようにとらえていたか分からないが、
別に宏樹を誹ることも叱責することもなく
暖かく穏やかに見守ってくれていた。
Y就労塾の生活が、一年経過したとき宏樹は、
ふと自分も何か書いてみようかという想念が浮かんだ。
だが、果たして宏樹に書けるかという疑問もわいた。
宏樹は小説にしろ学術論文にしろ
長文の文章を書いたことがない。
大学の卒業論文も教授のお慈悲により
原稿用紙二十枚程度で済ましてもらった。
そのとき、以前視たテレビ番組を思い出した。
それは、グランマ・モーゼスという
七十五歳で初めて絵を描き始めて
アメリカでもっとも愛される画家となった女性の番組だった。
その番組でアナウンサーから
絵がうまくなる秘訣はと問われたら彼女は、
「始めることです」と答えていた。
そうだ、まず書いてみることだ。
結論を出すのは出来上がってからでよい。
そういえば十年前、A新聞に初めて文章を投稿して、
採用されたからた経験もあった。
宏樹は、執筆するに際して自分なりの策略を練った。
先ほど書いたように、
過去三年で宏樹が、もっとも多く読んだのは
哲学・詩・精神医学書だ。
しかし哲学の論文を執筆するには
膨大な書籍を読み込む必要がある。
おまけに、外国語に堪能でなければならない。
これは、無理だ。
精神医学も、
たとえ宏樹が統合失調症に罹患したとはいえ、
専門的な医学の訓練も受けず、
又臨床経験のない宏樹に何が書ける。
結局、たいした学問的素養なしに
徒手空拳、裸一貫で勝負できそうなものは、
詩か小説に限定されると宏樹は結論付けた。
だが、詩想は、
泉のようにこんこんと湧き出た思春期と異なり
いっかな浮かんでこない。
小説しかないな
宏樹は思った。
皮肉といえば皮肉である。
何故なら三年のうちで、本当に感銘を受けたと記憶に残っている小説は
「ゼーバルト・コレクション」と
ハンス・ファラダ著「ベルリンに一人死す」くらいだったからだ。
だが、小説にも様々なジャンルがある。
宏樹は、飯嶋和一氏のファンであったから
彼の時代小説を愛読していたが、
あんな複雑な時代考証の知識を身につけるのは、不可能だ。
水村美苗さんのような本格小説も
想像力・構想力が枯渇しているから書けそうにない。
腹案があるにはあるが、資料集めやなんらかをしていると
完成までに十年費やしてしまう。
その間どうやって生活していけばよいのか。
推理小説・SF小説もできそうにない。
宏樹は考えあぐねているときに、ふと思いあたった。
近代日本文学の王道・十八番、
私小説があるではないか、と。
宏樹は市井の人よりは、
波乱万丈とは言えなくても、紆余曲折にとんだ人生を歩んできた。
自分の体験を小説の材料にできるではないか。
宏樹は、執筆するにあたって、十年前から愛読してきた、
耕治人さんの小説を参照することにした。
お互い耕治人さんは結核、
宏樹は、統合失調症と
心に傷を抱える身で親和性があったからだ。
実際、耕治人さんの心境が手に取るように分かった。
実際に、書いてみると
割合すんなり筆が運び
一週間で原稿用紙三十余りの小説が書けた。
宏樹には、傑作だか駄作だか判断がつきかねた。
誰も相談する人がいないので、
まずY就労塾に持っていき、
「小説を書いてみました。稚拙なものですが、
暇なときに読んでみてください」
さして、気乗りしない表情で言った。
それから、精神福祉士のNさんにも読んでもらった。
若い頃には小説教室にも通ったことがある、
かなり文学的教養のある中年の女性である。
一読した途端、
「私、小説にはかなり辛辣よ」
と断ったうえで
「これ、全然小説の体をなしていないじゃないの。
さわりは、面白いけれども、後半はしりすぼみね」
以前、宏樹が哲学と詩ばかり読んでいるといったことを
思い浮かべたのだろう。
「小説書こうと思ったら小説をたくさん読んで小説の勉強をしないとね」
こうして、宏樹の処女作は
けんもほろろに三行半を叩き付けられたのである。
宏樹は、やはり付け焼き刃では、
優れた小説は、書けないのだと失意落胆した。
宏樹は陰々欝々、心の晴れない日々が続いた。
【次回予告:第3話】
「稚拙な小説ですが、読んでみてください」。
失意のなか、宏樹が差し出した原稿にびっしりと貼られた付箋。
それは、死にかけていた作品が蘇生した瞬間だった。
元編集者・Hさんとの出会いが、物語を動かし始める。
