【書評】死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。浦出美緒 (SB新書)2025年
本書は作者の浦出美緒氏本人から受け取った。出版塾として通っている「ウェブ心理塾」(樺沢紫苑先生主催)の会に参加した際に、二次会で出会ったのである。
ちょうど浦出氏がこの本を出版したばかりであり、SNSの友人のタイムラインで本書のことは知っていた。タイトルに強い興味があったので、本人に「本ください」と言ったらちょうど手持ちがあったようで、いただくことができた。このたび読了しましたので書評いたします。
作者について
浦出氏はタナトフォビア(死恐怖症)、タナトフォビア協会代表で、訪問看護師、大学講師。
本書は中山祐次郎(医師)、橋爪大三郎(宗教学者)、渡辺正峰(脳科学者)、森岡正博(哲学者)、貴志祐介(小説家)に、死と死の恐怖をインタビューする形式でまとめられている。
書評
本書を手に取った動機
タイトルに興味を惹かれたのは、非常に不思議に感じたからだ。「死が怖い」というのは言ってしまえば当たり前で、誰でも怖いし、誰でも死ぬ。子どもならまだしも、社会人なら誰しもそこには一定の折り合いをつけて生きているのであり、日々悶々と考えていては生活が成り立たないのである。ほとんどの人は、死について日常で考えることなく生きているはずだ。
そして、本書でも説明があるが、「タナトフォビア(死恐怖症)」という症状は医学的には定義されていない。著者によれば「突然、死んで無になることの強い恐怖が襲ってくる」のだという。お風呂の中やなる前など、リラックスしている時が多いようだ。そして語源はフロイトであるとのことだが、確かな記録はない。すなわちタナトフォビアは現代科学では、自称であるということである。
医学的に病名がなければ、病気とはみなされないので、ただ単に「死の不安を強く感じる傾向がある人」というわけだ。本書に出てくる有識者らも、浦出氏の訴えに関して、たくさんの質問を浴びせている。どう感じるんですか?どういう症状ですか?
タナトフォビアが医学的に定義されていない以上、人より不安を感じやすいだけと判断せざるを得ない。もし生活に支障があるなら、抗うつ剤を処方してもらう、というのが現代医学での解決方法であるというのが、インタビュイーの先生方の見解だ。
私も本書のタイトルをみた時、上記のように思った。「怖い」というのは個人の感情であり、定量化、定性化できず、再現性もないため科学の対象ではない。脳内の扁桃核が過敏に反応している化学物質の量的問題である。すなわち感じ方の個体差なんだから、そんなに辛ければ抗うつ剤を打てば解決するのではないですか、ということ。冷たいようだが現代医学も科学も、システマチックなのである。
浦出氏の症状と先生方の見解
浦出氏の言葉の中に、「意識が無になることの恐怖」が語られているが、科学的には死後のことは観察できないという理由で研究対象でないため、どんなに高名な学者と言えども知りようがないのが実情である。いくら研究を重ねても答えは出ないので、どこかで区切り(折り合い)をつけて、別のこと、いわゆる仕事や生活に脳のリソースを割くべきであるのが、一般的(かどうかわからないが)ルートである。
インタビュイーの先生方も同じ見解で、遠い将来死ぬこと、無になることを前提で、現在にたくさんのもの(生きた証、社会貢献、子孫など)を残していこうとするのが人間である、という共通の認識がある。もちろん宗教観などにより違いはあるのだけど、一人一人の日々の行動は大きく変わらない。
中山祐次郎医師は後世のために小説を残したいといい、渡辺正峰先生は意識の根源を解明する自身の研究計画の話をする。
森岡先生はそもそも自分など存在しないと仏教的視点を提示する。意識というのは、実は存在しない。あるような気がしているだけだ。
そして橋爪大三郎先生は著者のことを、「科学で分析できないことを考えすぎている」とつれない。
それでも先生方は皆丁寧に、専門的観点からタナトフォビアについて浦出氏に様々な知識と経験、アドバイスをつたえ、答えの難しい問いに対してあるいは導き、あるいは一緒に考えていく。
死に対する私の見解
なお私もインタビュイーの先生方らと同じ見解である。私を含め、人間はいつか死ぬ。その時のために人類の力である科学を一歩でも前に進め、最大限貢献して満足しながら(満足するか不明だが)死んでいこう、とおもって、日々を過ごしているのである。
「何のために生きているのか」に折り合いをつけた私なりの答えであり、現在まで変わっていないし、程度の差はあれ、おおむね他人もそんな感じだろうと思って生きてきたのである。
記憶を掘り起こすと、本件に関連する最も古い記憶は私が11歳の時のファイナルファンタジーIVである。吟遊詩人ギルバートの死別した恋人アンナの魂が別の場所?にいくときに、「私はそろそろ行かなければ…大きな魂と一つになるために…」というのである。

人が死んで役割を終えることは、個別の生命の視点ではなく、「生命現象そのものを作っている大きな何か」に包まれていくのである、その時意識(とされるもの)もなくなり、現在の生命との意思疎通はできなくなる(観察できなくなる)のである、という意味とを感じ取った。
11歳のころまでには「生きる意味」を考えることも多くなって、自分でこれに近しい答えを出していた。そして、「ああ、スクエア社の人も同じことを考えているんだな。だからこういう風にゲームの中にも盛り込んだのかな」と思ったので、以来、人間はみんなこういう考えをもっていきているだろう、と疑ったことはなく、45歳まで生きて来たのである。
したがって本書のタイトルと概要から、以下の3点に着目しながら、本書を読み進めた。
・浦出氏のいうタナトフォビアとは、一般的な死の恐怖と何が違うのか。浦出氏が過敏なだけではないのだろうか。
・浦出氏は人類に貢献して死ぬということに意義を感じないのか。だとしたらそれはなぜか。
・諸先生方の見解から、死と生、人生の意義について、私の行動が変わるようなアップデートがあるのか。
5人のインタビュイーとの対話
第1章 予習する人 中山祐次郎 外科医、作家
中山氏は外科医で作家、「泣くな研修医」(幻冬舎)などでシリーズ70万部のベストセラーが知られる。
多くの末期患者をみとってきた経験から、死期が近づいた患者や家族、痛みなどへの知識が深い。自身の経験から、死に対面する人々にどのような傾向があるかを浦出氏に話していた。死を予習し、考えるきっかけを作っておくことが大切という。
対話の中で「無になることの恐怖」と「医学的な処方」がかみ合っていないことを再確認し、極論抗うつ剤になってしまうとしながらも、死はあなたのものではない、とし、死への恐怖は、ガソリンのようなもの、と前向きにとらえることを語っていた。
第2章 共に怖がる人 橋爪大三郎 宗教社会学者
「死は、目にみえるか?」という言葉から対話が始まる。観察できない。観察できないから科学の対象ではない、ということ。他者の死から自分の死を理解しようとする浦出氏に、それは類推であるとし、「この私」だけは例外であることをつたえる。探し回っても答えはなく、考えることをやめた時に、一歩正解に近づくことができる。
無になりたくないという浦出氏に、では永遠の命は欲しいか、「無にならないことの方がきつい」両方怖いじゃないか、とする。1+1=2じゃないんだから、答えは出ない。自身で解決すること。
「5歳くらいになると、生きるとは何か、死ぬとは何か、時折考えるようになる。ずーっと怖いと言っているひとを、タナトフォビアというんじゃない?」「一つの人間として、自分が死ぬことを理解していないことは、根源的欠陥ですよ」と断じる。
ここから宗教、そしてさらに歴史の古い葬儀の話にうつり、日本での仏教の成り立ちに話が及ぶ。最後に結ばれる言葉は、「正しく生きるってことは、この人間社会の中で、みんなに承認されて生きていくこと。」
そしてタナトフォビアにこだわっている人へのメッセージとして、「考えすぎており、また考えていなさすぎ。」、「感じすぎていて、また感じていなさすぎ。」という。
*私には先生の言葉の真意はわかりかねるが、医療倫理や死後の超越ばかり勉強するのではなく、宗教、哲学ほか、現代科学に関して不勉強が必要、そして死の怖さばかりを強く感じていて、多くの人が感じる生命の一体感や人類愛と言われるものが感じ取れていない、という意味だろう、と勝手に解釈した。
ただ、最後には「普通、死について考えないようにする、忘れようとする。それを、私のところまできて話を聞きたいという、とても偉いです。」と結ばれ、浦出氏も宝物のような一日だ、と感動している。
私も偉いと思う。この本は浦出氏の行動がなかったら、世に無かった本である。
第3章 希望の人 渡辺正峰 神経科学者
渡辺正峰氏は神経学者。著作に「脳の意識 機械の意識 神経科学者の挑戦」(中公新書)など多数。
fMRIや脳切除マウスの話から始まり、クオリア(主観的な体験)の話におよぶ。意識は一つではなく、集合体であるという。すべての脳機能に個別のクオリアがあり、疾患により恐怖などのクオリアが発現しないなどの例もあるという。
話は瞑想に及ぶ。瞑想中に、OS(パソコンでいうオペレーションシステム)のようなものを感じるときがあるという。10分ほど無になれるのだが、何かOS的なものが走っているのを感じる。臓器など機能とは別に、OSがあるようで、それが根本的な何かではないか。(生命のアルゴリズムのようなものだろうか。)
科学的に間違いなく言えるのは、人は睡眠中に夢を見るということ。外部からの入力に関係なく世界を成立させることができる証拠だ。これは他の生物にもみられ、脳の高次からの下りの神経ネットワークががあり、仮想世界を作るのであれば、意識はある、ということ。
ここで話はデジタル不死に及ぶ。機械の脳半球に見立てた人工意識と、マウスやサルをつなげることでテストできる。(すでにルートは見えていて、20年ほどで、300億円の研究費が必要)
浦出氏は自分の意識がバックアップできれば、タナトフォビアを解消する一つの解決策になると期待していたが、実際に現実的になれば、アップロード後の信ぴょう性や規制、ハードやクラウド、実施する事業社の信頼性などの話になることに気づく。自殺の容認など法整備も想定され、かなり込み入った話になりそうである。
そして橋爪先生からの「永遠に無になる恐怖、無になれない恐怖」のお話をいただいた後は、少し慎重な論調となっているようだ。
第4章 対峙する人 森岡正博 哲学者
森岡正博先生は哲学者。著書多数。「私の死」を見つめた研究で知られる。
小学校高学年の時に、急に「私の死」について考えることになった。きっかけは特にない。「観念」が降ってきたということだろう。以来、「我々は多かれ少なかれ、中間に生きているとしか言えない」という境地にたどり着く。
タナトフォビアのような突然の死の恐怖に対する見解の一つとして、怖いのは死や永遠の無ではなく、「移行」ではないかとする。浦出氏によれば「究極の予期不安」である。有から無への動きの中に、恐怖のすみかがありそう。ただし、研究を続けてもタナトフォビアの解決にはつながらない。解決にはやはり脳領域を麻痺させる、投薬ということになるだろう。
話はニーチェやハイデガーに及ぶ。しかし、彼らは哲学者であり、死の恐怖はあまり語っていない。感情は「心理学」の領域であり、素早く通り過ぎる。
著書「無痛文明論」の中に、死にゆくことを肯定的にとらえる考え方があるという。浦出氏は死に喜びを見出すことは可能なのでしょうか、と質問する。
これに対し森岡氏は、現代人は奪われる、壊れるということがマイナスだ、ということが前提の文明の中に生きているので、洗脳されている、という。過去に起きたことは、良いことも悪いことも含め、全部保存される。「善悪の彼岸(ニーチェ)」によれば、全も悪も超えたところにあるのが、超人である。そして原始仏教からすると、タナトフォビアは迷いの他にない。ないものを怖がっている。
脱宗教家が進んでいる社会ほど、タナトフォビアで苦しんでいる人が多い。現在は死後の世界への答えが、宙ぶらりんになっている。
最後に、無条件の愛について語っている。地球上のどこかでひどい犯罪が行われていることの存在すら、いとおしいという感覚に到達しているはず。無条件の愛を体現できる人は、逆にだれも愛していないように見えると思う。とまとめている。
第5章 超越する人 貴志祐介 作家
貴志祐介氏は作家。代表作に「新世界より」、「悪の教典」など。
タナトフォビアとそうでない人との違いは、親子関係かもしれない、と仮定する。浦出氏も生まれたばかりの弟を寝かしつける母の背中を見ていた、とき、死に恐怖を感じることがあったという。森岡氏も自己同一性の問題があるかもしれない、と言っていた。
貴志氏から得られる言葉は「以下に意味のある人生を送るか」「存在し続けるものを残す。子供や書物など」「100年くらいたって誰かが読んでくるかもしれない」「手に及ぶ範囲、例えば温暖化などの問題を考える」という、現実的なアプローチが提示される。
他者は自分かもしれない、という考え方について、提示される。人の死は自分の過去であり、未来でもある。人間の同一性は記憶と身体で担保されるので、これが消えた輪廻転生の世界では過去生も未来生もない。浦出氏はこれを壮大な人類愛みたいだと感じる。貴志氏はみんな同じ人間にたいして冷たすぎる、どんどん利己的になって、不必要なほど富をため込んでいる、と返す。
話は物語の作り方について。貴志氏ははじめに入念なプロットを書いてから書き始めるが、物語が進み、勝手に動き出したら止められない。そして自分の心の中に潜っていくと、こんなものがあったのか、と思うことがある。浦出氏は科学的に真実に迫る還元主義的アプローチだけでは不十分で、意味論的アプローチが必要なのだ、と理解する。
最後に、ユーモアというのは、不屈の勇気の裏返しでもある。という言葉が印象的だった。*ちなみに、私のギルバートのくだりも、そんな感じで入れてみたのかもしれない。
終章 生きる人
終わってみれば、この本にあるインタビューを終えるころには、浦出氏は死の恐怖はまだあるものの、「私は、死が怖いから私だ」「タナトフォビアな私と、タナトフォビアでない私を選べと言われたら、一も二もなくタナトフォビアな私を選ぶだろう」と自認するに到っており、彼女自身の自己実現、社会における存在意義を確認することができるようになっていた。
少なくとも、この書籍はしばらくこの世に残り、たくさんの人が読んで何かの影響をうける。私もその一人である。したがって、後世に残すものを作った、という事実は、人類社会を前進させることが人間の生きる意味のひとつ、という文脈においては、死に折り合いをつけながら生きている人々、すなわち我々と同じ世界にいるのである。
科学研究だけが人類を発展させるのではない。死が不安だと言って有識者にインタビューに行って本をまとめ、多くの人に死の再認識をせまるのも、有意な人類の営みなのである。おいしいブドウを育ててみんなを喜ばせたり、半導体の洗浄方法を考えたり、目が良くなる方法を開発して世間様に広めるのも同じだ。
この社会から評価され、書籍の重版を実現できた浦出氏に、なかなか良い本でしたよと言いたい。多分また会えるので言おうと思う。
本書は対話形式で読みやすく、浦出氏の疑問と諸先生方の丁寧な説明からなり、素晴らしい価値を持つ一冊です。タナトフォビアでない人でも楽しく短い時間で読めます。
死の意味、人生の意味について再考したい方はぜひ手に取っていただきたいと思います。
私の生死感をもう一度言語化したかったので、長文の書評になってしましましたが、これも誰かが読んでくれたらいいなあ、と思いながら書きました。
いかがでしたか?ギルバートのくだり、懐かしかったよ!という方はスキ押してくださると幸いです。
