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ロスチャイルド家とイスラエル建国~バルフォア宣言から現代まで



はじめに

1917年11月2日、英国の外務大臣アーサー・バルフォアは、ロンドンの英国系ユダヤ人社会の指導者であるウォルター・ロスチャイルド(第二代ロスチャイルド男爵)に宛てて、一通の手紙を送りました。その手紙はわずか67語の英語で書かれていましたが、中東の運命を根底から変える歴史的な文書となりました。これが「バルフォア宣言」と呼ばれるものです。

この宣言において英国政府は、「パレスチナにユダヤ人のためのナショナル・ホーム(民族的郷土)を設立することを好意的に見ている」と表明しました。同時に、「パレスチナの既存の非ユダヤ人コミュニティの市民的・宗教的権利を損なうようなことは行わないよう最善を尽くす」という留保条件も付け加えられました。しかしこの留保は、現実の歴史においてほとんど顧みられることなく、その後の百年にわたる中東紛争の土台が敷かれることになりました。

宣言の名宛人がロスチャイルド男爵であったことは、単なる形式上の問題ではありません。ロスチャイルド家は19世紀以来、欧州金融史において最も強大な影響力を持つユダヤ系一族として知られており、シオニズム(ユダヤ人国家建設運動)と深く関わってきた歴史があります。仏国系のエドモン・ド・ロスチャイルド男爵は、19世紀末から20世紀初頭にかけてパレスチナへのユダヤ人入植を資金面で支援し、その後もロスチャイルド家はイスラエル建国に向けた様々なプロセスに関与し続けました。

一方で、インターネット上には「ロスチャイルド家が世界を支配している」「イスラエルはロスチャイルド家が作り上げた国家である」といった陰謀論が今日も広く流布しています。これらの言説の多くは反ユダヤ主義と深く結びついており、歴史的事実とは大きくかけ離れたものです。しかし、そうした言説を一蹴するだけでは不十分です。なぜなら、ロスチャイルド家が確かにシオニズムと関わりを持ち、バルフォア宣言の形成にも影響を与えたことは歴史的事実だからです。事実と虚構を丁寧に仕分けすることが、この問題を考える上での出発点となります。

本稿では、ロスチャイルド家の歴史的背景から始まり、シオニズム運動の誕生、バルフォア宣言の政治的文脈、英国委任統治時代の展開、そしてイスラエル建国後の現代にいたるまでを、できる限り多角的な視点から検証します。その上で、ロスチャイルド家をめぐる陰謀論の構造と、それが現代においても持つ危険性についても論じます。

本稿は学術論文ではありませんが、ロスチャイルド・アーカイブ、英国議会記録、国連文書、各国の研究者による著作など、できる限り一次資料・信頼性の高い資料に依拠して記述します。参考資料は文末にまとめて掲載します。

第一章 ロスチャイルド家とは何か

1. 欧州金融史に刻まれた一族の台頭

ロスチャイルド家の歴史は、18世紀後半のドイツ・フランクフルトに始まります。一族の創始者マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744〜1812年)は、フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で生まれ、古銭商・両替商として財を成しました。当初は地方の有力者や貴族に金融サービスを提供していましたが、ナポレオン戦争(1803〜1815年)という欧州規模の大混乱を巧みに利用し、複数の国家政府に対して資金を提供する国際的金融業者へと成長しました。

マイヤーの最大の戦略は、5人の息子をそれぞれ欧州の主要都市に配置したことです。長男アムシェルはフランクフルト、次男ザロモンはウィーン、三男ネイサンはロンドン、四男カールはナポリ、五男ジェームズはパリに本拠を構えました。この五都市ネットワークにより、ロスチャイルド家は国際間の資金移動・情報伝達において他の金融業者には不可能なスピードと規模を実現しました。国境を越えて手形を振り出し、各地の兄弟が互いの信用を保証し合うこの仕組みは、当時の欧州金融において革命的なものでした。

19世紀を通じて、ロスチャイルド家は欧州各国の国債引き受け、鉄道建設への融資、金・銀の取引など、当時の主要な経済活動のほぼ全てに関与しました。1875年にはロンドンのネイサンの孫にあたるライオネル・ド・ロスチャイルドが、英国政府によるスエズ運河会社株式取得(当時約400万ポンド)に際して資金を提供したことは特に有名です。グラッドストン首相の政権下で議会の承認を待たずに英国がスエズ運河の支配権を確保するための橋渡し役を、ロスチャイルド家が担ったのです。

20世紀に入ると、ロスチャイルド家の金融的影響力は以前ほど突出したものではなくなっていきます。欧州各国で中央銀行制度が整備され、国際金融市場が拡大するにつれて、一族の相対的な地位は低下しました。また、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストは、欧州のユダヤ系金融一族に壊滅的な打撃を与えました。フランクフルト、ウィーン、ナポリの各支店は実質的に消滅し、残ったのは主にロンドン(英国系)とパリ(仏国系)の二大支流でした。

それでもロスチャイルド家は、20世紀後半から21世紀にかけても国際金融・投資の世界において無視できない存在であり続けました。ロスチャイルド・アンド・カンパニー(現・ロスチャイルド&コー)はM&A(企業合併・買収)の助言や資産運用において欧州有数の独立系投資銀行として活動しており、その名声は現在も失われていません。

2. 英国系と仏国系:二大支流の特徴

ロスチャイルド家の五つの支部のうち、現代に至るまで最も大きな影響を持ち続けたのは英国系(ロンドン)と仏国系(パリ)の二大支流です。この二つはしばしば協力関係にありながらも、それぞれ独自の文化的・政治的アイデンティティを持っていました。

英国系ロスチャイルド家は、創業者マイヤーの三男ネイサン・マイヤー・ロスチャイルド(1777〜1836年)がロンドンに設立した支部を起源とします。ネイサンはナポレオン戦争時代に英国政府の資金調達を支援し、ウェリントン公のスペイン遠征軍への送金に重要な役割を果たしました。英国系の一族は19世紀を通じて英国社会に深く根ざし、1858年にはライオネル・ド・ロスチャイルドが英国議会(庶民院)に入議した最初のユダヤ人議員となりました。1885年にはネイサンの孫ネイサン・メイヤー(ナット)が英国初のユダヤ人貴族として初代ロスチャイルド男爵の称号を授与され、上院(貴族院)議員となりました。

この英国系ロスチャイルド家の当主であった第一代男爵ネイサン・メイヤー(1840〜1915年)は、シオニズムに対して慎重な姿勢を保っていました。ユダヤ人がパレスチナに「民族的郷土」を求めることよりも、英国社会における同化と市民権の確立を重視していたのです。彼は1915年3月に没し、その爵位は息子のウォルター(1868〜1937年)に受け継がれました。この第二代男爵ウォルターこそが、バルフォア宣言の名宛人となった人物です。

一方、仏国系ロスチャイルド家はパリを拠点とし、フランスの政治・文化・経済に深く関与しました。マイヤーの五男ジェームズ(1792〜1868年)が確立したこの支部は、フランスの鉄道網の整備に多大な資金を提供したことで知られています。仏国系一族の中で、イスラエル建国の歴史において最も重要な役割を果たしたのが、エドモン・ジェームズ・ド・ロスチャイルド(1845〜1934年)です。「パレスチナ入植の父」とも呼ばれる彼については、第五章で詳しく論じます。

英国系と仏国系は宗教的・文化的観点でも若干の違いがありました。英国系がより英国社会に同化したアングロ=ユダヤ的アイデンティティを持っていたのに対し、仏国系はフランス文化に根ざしながらも、パレスチナのユダヤ人入植支援という独自の使命感を持っていました。この違いが、後のシオニズムに対する両支流の異なるアプローチとなって現れます。

3. フィランソロピーの伝統とユダヤ人社会への関与

ロスチャイルド家は古くから慈善活動・フィランソロピーを一族の重要な使命と捉えてきました。これはユダヤ教の伝統である「ツェダカー(tzedakah)」、すなわち正義・公正に基づく慈善の精神に根ざしています。ロスチャイルド家の慈善活動は単なる寄付にとどまらず、病院・学校・住宅・文化施設の建設や、科学研究・芸術への支援など幅広い分野に及びました。

英国系ロスチャイルド家は、ロンドンのイーストエンドに暮らす貧しいユダヤ系移民(主にロシア帝国のポグロムを逃れてきた人々)の生活支援に力を入れました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、東欧・ロシアからの大量の移民が英国に到着しており、彼らの住宅・医療・教育を支援するための施設が次々と設立されました。

仏国系のエドモン・ド・ロスチャイルドもまた、パレスチナのユダヤ人入植農村(モシャヴァ)への資金援助を通じて大規模な慈善活動を展開しました。彼は1882年から1900年にかけて個人として推定600万フランを超える資金をパレスチナのユダヤ人農村の維持・開発に投じ、農業・産業・インフラの整備を直接支援しました。その際、エドモンは単に資金を提供するだけでなく、専門家(農業指導員・医師・教師)を派遣し、入植地を詳細に管理しました。

また、エドモン・ド・ロスチャイルドはフランスでアンスティチュ・アンリ・ポアンカレ(数学研究所)をはじめとする科学研究機関の設立を支援し、ルーヴル美術館には4万枚を超える版画・素描・挿絵本を寄贈したことでも知られています。

現代においても、エドモン・ド・ロスチャイルド財団(EDRF)、エドモン・ド・ロスチャイルド財団(イスラエル)、ロスチャイルド財団(欧州)などの組織を通じて、ロスチャイルド家の慈善的伝統は受け継がれています。これらの財団は教育・文化・科学・農業・医療・地域開発など多岐にわたる分野で活動しており、単なる「銀行一族」というイメージをはるかに超えた存在であることを示しています。

第二章 シオニズムの誕生と「ユダヤ人問題」

1. 19世紀欧州の反ユダヤ主義とポグロム

シオニズムを理解するためには、まず19世紀の欧州におけるユダヤ人の置かれた状況を把握することが不可欠です。表面的には「啓蒙主義」「自由主義」「近代国民国家の形成」が進む時代でしたが、その裏側でユダヤ人に対する組織的な迫害と差別が拡大していったのが19世紀欧州の実態でした。

フランス革命(1789年)以降、フランスをはじめとする西欧諸国でユダヤ人の法的解放(エマンシパシオン)が進み、彼らは市民権を取得し、職業選択の自由を得るようになりました。しかし法的平等が実現したからといって、社会的偏見や差別感情が消えたわけではありませんでした。むしろ、ユダヤ人が社会的・経済的に台頭するにつれて、彼らに対する嫉妬や敵意が新たな形を取り始めました。

特に深刻だったのは、ロシア帝国の支配下にあった東欧・中東欧のユダヤ人の状況です。ロシア帝国では「居住区(ペイル・オブ・セトルメント)」と呼ばれる指定地域内にのみユダヤ人の居住が許され、教育・職業・移動の自由が厳しく制限されていました。そして1881年から1884年にかけて、ロシア帝国各地でユダヤ人に対する大規模な集団虐殺・略奪事件(ポグロム)が相次ぎました。このポグロムの波は、1882年に制定された「五月法」(ユダヤ人に対する新たな差別的法律)の施行によってさらに激化しました。

1881年から1914年にかけて、約200万人のユダヤ人がロシア帝国・東欧から西欧・北米へと移住したと言われています。この大規模な移民の流れは、受け入れ側の社会においても「ユダヤ人問題」として議論を引き起こしました。英国では1905年に「外国人法(Aliens Act)」が制定され、東欧からのユダヤ人移民を制限しようとする動きが生まれました。この法律の制定に際して熱弁を振るったのが、のちにバルフォア宣言を出すことになるアーサー・バルフォアその人だったという歴史的皮肉があります。

西欧でも反ユダヤ主義は消えていませんでした。1894年にフランスで起きた「ドレフュス事件」は、ユダヤ系フランス人将校アルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑で不当に有罪判決を受けた事件で、フランス社会に潜む根深い反ユダヤ主義を白日の下にさらしました。この事件の裁判を取材したオーストリア=ハンガリー帝国のユダヤ系ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは深い衝撃を受け、この体験がシオニズムの理論的基礎を築く直接の契機となりました。

また、19世紀後半には「人種的反ユダヤ主義」という新たな形態の差別が生まれました。それまでの宗教的迫害は「改宗すれば受け入れる」という性質のものでしたが、人種的反ユダヤ主義は「ユダヤ人とは改宗によっても変えられない生物学的・人種的存在である」という思想に基づいており、迫害の正当化に「科学的」装いを与えるものでした。1879年にドイツのジャーナリスト、ヴィルヘルム・マルがはじめて「反ユダヤ主義(Antisemitismus)」という言葉を使ったのもこの時代のことです。このような状況の中で、「ユダヤ人が安全に暮らせる場所が必要だ」という思想がユダヤ人知識人の間に芽生えていきました。それがシオニズムの土壌となったのです。

2. ヘルツルの『ユダヤ人国家』(1896年)とシオニズム運動の組織化

シオニズムの理論的基礎を構築し、それを国際的な政治運動として組織化した最大の功績者は、テオドール・ヘルツル(1860〜1904年)です。彼はオーストリア=ハンガリー帝国のブダペストに生まれ、ウィーンで法学を学んだ後、ジャーナリストとして活躍しました。ドレフュス事件(1894年)の取材がきっかけとなり、ヘルツルはユダヤ人問題の唯一の根本的解決策は「ユダヤ人のための国家を建設すること」であるという結論に至りました。

1896年に出版された著書『ユダヤ人国家(Der Judenstaat)』は、欧州のユダヤ人社会に大きな衝撃を与えました。この書の中でヘルツルは、反ユダヤ主義はユダヤ人が同化・改宗しても解消されないものであり、ユダヤ人が欧州で市民権を得ても差別は続くと論じました。そして、ユダヤ人が自分たちの国家を持つことだけが、この問題の恒久的な解決策だと主張しました。

翌1897年、ヘルツルはスイスのバーゼルで「第一回シオニスト会議」を主催しました。この会議には世界各地から約200名の代表が集まり、「パレスチナに公法によって保障されたユダヤ人の郷土を確立すること」を目標とする「世界シオニスト機構(Zionist Organization)」が設立されました。ヘルツルはその初代会長に就任しました。バーゼル会議でヘルツルは自らの日記に「もし私がバーゼル宣言を一言で要約するなら、バーゼルでユダヤ人国家を創設した、ということになろう」と記しています。

ただしヘルツルは、「郷土」をパレスチナのみに求めたわけではありませんでした。英国植民地相ジョセフ・チェンバレンは1903年、英領東アフリカ(現ケニア)の一部をユダヤ人の郷土として提供する「ウガンダ案」をヘルツルに提示しました。ヘルツルはこれを暫定的な避難地として前向きに検討しましたが、シオニスト運動内部には強い反発があり、第7回シオニスト会議(1905年)でこの案は否決されました。「パレスチナのみ」を主張する声が、運動の方向性を決定づけたのです。

ヘルツルは1904年に44歳の若さで亡くなりましたが、彼が遺したシオニスト機構という組織と世界的なネットワークは生き続けました。後継者のカイム・ヴァイツマン(1874〜1952年)はスイス生まれのロシア系ユダヤ人化学者で、のちにイスラエル初代大統領となる人物です。彼が指導するシオニスト運動は英国政界との連携を最重要課題として取り組んでいきます。

3. 初期アリーヤーとパレスチナの現実

「アリーヤー(Aliyah)」とはヘブライ語で「上昇」または「高みへ上ること」を意味し、ユダヤ人がパレスチナ(のちにイスラエル)に移住することを指す言葉です。近代シオニズムの文脈では、19世紀末以降に起きた複数の移民の波をそれぞれ「第一次アリーヤー」「第二次アリーヤー」などと呼びます。

第一次アリーヤー(1882〜1903年)は、主にロシア帝国でのポグロムを逃れたユダヤ人による移民の波です。この時期にパレスチナに渡ったユダヤ人は約25,000〜35,000人と推定されています。彼らは農業入植地(モシャヴァ)を建設し、ブドウ園・オレンジ農園・小麦畑などを開拓しました。この入植地の建設と維持に巨額の資金を提供したのが、エドモン・ド・ロスチャイルド男爵です。

第二次アリーヤー(1904〜1914年)には、主にロシアおよびポーランドからの社会主義的思想を持つ若いユダヤ人が含まれていました。彼らは「労働シオニズム(Labor Zionism)」と呼ばれる思想を掲げており、単に農地を購入して入植するのではなく、ユダヤ人自身の労働によってパレスチナの大地を開拓することを理想としました。この第二次アリーヤーの移民の中に、のちにイスラエル初代首相となるダヴィド・ベン=グリオン(1906年入植)も含まれていました。

しかし、ユダヤ人の入植が進むにつれて、パレスチナに先から住んでいたアラブ系住民との間に摩擦が生じるようになりました。19世紀末から20世紀初頭のパレスチナにおいて、ユダヤ人の人口は全体の7〜8%程度に過ぎず、大多数はアラブ系のムスリムとキリスト教徒でした。ユダヤ人による土地購入が進む中で、それまでその土地を耕作してきたアラブ系小作農が立ち退きを迫られるケースも生じ、地元住民の不満が高まっていきました。

パレスチナのアラブ系知識人の間では、20世紀初頭からシオニズムに対する警戒感が高まっていました。パレスチナ出身の新聞記者ネジブ・アザウリは1905年に著書『アラブ民族の目覚め』を刊行し、シオニズムとアラブ民族主義は「どちらかが倒れるまで戦わざるを得ない致命的な衝突に向かって進んでいる」と警告しました。この警告は、後の歴史が証明するように、非常に先見的なものでした。

4. ロスチャイルド家とシオニズム:距離と関与

ロスチャイルド家はシオニズム運動とどのような関係にあったのでしょうか。一概に「ロスチャイルド家はシオニズムを支持した」と言うことはできません。家族内でも支流ごとに、また世代ごとに立場は大きく異なっていました。

英国系ロスチャイルド家の第一代男爵ネイサン(1840〜1915年)は、シオニズムに対して明確に批判的な立場でした。彼は英国ユダヤ人社会の指導者として、ユダヤ人は英国市民として英国社会に完全に統合されるべきであり、パレスチナに「民族的郷土」を建設するという考えは英国ユダヤ人の地位を危うくすると考えていました。「ユダヤ人は二重忠誠(英国市民としての忠誠とユダヤ民族への忠誠)を持つ」という疑いをかけられることを恐れたのです。ヘルツルは第一代男爵に直接会談を求めましたが拒否され、1902年の英国議会特別委員会でシオニズムを「有害な誤り」と評しています。

一方、仏国系のエドモン・ド・ロスチャイルド(1845〜1934年)は、シオニズムの組織・運動自体とは距離を置きながらも、パレスチナへのユダヤ人入植を個人として強力に支援しました。彼はヘルツルの政治的シオニズム(国際的な外交交渉を通じて法的に保障された郷土を得るという戦略)には懐疑的でしたが、「地道な入植の積み重ねがやがて事実上のユダヤ人の郷土を作り上げる」という実践的なアプローチを信じていました。

第二代ロスチャイルド男爵ウォルター(1868〜1937年)は、父親(第一代男爵)とは対照的に、シオニズムに共感的な立場でした。動物学者として知られる彼は、ヴァイツマンらシオニスト指導者たちとの個人的なつながりを通じて、シオニスト運動の英国政府への働きかけを支持し、バルフォア宣言の名宛人となるに至ります。

このように、ロスチャイルド家とシオニズムの関係は複雑で多面的なものでした。家族内の一部はシオニズムを積極支持し、別の一部は公然と反対し、また一部は個人としての入植支援と政治的シオニズムを峻別していました。「ロスチャイルド家がシオニズムを一体となって推進した」という単純な図式とは、歴史的実態はかなり異なっています。

第三章 バルフォア宣言(1917年)への道

1. 第一次世界大戦の地政学的背景

バルフォア宣言は、真空の中で生まれたものではありません。それは第一次世界大戦(1914〜1918年)という未曾有の大戦争が生み出した地政学的文脈の中で、英国政府が下した一つの戦略的決断でした。この背景を理解しなければ、なぜ英国が1917年という時期に、パレスチナのユダヤ人郷土建設を支持する宣言を出したのかを説明することはできません。

1914年7月に欧州で始まった戦争は、当初の予想をはるかに超えて長期化・泥沼化しました。英仏露の三国協商(連合国)側と、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国の同盟国(中央同盟国)側が激突するこの大戦は、1917年の時点で深刻な膠着状態に陥っていました。西部戦線ではドイツとの塹壕戦が延々と続き、連合国側は膨大な人的・物的損害を被っていました。

英国にとってこの時期に特に深刻だったのは、二つの大国の動向でした。一つはロシアです。1917年2月(旧暦)の二月革命によってロマノフ王朝が崩壊し、ケレンスキーの臨時政府が成立しましたが、国内では反戦ムードが高まり、戦争継続への意欲は急速に失われていました。同年11月の十月革命によってボルシェヴィキが政権を掌握すると、ロシアは事実上、連合国の戦列から離脱しました。もう一つは米国です。ウィルソン大統領は長らく中立を維持していましたが、1917年4月にドイツの無制限潜水艦作戦を受けてようやく参戦しました。しかし同年11月の時点では、米国の大規模な軍事力はまだ本格的に戦争に投入されていませんでした。

つまり1917年後半の英国は、ロシアという同盟国を失いかけ、米国という新たな同盟国がまだ本格参戦していないという、きわめて不安定な戦略的状況に置かれていたのです。このような状況の中で、英国の政策立案者たちは「世界中のユダヤ人の支持を取り付けることが、ロシアの戦争継続意欲を維持し、米国のユダヤ人社会を親連合国に引き込む上で有効な手段となりうる」と考えるようになりました。

英国政府内には、「ユダヤ人は国際的な影響力を持つ」という当時広く共有されていた(実際には大幅に誇張された)ステレオタイプな見方がありました。ロバート・セシル卿は「ユダヤ人の国際的な影響力は誇張できないほど大きい」と述べ、マーク・サイクスやアーサー・バルフォア自身も「世界のユダヤ人を連合国側に引き込む」ことの宣伝効果を真剣に考慮していました。この見方は現代から見れば明らかに偏見に満ちたものですが、当時の英国外交エリートの思考の中に深く根ざしていたことが、後に機密解除された英国公文書によって明らかになっています。

加えて英国には、パレスチナに対する純粋な戦略的関心もありました。スエズ運河という帝国の生命線を守るためには、その北側に位置するパレスチナの支配権を確保することが重要でした。フランスが中東(特にシリア・レバノン)への影響力拡大を狙っている中で、英国はパレスチナを自国の支配下に置くことを望んでいました。シオニスト運動の支持はその正当化にも利用できると考えられたのです。

2. サイクス=ピコ協定とマクマホン=フサイン書簡

バルフォア宣言を論じる際に避けて通れないのが、英国がほぼ同時期に複数の勢力に対して「矛盾する約束」をしていたという問題です。その中心にあるのが「マクマホン=フサイン書簡」と「サイクス=ピコ協定」の二つです。

マクマホン=フサイン書簡(1915〜1916年)は、英国のエジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンと、メッカのシャリーフ(太守)フサイン・イブン・アリーとの間で交わされた10通の往復書簡です。この書簡の中でマクマホンは、フサインがオスマン帝国に対してアラブ反乱を起こすことへの見返りとして、「フサインが提案した限界と境界の中でアラブ人の独立を承認し支持する」と約束しました。フサインはこの約束を信じ、1916年6月にアラブ反乱(アラブ大反乱)を起こしてオスマン帝国と戦いました。

この書簡においてパレスチナが「アラブ独立地域」に含まれるのかどうかは、書簡の文言が曖昧であったため、長年にわたって激しく争われてきました。英国側は後にパレスチナは除外されていたと主張しましたが、アラブ側はパレスチナも含まれていたと解釈しており、この解釈の相違は現在に至るまで解決されていません。

サイクス=ピコ協定(1916年)は、英国のマーク・サイクス卿とフランスのフランソワ・ジョルジュ=ピコーが交渉した英仏秘密協定で、オスマン帝国崩壊後の中東を英仏で分割する内容のものでした。大まかに言えば、シリア・レバノンをフランスの影響圏に、イラク・ヨルダンを英国の影響圏に置き、パレスチナについては国際管理とすることが想定されていました。この協定はアラブ側には秘匿されており、1917年11月のロシア革命後にボルシェヴィキ政府が公開して初めてその存在が知られるようになりました。

つまり英国は同時並行で、アラブ人には独立を、フランスには中東での勢力圏を、そしてユダヤ人にはパレスチナの郷土を約束していたことになります。これらの約束は互いに矛盾しており、後の中東問題の根源となりました。歴史家アルバート・フラニは「これらの合意の解釈をめぐる議論は永遠に終わらない。なぜなら、それらは複数の解釈を意図して書かれたものだからだ」と述べています。

3. ヴァイツマンと英国政界へのロビー活動

バルフォア宣言が生まれた背景には、シオニスト側による執拗かつ巧みな外交的ロビー活動がありました。その中心人物が、カイム・ヴァイツマン(1874〜1952年)です。

ヴァイツマンはロシア系ユダヤ人の化学者で、スイスのジュネーヴで学んだ後、1904年に英国マンチェスター大学の教員として英国に移住しました。彼は同年、アーサー・バルフォアと初めて会談しています。当時バルフォアはマンチェスターを選挙区とする議員であり、ヴァイツマンはバルフォアに対してシオニズムの意義を熱弁しました。この最初の出会いがのちに宣言につながっていくのです。

第一次世界大戦中、ヴァイツマンは英国政府に対して決定的な貢献を果たしました。1915年、英国海軍は無煙火薬(コルダイト)の原料となるアセトンの深刻な不足に悩んでいました。ヴァイツマンは発酵法を用いてアセトンを大量生産する技術を開発し、英国の軍需省に提供しました。これはウィンストン・チャーチル海軍大臣(当時)やデイヴィッド・ロイド・ジョージ軍需相(当時)に深い印象を与え、ヴァイツマンは英国政府の枢要な人物たちと個人的な信頼関係を築くことができました。

1916年末にロイド・ジョージが首相に就任し、バルフォアが外務大臣に就任すると、シオニスト運動にとってのロビー活動環境は一気に好転しました。ヴァイツマンはロイド・ジョージ、バルフォア、マーク・サイクス(中東政策担当)らと緊密な連絡を保ち、シオニズムへの英国の公式支持を取り付けるべく働きかけを続けました。

1917年2月7日、サイクスはシオニスト指導部と実質的な会議を開きました。この会議でサイクスは、アラブ人との関係について「アラブ人は、ユダヤ人の支持さえ得られれば、説得できる」と述べたことが記録されています。同年4月には、サイクスとナフム・ソコロウ(世界シオニスト機構の幹部)がパリ・ローマ・バチカンを歴訪し、フランスおよびイタリアのシオニズムに対する支持を取り付けました。フランスのカンボン外務省政務局長は同年6月4日付の書簡でシオニズムへの支持を表明し(カンボン書簡)、教皇ベネディクトゥス15世もソコロウとの会談でシオニスト計画に対する一般的な共感を表明しました。

1917年3月22日、バルフォアは外務省でヴァイツマンと会談し、ヴァイツマンは後に「バルフォアと初めて本当のビジネスの話ができた」と書き記しています。この会談でヴァイツマンは、パレスチナに対する英国の保護領設置を強く希望し、フランス・米国・国際管理という選択肢には反対する立場を明確にしました。

4. ウォルター・ロスチャイルドの役割

バルフォア宣言が「ロスチャイルド卿」に宛てた手紙の形を取ったことには、重要な意味があります。宣言の名宛人となった第二代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド(1868〜1937年)とは、どのような人物だったのでしょうか。

ウォルターは英国系ロスチャイルド家の嫡男として生まれ、ケンブリッジ大学で学びましたが、銀行業よりも動物学・博物学に強い情熱を持つ人物でした。ハートフォードシャー州トリングの広大な邸宅に世界最大規模の個人動物コレクションを構築し、カメに牽かせた馬車でバッキンガム宮殿前を走ったという逸話が残るほど、その個性は際立っていました。父の死後、英国系ロスチャイルド家の当主となり、第二代男爵位を継承しましたが、銀行経営には関心が薄く、弟のチャールズが実質的な銀行業務を担っていました。

1899年から1910年にかけてウォルターは保守党議員(イースト・ハートフォードシャー選挙区)を務めましたが、議員活動においても突出した存在感はありませんでした。それでもシオニスト運動の指導者たちは、英国系ロスチャイルド家の当主という象徴的な地位を持つウォルターを、英国政府への窓口として重視しました。

1917年6月19日、バルフォアはウォルターとヴァイツマンに対し、英国政府が発表すべき宣言の文案を提出するよう求めました。シオニスト側が最初に提出した草案は143語に及ぶ詳細なものでしたが、サイクス、グラハム(外務省中東部長)、ウォルター自身がこれを問題ありと判断し、より短い文案が作成されました。ウォルターは同年7月18日付の手紙でバルフォアに46語の改訂草案を送付しました。

最終的にバルフォアが1917年11月2日にウォルターに宛てた手紙(バルフォア宣言)の形式は、英国政府の公式立場をシオニスト連盟に伝達するための媒介として、ウォルターの名前を利用したものでした。宣言の実質的な作成はシオニスト指導部(特にヴァイツマン)と英国政府官僚(特にサイクス、ミルナー卿、アメリー)の間の交渉によるものでしたが、「ロスチャイルド卿への手紙」という形式は、英国系ユダヤ人社会への象徴的な配慮を示すものでもありました。

5. エドモン・ド・ロスチャイルドの入植支援との連動

バルフォア宣言が出された1917年時点で、仏国系のエドモン・ド・ロスチャイルドはすでに30年以上にわたってパレスチナのユダヤ人入植を支援してきていました。彼の活動はバルフォア宣言の直接的な動因ではありませんでしたが、宣言が意味を持つための「地盤」を作り上げていたという点で、きわめて重要な役割を果たしていました。

エドモンは1882年、第一次アリーヤーの開始直後からパレスチナのユダヤ人入植地への資金提供を始めました。彼が最初に支援したのはリション・レジオン(パレスチナ南部)の入植地で、続いてザクロン・ヤアコヴ、ロシュ・ピナ、ペタフ・ティクヴァなどの入植地も支援対象に加えていきました。1900年までに彼が支援した入植地は20か所以上に達し、そこに暮らすユダヤ人入植者は約5,000人を超えていました。

エドモンの支援は単に金銭的なものにとどまりませんでした。彼は農業専門家を送り込んでブドウ栽培・ワイン醸造・オレンジ栽培・絹糸産業などを導入し、入植地の経済的自立を図りました。1892年にはタヌラ(現ハイファ近郊)にユダヤ人所有としては最初のガラス工場「ミザガ」を設立し、工業化の端緒を開きました。またリション・レジオンとザクロン・ヤアコヴにはそれぞれ大型ワイナリーが建設され、これらは現在もカルメル・ワイナリーとして操業しています。

しかしエドモンの支援スタイルには批判もありました。彼は入植地の管理を自ら派遣した管理人(ドュナム)に委ね、入植者に細かい指示を与えて自主性を奪うというパターンが繰り返されました。入植者たちは「ロスチャイルド男爵の農民」と皮肉られ、自らの農場なのに男爵の代理人の許可なく作物さえ選べないという状況に不満を募らせることもありました。

こうした課題を認識したエドモンは、1900年に入植地の管理を世界シオニスト機構傘下の「ユダヤ人入植協会(ICA)」に移管しました。そして1924年には自ら「パレスチナ・ユダヤ人入植協会(PICA)」を設立し、入植地開発事業をより組織的に継続しました。PICAはその後、パレスチナ全土で12万5,000エーカー(約5万ヘクタール)以上の土地を取得し、農業・商工業・インフラの開発に当たりました。

エドモンとバルフォア宣言の関係について言えば、彼はバルフォア宣言の形成過程に直接関与したわけではありませんでしたが、宣言を意味あるものにする「実体」をすでに作り上げていました。30年以上にわたる入植支援によってパレスチナには一定規模のユダヤ人コミュニティが形成されており、バルフォア宣言はその存在を国際的に正当化する役割を果たしたのです。

1914年1月、エドモンはヴァイツマンと初めて会談し、エルサレムにヘブライ大学を設立する計画について議論しました。この出会いを通じてフランス系ロスチャイルド家とシオニスト運動の協力関係が深まり、同年11月にはエドモンの息子ジェームズ・アルマン・ド・ロスチャイルドがヴァイツマンに接触し、英国政府のシオニスト計画への支持を取り付けるための協力を申し出ました。この時点でロスチャイルド家とシオニスト指導部の連携は、英仏両国の政治家に働きかける形で本格化していきました。

6. バルフォア宣言の文面解析

1917年11月2日付のバルフォア宣言の全文は以下の通りです。

「英国陛下の政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族的郷土を設立することを好意的に見ており、この目的の達成を容易にするために最善の努力をなすつもりである。ただし、パレスチナに現存する非ユダヤ人コミュニティの市民的および宗教的権利、または他のいかなる国においてもユダヤ人が享受する権利と政治的地位を損なうようなことは、一切行われないという理解の下に」

わずか67語のこの文章には、重要な曖昧さが意図的に組み込まれていました。

まず「民族的郷土(national home)」という表現は、国際法上の先例がない造語でした。「国家(state)」という言葉は意図的に避けられました。これは英国内閣内にシオニズムの計画に懐疑的なメンバーがいたためです。特にインド担当大臣エドウィン・モンタギュー(ユダヤ系ながら反シオニスト)は「この政策は反ユダヤ主義をもたらすものだ」と強く反対し、最終的な文言は彼の反対を和らげるために大幅に曖昧化されました。

次に「パレスチナに(in Palestine)」という表現も重要です。当初のロスチャイルド草案は「パレスチナを(Palestine as)ユダヤ人の民族的郷土として再建する」という表現を使っていました。しかし最終的な文言は「in Palestine(パレスチナの中に)」となり、パレスチナ全土をユダヤ人の郷土とする意図を避けています。これはミルナー卿の修正によるものです。

さらに問題なのは、当時パレスチナの人口の約90%を占めていたアラブ系住民が「非ユダヤ人コミュニティ」という表現で否定的・受動的に定義され、その政治的権利への言及が一切なかったことです。市民的・宗教的権利の保護は約束されましたが、自決権や政治的権利については完全に沈黙していました。英国政府は後の2017年の声明で「宣言はパレスチナ系アラブ人の政治的権利の保護を呼びかけるべきだった」と認めていますが、それは宣言から100年後のことでした。

宣言の成立過程では、シオニスト側と反シオニスト側の英国系ユダヤ人双方が英国政府に意見書を提出しました。シオニスト側はヴァイツマンらが積極的な支持を表明する一方、英国系ユダヤ人の主要団体(英国ユダヤ人代議員会と英国ユダヤ人協会の合同外国委員会)は1917年5月24日付の「タイムズ」紙への書簡で、「パレスチナにユダヤ人の民族性を確立することは、各自の国民国家においてユダヤ人を異邦人として刻印することになる」と警告しました。しかしこの警告は英国政府に顧みられることなく、宣言は発せられました。

第四章 英国委任統治とパレスチナ問題の深化

1. ヘルベルト・サミュエルの初代高等弁務官就任と親シオニズム政策

バルフォア宣言が発せられた後、1918年末に第一次世界大戦が終結し、パレスチナは英国の軍政下に置かれました。1920年のサン・レモ会議において、パレスチナの委任統治権が英国に付与されることが決定され、1922年には国際連盟がこれを正式に承認しました。国際連盟からの委任状にはバルフォア宣言の文言が盛り込まれ、英国はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立する責任を公式に負うこととなりました。

この英国委任統治パレスチナの初代高等弁務官に任命されたのが、ヘルベルト・サミュエル(1870〜1963年)です。彼はユダヤ系英国人として、バルフォア宣言成立の前段階においても重要な役割を果たした人物でした。1915年1月、内閣メンバーとして「パレスチナの未来」と題する覚書を閣僚に配布し、英国帝国へのパレスチナ併合とユダヤ人の民族的郷土設立を初めて公式の記録として提案した人物こそ、サミュエルでした。

サミュエルは1920年から1925年の5年間、初代高等弁務官を務め、その任期中に委任統治パレスチナの基本的な行政・法律・土地制度の枠組みを作り上げました。彼の政策は全体として親シオニスト的でした。ユダヤ人移民の流入を促進し、ユダヤ機関(Jewish Agency)の設立を支援し、ユダヤ人コミュニティの自治組織(ヴァアド・レウミ)を公認しました。またヘブライ語を英語・アラビア語と並ぶ公用語として認定し、ユダヤ人民族基金(JNF)による土地購入を容認しました。

しかし同時にサミュエルは、アラブ側への配慮も試みました。アラブ系パレスチナ住民の有力指導者であったハジ・アミン・アル=フサイニーを、物議を醸しながらもエルサレムのムフティー(イスラム法学者)に任命しました(1921年)。この任命はアラブ穏健派との関係改善を意図したものでしたが、皮肉にもアル=フサイニーは後にアラブ民族主義の急進的な指導者となり、ユダヤ人入植反対運動の先頭に立つことになります。

2. アラブ代表団の抵抗とロンドン交渉(1921〜22年)

英国委任統治の開始とともに、パレスチナのアラブ系住民は組織的な抵抗運動を展開し始めました。1920年3月にはネビー・ムーサの祭りをきっかけとするアラブ人によるユダヤ人攻撃事件が発生し、同年5月にはヤッファでも暴動が起きました。こうした状況の中で、パレスチナのアラブ指導者たちは代表団をロンドンに派遣し、英国政府に直接訴えかけることを決意しました。

1921年から1922年にかけて、パレスチナ・アラブ代表団はロンドンで英国政府と交渉を行いました。代表団はハジ・アミン・アル=フサイニーの兄であるムーサ・カーズィム・アル=フサイニーを長とし、植民地相ウィンストン・チャーチルをはじめとする英国政府要人と会談しました。

代表団の要求は明確でした。バルフォア宣言の撤回、ユダヤ人移民の禁止、パレスチナにおける代表制民主主義政府の樹立の三点です。彼らは「パレスチナは古来よりアラブ人の土地であり、その多数派の意思に反して少数派のために約束された宣言は無効である」と主張しました。

これに対してチャーチルは、バルフォア宣言の撤回を拒否しましたが、その解釈をより限定的なものとする姿勢を示しました。1921年3月のカイロ会議においてチャーチルは、トランスヨルダン(ヨルダン川東岸地域)をパレスチナから切り離し、フサイン・イブン・アリーの息子アブドゥッラーの統治下に置くことを決定しました。これはパレスチナ全体をユダヤ人の郷土とするシオニスト側の一部の野望を事実上封じ込める措置でもありました。

1922年6月にはチャーチル白書(チャーチル覚書)が発表されました。この文書は、バルフォア宣言の意図が「パレスチナ全土をユダヤ人の民族的郷土とすること」ではなく、「パレスチナの中に」郷土を設立することであると明確にし、パレスチナのアラブ系住民の地位を損なう意図はないと強調しました。また「ユダヤ人のパレスチナに対する権利」を、外来者の寄贈によるものとしてではなく、ユダヤ人の歴史的つながりに基づくものとして認めつつも、移民は「パレスチナの経済的吸収能力」の範囲内に限定されると規定しました。

しかし現実には、チャーチル白書はアラブ側の根本的な不満を解消するものではありませんでした。アラブ代表団は白書を「不十分」と拒否し、ユダヤ機関側はこれを渋々受け入れるという形になりました。

3. アラブとユダヤの衝突激化と1939年白書

1920年代から1930年代にかけて、パレスチナにおけるユダヤ人移民の増加は続きました。特に1930年代に入りナチス・ドイツでの迫害が激化すると、ドイツ・東欧からのユダヤ人移民が急増しました。1931年に約17万人だったパレスチナのユダヤ人人口は、1936年には約38万人、1939年には約45万人に達しました。

この急速な人口変化と土地購入の加速は、アラブ系住民との関係を一層悪化させました。1929年にはエルサレムの嘆きの壁(ウェスタン・ウォール)をめぐる宗教的紛争が大規模な暴動(ハブロン虐殺など)に発展し、多数の死者が出ました。そして1936年には、パレスチナのアラブ系住民が全面的なゼネストと武装蜂起を開始する「アラブ大反乱(1936〜1939年)」が起きました。

この反乱に直面した英国政府は、1937年にピール委員会を設置し、その報告書において初めて「分割案」を提示しました。パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割し、エルサレムは英国委任統治下に置くという案でしたが、アラブ側は全面拒否し、シオニスト側も割り当てられた領域の狭さに不満を抱きました。

1939年5月、英国政府はいわゆる「マクドナルド白書(1939年白書)」を発表しました。この文書は事実上、バルフォア宣言の主要な部分を覆すものでした。主な内容は次の三点です。まず、今後5年間でユダヤ人移民を75,000人に制限し、その後はアラブ側の同意なしに移民を認めない。次に、今後10年以内にアラブ・ユダヤ双方が参加する独立パレスチナ国家を設立する。そして土地の売却をアラブ人からユダヤ人への転売を大幅に制限する。

この1939年白書は、シオニスト側から激しく非難されました。まさにナチスによるユダヤ人迫害が最高潮に達しようとしている時期に、パレスチナへの移民の扉を事実上閉じるこの白書は、ユダヤ人社会に深刻な絶望感をもたらしました。一方アラブ側もこの白書を不十分として拒否しました。英国政府はいずれの側からも支持を得られない状況に陥ったのです。

1939年、英国政府内の委員会(チャンセラー委員会)は機密報告の中で、「英国はパレスチナ住民の意思と利益を顧みずに処分する自由はなかった」と率直に認めました。これは宣言から22年後のことで、バルフォア宣言が根本的な矛盾を孕んでいたことを英国政府自身が認めた重要な文書です。

4. 委任統治の終焉と国連への委託

第二次世界大戦が終結すると、ホロコーストの惨禍がユダヤ人国家建設への国際的な同情を高める一方で、英国のパレスチナ統治は完全に行き詰まりを見せました。生き残ったホロコースト難民のパレスチナへの移民を認めるよう求めるシオニスト側と、これを阻もうとするアラブ側の間で英国は板挟みになり、ユダヤ系の武装組織(ハガナー、イルグン、レヒ)によるテロ攻撃も頻発しました。

1947年2月、英国はパレスチナ問題を国際連合に委託することを決定しました。同年11月29日、国連総会はパレスチナを「ユダヤ人国家」と「アラブ人国家」に分割し、エルサレムを国際管理下に置く「国連分割決議(決議181)」を賛成33、反対13、棄権10で採択しました。

この分割案は、ユダヤ人が人口の約33%でありながら国土の約56%を受け取る内容であり、アラブ側はこれを不公平として全面拒否しました。1948年5月14日に英国の委任統治が終了すると、翌15日にはイスラエルの独立が宣言され、周辺アラブ諸国が即座に侵攻して第一次中東戦争が始まりました。バルフォア宣言から31年、「民族的郷土」はついに独立国家へと姿を変えたのです。

第五章 エドモン・ド・ロスチャイルドの入植支援

1. 「パレスチナ入植の父」と呼ばれた男

エドモン・ジェームズ・ド・ロスチャイルド(1845〜1934年)は、仏国系ロスチャイルド家の当主ジェームズ・マイヤー・ド・ロスチャイルドの三男として、パリ近郊のブローニュ=ビヤンクールに生まれました。父ジェームズはフランスの鉄道網整備に巨額の資金を投じた人物として知られており、エドモンはその膨大な遺産を受け継ぎました。兄たちが銀行業を継ぐ中、エドモン自身は銀行経営には距離を置き、美術収集・科学研究支援・慈善活動に情熱を傾けました。

エドモンがパレスチナのユダヤ人入植支援に乗り出したのは1882年のことです。この年、ロシア帝国でのポグロムを逃れたユダヤ人がパレスチナに渡り、入植地を作ろうとしましたが、資金不足と農業経験の欠如から存続の危機に瀕していました。リション・レジオン(現テルアビブ南方)の入植者たちがエドモンに支援を求めたことが、彼のパレスチナ支援の出発点となりました。

エドモンはこの支援要請に応じ、最初は秘密裏に資金を提供しました。当初は「匿名の後援者(ハナディヴ・ハヤドゥア、すなわち『知られざる篤志家』)」として活動し、ユダヤ人社会でさえその正体は長らく知られていませんでした。後にその正体が明らかになってからは、イスラエルでは親しみを込めて「ハナディヴ(篤志家)」と呼ばれ、現在でも「イスラエル建国の父」の一人として広く敬われています。

彼の入植支援が単なる慈善活動に留まらなかった点で注目されます。エドモンは土地・農業・産業・インフラという実体経済のレベルでパレスチナのユダヤ人コミュニティの基盤を作り上げることを目指しました。彼が支援した入植地の数は最終的に30か所を超え、そこに住むユダヤ人の数は数万人に達しました。1934年に彼が没した際、イスラエルの初代大統領ヴァイツマンは「エドモン男爵がいなければ、パレスチナにおけるユダヤ人の事業全体が崩壊していただろう」と述べています。

2. 入植地への資金提供と農業開発

エドモンの入植支援の規模と内容を具体的に見てみましょう。1882年から1900年にかけての約18年間で、彼がパレスチナの入植地に投じた資金は推定600万フランとも1,600万フランとも言われています(資料によって数字が異なります)。当時のフランスの一般的な農家の年収が数百フランであったことを考えると、これが桁外れの金額であることがわかります。

エドモンが最も力を入れたのは農業の近代化です。当初の入植者の多くはロシアやルーマニアから来た都市出身者で、農業の経験がほとんどありませんでした。エドモンはフランスやアルジェリアから農業専門家を呼び寄せ、地中海性気候に適した作物の栽培技術を指導させました。特力を注いだのはブドウ栽培とワイン醸造です。

1882年にはリション・レジオンとザクロン・ヤアコヴにそれぞれ近代的なワイナリーが設立されました。これらのワイナリーは現在もカルメル・ミズラヒ・ワイナリーとして操業しており、イスラエルのワイン産業の発祥地となっています。エドモンはまたオレンジ・アーモンド・オリーブ・桑(養蚕のため)などの栽培も奨励し、入植地の農業を多角化しました。

農業以外にも、エドモンは工業化の端緒を開きました。1892年にはタヌラ(現ハイファ近郊)にユダヤ人所有としては最初のガラス工場「ミザガ」を設立しました。このガラス工場はワイナリーのボトル供給を主な目的としており、後にパレスチナのユダヤ人経済の工業化を先導する象徴的な存在となりました。また電力供給設備の整備にも資金を提供し、入植地のインフラ開発を進めました。

医療・教育の面でも、エドモンは入植地に診療所・病院・学校を設立しました。ヘブライ語教育を重視し、入植地の学校ではヘブライ語を教授言語として採用することを推進しました。これは「ヘブライ語の復興(テヒヤット・ハイヴリット)」という文化的プロジェクトとも連動しており、現代ヘブライ語の発展に貢献しました。

3. 「慈善父権主義」の光と影

エドモンの入植支援は一見すると完全に利他的な慈善活動のように見えますが、その実態はより複雑なものでした。彼の支援スタイルは「慈善父権主義(philanthropic paternalism)」と評されることがあり、光と影の両面を持っていました。

光の面は明らかです。エドモンの資金援助がなければ、多くの入植地は19世紀末に消滅していたでしょう。彼は単に資金を提供しただけでなく、入植地の農業技術を向上させ、医療・教育・インフラを整備し、パレスチナのユダヤ人コミュニティが経済的に自立する基盤を作り上げました。

しかし影の面も無視できません。エドモンは入植地の管理を自ら派遣した管理人(ドゥナム、複数形はドゥナミム)に委ね、入植者の日常生活に至るまで細かく管理・介入しました。どの作物を栽培するか、いつ収穫するか、誰と結婚するか、さらには礼拝の仕方に至るまで、管理人を通じてエドモンの意向が及ぶことがありました。入植者たちは「ロスチャイルド男爵の農奴」と自嘲し、自分たちの農場でありながら自主的な意思決定ができないことへの不満を募らせました。

シオニスト運動の指導者たちもこの問題を認識していました。ヘルツルは1896年にエドモンに会いに行き、パレスチナへの大規模な移民受け入れと国際的な外交支援を求めましたが、エドモンはこれを拒否しました。エドモンはヘルツルの政治的シオニズム(外交交渉による法的保障を先に確保する戦略)を「時期尚早」かつ「危険」と見ており、まず地道な入植の積み重ねによって実体を作り上げることを優先する立場でした。この意見の相違は、両者が生涯にわたって解消されることなく、シオニズム運動内部の「実践的シオニズム」対「政治的シオニズム」という路線対立として続きました。

また、エドモンのアラブ系住民に対する態度も複雑でした。歴史家アルバート・ハイアムソンは「エドモンはパレスチナのユダヤ人にとって最大の関心事はアラブの隣人の信頼と友情であることを認識していた」と評しており、エドモン自身も購入した土地のアラブ系農民の利益を無視しなかったと述べています。しかし実際には、ユダヤ人入植地の拡大に伴ってアラブ系小作農が土地を失うケースも起きており、エドモンの支援が意図せずしてアラブ系住民の立ち退きを促進した側面は否定できません。

エドモン自身は晩年(1931年)、ユダヤ機関議長ジューダ・マグネスとの対話の中で「われわれは強い手でアラブ人を抑えなければならない」と述べたことが記録されています。しかし1934年に国際連盟に宛てた書簡では「放浪するユダヤ人の問題を終わらせる闘いが、放浪するアラブ人を生み出してはならない」とも述べており、彼の中にアラブとユダヤの共存への願いも存在していたことが読み取れます。

4. PICAの設立と土地取得の拡大

エドモンは1900年に入植地の管理を世界シオニスト機構傘下の「ユダヤ人入植協会(ICA)」に移管しましたが、その後もパレスチナへの関与を続けました。そして1924年、彼は「パレスチナ・ユダヤ人入植協会(PICA:Palestine Jewish Colonization Association)」を自ら設立し、事業の主導権を取り戻しました。

PICAはその後約30年にわたって活動し、パレスチナ全土で12万5,000エーカー(約5万ヘクタール)以上の土地を取得しました。これはパレスチナの総面積の約3%に相当し、当時のユダヤ人所有土地全体の中でも最大規模の一つでした。PICAはこれらの土地で農業・商工業・住宅開発を進め、新たな入植地の設立を支援しました。

エドモンが1934年に亡くなると、PICAの事業はその息子ジェームズ・アルマン・ド・ロスチャイルド(1878〜1957年)に引き継がれました。ジェームズは父の事業を忠実に継続し、パレスチナ・イスラエルの土地開発に尽力しました。

1957年にジェームズが没すると、PICAは段階的にその土地と資産をイスラエル国家の機関に移管する手続きを進めました。1957年から1960年にかけて、PICAが所有していた土地の大部分はユダヤ民族基金(JNF)に移管されました。JNFはこれらの土地をイスラエル国家の公有地として管理し、新移民の定住や農業開発に活用しました。この土地移管は、エドモン・ド・ロスチャイルドが半世紀以上にわたって積み重ねてきた入植支援の総決算という意味を持っていました。

5. エドモンの遺産とイスラエルにおける評価

エドモン・ド・ロスチャイルドの遺産はイスラエルにおいて今日も生き続けています。彼とその妻アデライードの遺骨は、1954年にイスラエルのラマット・ハナディヴ(ハイファ近郊のジクロン・ヤアコヴ)に移送され、美しい庭園を持つ霊廟に安置されています。「ラマット・ハナディヴ」とはヘブライ語で「篤志家の丘」を意味し、エドモンへの敬意が込められた地名です。

イスラエルの500シェケル紙幣にはエドモン・ド・ロスチャイルドの肖像が印刷されており(旧デザイン)、彼が「イスラエル建国の恩人」として国民的な敬意を受けていることを示しています。テルアビブ市内にはロスチャイルド大通り(ロスチャイルド・ブールバード)が通っており、この通りはイスラエル独立宣言が署名された「独立会館」に面しています。

エドモンが1924年に設立したPICAの精神は、現代の「エドモン・ド・ロスチャイルド財団(EDRF)」に受け継がれています。EDRFはイスラエルにおいて農業・水資源技術・地域開発・教育・文化などの分野で活動を続けており、ロスチャイルド家とイスラエルの繋がりは現代においても続いています。

第六章 イスラエル建国とロスチャイルド家の関与

1. 国連分割決議(1947年)から建国宣言(1948年)へ

第二次世界大戦が終結した1945年、ホロコーストの全容が明らかになるにつれて、ユダヤ人国家建設への国際的な支持は急速に高まりました。ナチス・ドイツによって600万人以上のユダヤ人が殺害されたという事実は、シオニズムの主張「ユダヤ人が安全に暮らせる自分たちの国家が必要だ」に新たな緊迫感を与えました。

英国はパレスチナ問題の解決策を見出せないまま疲弊し、1947年2月にこれを国連に委託しました。国連はパレスチナ特別委員会(UNSCOP)を設置して現地調査を行い、その報告書に基づいて1947年11月29日に「国連総会決議181(パレスチナ分割決議)」を賛成33、反対13、棄権10で採択しました。

この分割案では、パレスチナの総面積の約56%をユダヤ人国家に、約43%をアラブ人国家に割り当て、エルサレムを国際管理下に置くことが提案されました。ユダヤ人はこの時点でパレスチナの人口の約33%に過ぎませんでしたが、すでに土地所有・農業開発・経済インフラの面でアラブ側を大きく凌駕する実体を持っていました。これはエドモン・ド・ロスチャイルドをはじめとする入植支援者たちが半世紀以上かけて積み上げてきた「事実の積み重ね」の帰結でもありました。

アラブ側はこの分割案を全面拒否し、パレスチナ全土はアラブのものであるという立場を堅持しました。1948年5月14日に英国の委任統治が終了すると、ダヴィド・ベン=グリオンはテルアビブの独立会館においてイスラエルの独立を宣言しました。翌15日、エジプト・ヨルダン・シリア・イラク・レバノンのアラブ諸国軍がパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)が始まりました。

この戦争はイスラエルの勝利に終わり、休戦協定が結ばれた1949年の時点でイスラエルは当初の分割案よりも広い領土(パレスチナの約78%)を確保していました。一方、約70万人のパレスチナ系アラブ人が故郷を失って難民となりました。この難民問題は「ナクバ(大惨事)」としてパレスチナ人の集合的記憶に深く刻まれ、今日に至るまでイスラエル・パレスチナ紛争の核心問題の一つであり続けています。

2. ジェームズ・アルマン・ド・ロスチャイルドとクネセトへの遺贈

イスラエル建国後のロスチャイルド家の関与を象徴する出来事の一つが、クネセト(イスラエル国会)議事堂の建設に対するロスチャイルド家の寄付です。

エドモン・ド・ロスチャイルドの息子ジェームズ・アルマン・ド・ロスチャイルド(1878〜1957年)は、父の事業を引き継いでPICAを率いた人物ですが、彼はイスラエル建国直後から新国家の議会議事堂建設に個人として多大な関心を持っていました。ジェームズは1957年に亡くなる際、遺言においてクネセト議事堂の建設費用として多額の遺産を寄付することを指示しました。

この遺贈によって建設されたクネセト議事堂は、エルサレムのギヴァット・ラムに1966年に完成しました。議事堂の正面入口にはジェームズ・ド・ロスチャイルドへの感謝を示すプレートが設置されており、ロスチャイルド家とイスラエル国家の深い絆を象徴しています。PICAはまた、その保有資産をイスラエル国家の機関に段階的に移管し、クネセトへの遺贈を含むPICAの遺産総額は当時の金額で3,333万ドルに相当したと報告されています。

ジェームズのこの行動は、ロスチャイルド家がイスラエルを単なる「慈善事業の対象」ではなく、自分たちの民族的祖国として深くコミットしていたことを示しています。父エドモンが「入植の父」として農業基盤を作り上げたとすれば、ジェームズは「国家建設の後援者」として建国後のイスラエルの制度的インフラの整備に貢献したと言えるでしょう。

3. ロスチャイルド財団(イスラエル)の設立と活動

イスラエル建国後、ロスチャイルド家のイスラエルに対する関与は財団活動という形をとって継続されました。エドモン・ド・ロスチャイルド財団(イスラエル、EDRF)は、エドモンの精神を受け継いでイスラエルの社会・経済・文化発展を支援することを使命としています。

この財団はイスラエル国内において農業技術・水資源管理・地域開発・職業訓練・文化振興などの分野で幅広く活動してきました。特に農業技術の分野では、イスラエルが世界に誇るドリップ灌漑(点滴灌漑)技術の普及や、乾燥地農業の研究・開発への支援が重要な実績として挙げられます。

ロスチャイルド家のイスラエルへの支援はコロナ禍においても続きました。2020年にはエドモン・ド・ロスチャイルド財団がイスラエルの病院にNIS(新イスラエルシェケル)5,000万シェケルを寄付し、医療インフラの強化に貢献しました。また同年、エルサレムのヘブライ大学には1,500万シェケルがコロナウイルス研究基金として寄付されています。

英国系ロスチャイルド家も長年にわたってイスラエルとの関係を維持してきました。第四代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルド(1936〜2024年)は英国とイスラエル双方において文化・教育・慈善活動に多大な貢献をしました。エルサレムのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)への支援、ユダヤ・キリスト教対話の促進、英国内のユダヤ系文化機関への援助など、その活動は多岐にわたりました。2024年2月に88歳で亡くなったジェイコブ・ロスチャイルドは、「一族のイスラエル、英国、そして世界のユダヤ人コミュニティへの遺産を体現した人物」と追悼されています。

第七章 現代のロスチャイルド財団と影響

1. 多様化する財団活動

現代のロスチャイルド家の活動を理解する上で重要なのは、その財団活動が単一の組織ではなく、複数の独立した財団・組織に分散していることです。大きく分けると、エドモン・ド・ロスチャイルド財団(スイス・ジュネーヴ本部)、エドモン・ド・ロスチャイルド財団(イスラエル)、ロスチャイルド財団(欧州、英国系)、ロスチャイルド・キャピタル・パートナーズ(投資部門)などがあります。

エドモン・ド・ロスチャイルド財団(スイス本部)は、主にフランス語圏およびイスラエルを中心に活動しており、農業・教育・文化・環境・起業家支援などの分野でプロジェクトを展開しています。特に農業分野では、途上国における持続可能な農業技術の普及に力を入れており、アフリカ・中南米・アジアでも活動しています。

ロスチャイルド財団(欧州)は、主に英国・フランスを中心に音楽・美術・ユダヤ文化の保存・促進、そして教育支援に取り組んでいます。ワデスドン・マナー(英国バッキンガムシャーのロスチャイルド家の邸宅、現在は国民信託が管理)の維持や、世界水準の美術コレクションの公開なども財団活動の一環です。

ロスチャイルド・キャピタル・パートナーズ(RCP)はイスラエルを主要な投資先として、テクノロジー・農業・不動産・インフラなどの分野に投資しています。これはロスチャイルド家のイスラエルへの「純粋な慈善」ではなく「商業的投資」としての関与を示すものであり、現代のロスチャイルド家とイスラエルの関係が単なるフィランソロピーを超えた経済的パートナーシップへと進化していることを示しています。

2. ロスチャイルド家とイスラエルの現在

現代のイスラエルにおいて、ロスチャイルド家の存在は建国期に比べれば目立たなくなっています。しかしその影響は今日も様々な形で続いています。

イスラエルの農業・食品産業はエドモン・ド・ロスチャイルドが19世紀末に設立したカルメル・ワイナリーをはじめ、彼が創設した多くの農業インフラを基盤としています。テルアビブのロスチャイルド大通りは今日もイスラエルの金融・ビジネスの中心地であり、周辺にはイスラエルの主要銀行・投資会社・テクノロジー企業が集積しています。

エドモン・ド・ロスチャイルド財団(イスラエル)は現在も活発に活動しており、イスラエルの農業技術・地域開発・高等教育への支援を継続しています。同財団はイスラエルのネゲブ砂漠での農業開発プロジェクトや、農村部の若者への職業訓練プログラムなどを支援しています。

またロスチャイルド・アーカイブ(ロンドン)は、ロスチャイルド家の歴史的文書を保存・公開する機関として、バルフォア宣言をはじめとする19〜20世紀の欧州・中東史の研究に不可欠な一次資料を提供しています。バルフォアからウォルター・ロスチャイルドへの宣言の原本もこのアーカイブに所蔵されており、世界中の研究者や一般市民が参照できるようになっています。

第八章 「ロスチャイルド陰謀論」を解剖する

1. 陰謀論の歴史的起源

「ロスチャイルド家が世界を支配している」という陰謀論は、現代のソーシャルメディアで生まれたものではありません。その起源は19世紀まで遡ります。

最初の大規模なロスチャイルド陰謀論は、1846年に匿名で出版されたパンフレット「ロスチャイルド王(Les Rois de l'époque)」に端を発すると言われています。このパンフレットはロスチャイルド家を「欧州の王を操る陰の支配者」として描写し、彼らへの嫉妬と反ユダヤ的感情を巧みに組み合わせた内容でした。その後、19世紀を通じて類似の文書が欧州各地で出回りました。

しかし陰謀論の歴史において最も有害かつ広範な影響を与えた文書は、1903年にロシアで出版された「シオン賢者の議定書(The Protocols of the Elders of Zion)」です。これは「ユダヤ人の指導者たちが世界支配を計画した秘密会議の議事録」を装った偽文書で、実際にはロシアの秘密警察(オフラナ)が反ユダヤ主義を煽るために作成したものであることが後に判明しています。この偽文書にはロスチャイルド家への直接の言及はありませんでしたが、「ユダヤ人による世界支配の陰謀」という枠組みがロスチャイルド陰謀論と結びつき、20世紀の反ユダヤ主義の最も重要なプロパガンダ道具の一つとなりました。

「議定書」はナチス・ドイツのプロパガンダに大々的に利用され、ホロコーストのイデオロギー的基盤の一つともなりました。英国の「タイムズ」紙が1921年にこれが偽文書であることを証明する調査報道を発表したにもかかわらず、この文書は現在でも中東・アジア・欧州の一部で出回り続けており、その害悪は今日も続いています。

2. 現代の陰謀論の構造

現代のロスチャイルド陰謀論は、インターネットとソーシャルメディアの普及によって新たな形で拡散しています。その典型的な構造は以下のようなものです。

まず「ロスチャイルド家は世界の中央銀行を支配しており、各国の通貨発行権を握っている」という主張があります。これは米国連邦準備制度(FRB)やその他の中央銀行がロスチャイルド家の所有下にあるという虚偽の主張です。実際にはFRBは米国議会が設立した独立した政府機関であり、ロスチャイルド家やいかなる私的個人・組織の所有物でもありません。

次に「ロスチャイルド家はバルフォア宣言を『購入』し、イスラエルを自らの利益のために作り上げた」という主張があります。本稿で詳述したように、バルフォア宣言は英国の複雑な戦略的・外交的文脈の中で生まれたものであり、単純に「ロスチャイルド家が作らせた」という説明はできません。ウォルター・ロスチャイルドが名宛人となったのは、英国系ユダヤ人社会の象徴的代表としての役割によるものであり、宣言の実質的な成立にはシオニスト指導部全体と英国政府官僚の長期にわたる交渉があったことは、本稿が示してきた通りです。

さらに「ロスチャイルド家は戦争や革命を意図的に引き起こして利益を得ている」という主張もよく見られます。ロスチャイルド家が戦時国債の引き受けによって利益を得たことは歴史的事実ですが、だからといって彼らが戦争を「計画・指示した」という証拠は存在しません。ナポレオン戦争でもウォータールーの戦いでも、ロスチャイルド家が特定の勝者・敗者を意図的に作り出したという証拠はなく、これらの主張は証拠なき憶測の域を出ません。

3. なぜ陰謀論は広まるのか

ロスチャイルド家をめぐる陰謀論がなぜこれほど広く、しかも根強く信じられるのかを理解するためには、陰謀論という思考様式の心理的・社会的メカニズムを理解する必要があります。

一つ目の理由は「複雑な出来事に単純な説明を求める心理」です。バルフォア宣言や中東紛争のような複雑な歴史的事象は、多数のアクター、複雑な利害関係、偶発的な要因が絡み合っています。これを「ロスチャイルド家が全部仕組んだ」というシンプルな物語に還元すると、理解が容易になります。しかしその単純さは現実の歪曲によって得られたものです。

二つ目は「不満・不安の「スケープゴート化」です。経済的困窮・社会的不安・政治的不満を抱える人々は、その原因を特定の集団に帰属させることで心理的な安定を得ようとすることがあります。「ロスチャイルド家(あるいはユダヤ人)が悪い」という物語は、この心理的ニーズに応えるものです。

三つ目は「部分的な事実の歪曲」です。陰謀論が危険なのは、完全なフィクションではなく、部分的な事実を含んでいることが多いためです。「ロスチャイルド家がバルフォア宣言の名宛人だった」「ロスチャイルド家がパレスチナへの入植を資金支援した」というのは事実です。しかしここから「ロスチャイルド家がイスラエルを作り上げた」「ロスチャイルド家が中東を支配している」という結論を導くことは、事実の文脈を無視した飛躍です。

4. 事実と虚構の仕分け:歴史学の視点から

ロスチャイルド家とイスラエル・シオニズムの関係について、証拠に基づいて言えることと言えないことを整理しておきましょう。

証拠に基づいて言えることは以下の通りです。エドモン・ド・ロスチャイルドは19世紀末から20世紀初頭にかけてパレスチナのユダヤ人入植地に多大な資金と支援を提供し、イスラエル建国の経済的・農業的基盤の形成に重要な役割を果たしました。バルフォア宣言はウォルター・ロスチャイルド(第二代男爵)に宛てた手紙の形で発せられ、ロスチャイルド家は英国政府とシオニスト運動を繋ぐ象徴的な橋渡し役を担いました。ジェームズ・アルマン・ド・ロスチャイルドの遺贈によってイスラエルのクネセト議事堂が建設されました。現在もエドモン・ド・ロスチャイルド財団はイスラエルの農業・教育・文化分野で活動を継続しています。

一方、証拠によって支持されない主張としては以下のものがあります。「ロスチャイルド家がバルフォア宣言を単独で計画・実現させた」という主張は事実と異なります。宣言は英国政府の戦略的計算、シオニスト運動の長年のロビー活動、ヴァイツマンをはじめとする多数のアクターの交渉の産物です。「ロスチャイルド家が世界の中央銀行を所有・支配している」という主張は証拠がありません。「ロスチャイルド家がイスラエルを自らの私的利益のために作り上げた」という主張も、証拠によって支持されません。ロスチャイルド家の支援は確かに大きなものでしたが、イスラエル建国は何百万人ものユダヤ人の集合的な努力と苦難の産物であり、一族の計画によって実現されたものではありません。

歴史学者のイーサン・バーは「ロスチャイルドについての陰謀論は、その家族の実際の影響力を過大評価する一方で、その活動の複雑さと多様性を完全に無視している。ロスチャイルド家は重要なアクターではあったが、歴史を単独で動かす力は持っていなかった」と述べています。

第九章 バルフォア宣言の歴史的評価

1. 英国政府自身による反省

バルフォア宣言の歴史的評価という観点から見ると、特に注目すべきなのは英国政府自身が宣言の問題点を繰り返し認めてきたという事実です。

1939年、英国政府内の委員会(チャンセラー委員会)は機密報告書において、「英国はパレスチナ住民の意思と利益を顧みることなくパレスチナを処分する自由はなかった」と率直に認めました。これは宣言から22年後のことであり、英国が当初から宣言の法的・道義的問題点を内部では認識していたことを示しています。

2017年11月2日、バルフォア宣言から100周年を迎えた際、英国外務省のアネーレイ卿(外務省担当大臣)は公式声明において「宣言はパレスチナのアラブ系住民の政治的権利の保護を呼びかけるべきだった。特にその自決権について」と述べました。これは英国政府が宣言の不備を公式に認めた歴史的な声明でした。

しかし英国政府はこの声明において謝罪はせず、宣言を「誇りに思うとともに責任も感じる遺産(a legacy we are proud of and also one we must take responsibility for)」と表現しました。この言葉は、宣言への評価が現在の英国においても一筋縄ではいかない複雑な問題であることを示しています。

パレスチナ政府(パレスチナ解放機構)は2017年の時点でもなお英国政府に正式な謝罪を求めており、この要求は現在も続いています。バルフォア宣言の道義的評価は、現在の英国・パレスチナ・イスラエルの三者関係において今日も未解決の問題として残り続けています。

2. 「自決権」の無視とその後の紛争への影響

バルフォア宣言の最も根本的な問題点の一つは、自決権という原則との矛盾です。宣言が発せられた1917年当時、パレスチナの人口の約90%はアラブ系住民(ムスリムとキリスト教徒)で占められていました。これほど圧倒的な多数派の意思を全く問わずに、少数派のために「民族的郷土」の設立を約束することは、自決権の原則と根本的に矛盾していました。

この矛盾はバルフォア自身も認識していました。1919年8月の覚書においてバルフォアは、「ウィルソン大統領の自決原則や国際連盟規約の文言にもかかわらず、英国はパレスチナについては現地住民の意思を確認する意図を持っていない」と率直に書き記しています。この文書は長らく機密扱いとされており、その内容は当時の公式の言説と大きく矛盾するものでした。

こうした矛盾を孕んだまま進められたパレスチナ政策が、後のアラブ=ユダヤ紛争、そしてイスラエル=パレスチナ紛争の根本的な原因の一つとなったことは、多くの歴史家が指摘するところです。国連安全保障理事会は今日に至るまで、パレスチナ問題に関して数十件の決議を採択しており、この紛争は「世界で最も解決困難な紛争」と呼ばれ続けています。

3. 多角的な歴史評価

バルフォア宣言に対する歴史的評価は、見る立場によって大きく異なります。

イスラエルおよびユダヤ人の多くの立場からは、バルフォア宣言はホロコーストという史上最大の迫害を経て実現したユダヤ人国家への正当な第一歩として評価されます。ヨーロッパで二千年近く迫害を受け続けたユダヤ人が、自分たちの国家を持つ権利を認められたことは、ユダヤ人の歴史における画期的な出来事だという評価です。

パレスチナおよびアラブ人の多くの立場からは、バルフォア宣言はパレスチナのアラブ系住民の意思を無視した一方的な約束であり、その後の「ナクバ(大惨事)」すなわちパレスチナ人の土地喪失・難民化の出発点として評価されます。英国は統治する権限も持たない土地を、そこに住む人々の同意なしに他者に与えることを約束したという批判です。

歴史学の観点からは、バルフォア宣言は帝国主義時代の産物として、当時の大国が小国・非西洋地域の住民の自決権を軽視することを当然視していた時代思潮の中で生まれたものとして位置づけられます。英国はパレスチナのアラブ系住民の90%の意思を問うことなく、一方的に少数派への約束を行いました。これは当時の欧州列強の植民地主義的思考様式を反映したものでした。

おわりに

1917年11月2日に書かれたバルフォア外務大臣からウォルター・ロスチャイルド男爵への一通の手紙は、その後の中東百年の歴史の形を決定的に方向づけました。この手紙が生まれた背景には、第一次世界大戦という未曾有の大戦争の中での英国の戦略的計算があり、シオニスト指導者たちの長年にわたる粘り強いロビー活動があり、エドモン・ド・ロスチャイルドをはじめとする支援者たちの数十年にわたる入植活動による「事実の積み重ね」がありました。

ロスチャイルド家はイスラエル建国の歴史において確かに重要な役割を果たしました。しかしそれは「ロスチャイルド家がイスラエルを作った」という単純な物語とは全く異なります。家族内でもシオニズムに対する立場は分かれており、英国系の第一代男爵はシオニズムを公然と批判しました。エドモン・ド・ロスチャイルドは政治的シオニズムと距離を置きながら個人としての入植支援を続けました。バルフォア宣言の名宛人となったウォルター・ロスチャイルドは、宣言の実質的な交渉においては補助的な役割を担っていました。

バルフォア宣言をめぐる歴史は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。一つは、国際社会が弱い立場の人々の自決権を無視したまま行われる「合意」がいかに深刻な長期的結果をもたらすかという教訓です。もう一つは、陰謀論という思考様式がいかに歴史の複雑さを単純化・歪曲し、特定の集団への憎悪を生み出すかという教訓です。

ロスチャイルド家とイスラエル建国の歴史は、単純な「悪役」も「英雄」も存在しない、複雑な人間の歴史です。その複雑さを直視することなしに、今日のイスラエル・パレスチナ問題の本質を理解することはできません。

参考資料・引用URL

本稿の執筆にあたり、以下の資料・URLを参照しました。

ロスチャイルド家・バルフォア宣言関連

バルフォア宣言・英国委任統治

国連・英国公文書・議会記録

シオニズム・ユダヤ人入植

アラブ代表団・パレスチナ問題

現代のロスチャイルド財団・現代的評価

陰謀論批判・反ユダヤ主義

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