うれしかったこと
菊地ひろみ
仕事帰り、高校生のカップルが恥ずかしそうに話をしている姿を見た。
「ぷーちゃん、いつか結婚しようね。」
高校生の頃の、彼氏に言われた言葉を思い出した。
仕事から帰ると、まず掃除機をかける。
洗濯物を取り込む。
畳んでタンスにしまう。
これだけで疲れがどっと溜まる。
一段落して、お風呂にお湯を貯める。
その間に夕ご飯の準備。
「ごめん、今日も残業。先に寝てて。」
夫から、タイミング悪く連絡がくる。
また女のところか。
結婚して10年経つまでは、浮気を許せなく怒り狂った。
しかし、経済的なこと、何より夫への未練がまだあった。
生姜焼きとほうれん草の白和え、きゅうりとタコの酢の物、大根のお味噌
汁。
30分でこれを作れるのに、女としてはもう用済みなのだ。
そっと自分の胸を触る。
若い頃に比べて、張りもなく垂れ下がってきている。
お風呂に入る時、背中の肉が下がっているのも見ないようにしてきた。
もう私は若くない。
お風呂から上がり、ビールを開ける。
ピコン!
「とっと」
私の不倫相手。
でも会ったことはない。
マッチングアプリでやり取りしている同じく50代の会社員。
メッセージだけなのに、なぜか惹かれてしかたがない。
「今日は疲れてない?無理してない?」
「すごく疲れました。クタクタ。甘えたい。」
「僕が肩をトントンしてあげる。」
言葉全てが優しい。
一度夫のカバンからラブホテルの領収書が出てきて怒り狂ったが、それす
らも相手にしてもらえなかった。
そのことを「とっと」に話す。
「辛いね。でも僕はいつもあなたしか見えていないよ。」
どんなに遅い時間でも、どんなに早い時間でもすぐに返信してくれる。
「どうしてそんなに優しいの?」
「好きだから。」
この歳で浮かれるなんて馬鹿な女。
でも、実際に会っているわけではない。
そう思い、毎日この関係を楽しんでいた。
「とっと」は身長が175㎝、体重は70㎏ぐらいだと。
似ている芸能人は、星野源と言われたことがあるという。
自分のことは、中肉中背の眼鏡をかけているセミロングの髪。
似ている芸能人は、リンドバーグの渡瀬マキと言った。
大嘘はお互いついていないと思う。
そして、お互い会わないことを何となく分かっている。
だから余計に「とっと」が愛おしい。
掛け違えたボタンが、いつの間にか元通りになっているかのよう。
「今、近くのスタバにいます。カフェラテで何時間いられるかな?
(笑)。」
「え?本当?僕も今スタバで仕事の書類を作成しています、家だと落ち着
かなくて。」
「一緒のところにいたら奇跡ですね。。。」
ガシャン
コップを落とした音がした。
振り返ると、少しくたびれた中年男性がこっちを見ていた。
少しだけ二人は笑ったように見えた。
「とっと」
バイバイ。
高校生の頃のドキドキをありがとう。
やっぱり、私は夫が好き。
でも、うれしかった。
うれしかった。
