雨の日にうつしあうへなへな
梅雨の真っ只中だった。
どこもかしこもじめじめしていて、空気は重たく、湿気が喉にまとわりつくような毎日が続いていた。
その日も、昼過ぎからぽつりぽつりと雨が降り出し、夕方には本降りになっていた。会社帰りの由佳は、傘を持っていなかった。アプリの天気予報では「曇り」だったはずなのに。しかたなく、小さな公園の東屋で雨宿りをすることにした。
東屋の下には、先客が一人いた。濡れたスーツにぐったりとした姿勢の中年の男性。顔は見えない。下を向いて、微動だにしない。
「すみません、少しだけご一緒させてください」
そう声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
目は虚ろで、肌はふやけたように白くなっていた。まるで長風呂しすぎた指のような、あの感じが顔全体に広がっている。
「ええ、どうぞ」
声はかすれていたが、確かに返事をしてくれた。由佳はなんとなく居心地の悪さを感じながらも、スマホを取り出して時間を確認する。19:08。
まだ雨は止みそうにない。
沈黙が続く中、男性がぽつりと言った。
「雨に…濡れると、溶けるんです」
由佳は顔を上げた。
「え?」
男の手元を見たとたん、由佳は思わず息を呑んだ。
手の指が……いや、指だったものが、べしゃりと広がり、まるでゼラチンのように床にくっついていた。皮膚がとろけ、肉が液状になっている。それでも、骨はないように見えた。
「ずっと隠れてるんです。こうして、雨に濡れないように……でもね、湿気だけでも、だんだん……へなへなに……」
男の顔も、さっきよりもさらに崩れている。目が垂れ、鼻が溶けて口とつながり、顔がぐにゃりと流れ始めている。
「あなたも……気をつけた方がいい…。ぼくのそばに来たからね。へなへなはうつるんだよ…」
由佳は後ずさろうとした。が、足元がぬるりと滑る。
「ぼくたちは……水に弱いんだよ……。知ってた? 人間の体って……六割、水分なんだってさ……」
その声が耳に届いたとき、由佳の足元に異変が起きていた。ヒールの中が、妙にぬるついている。蒸れている? そう思って足を動かそうとした瞬間――
ぐにゅっ
足首に違和感が。皮膚が……靴の内側に張り付いて、動かない。
驚いて片足を引き抜こうとすると、ぺちゃっという鈍い音がして、ストッキングごと肉の塊がべったりと地面に落ちた。
「えっ……? なに、これ……?」
足を見下ろす。脛から下が、まるで蝋燭のようにどろりと垂れている。
肌が薄い膜になってめくれ、その下から半透明のゼリー状の肉が、じゅくじゅくと溶け出している。
血ではない。赤くもなく、ぬめぬめとした体液に包まれたタンパク質の塊が、じわじわと広がっていく。
手を伸ばして自分の足を触ろうとした……が、指が曲がらない。
骨が抜けたみたいにふにゃふにゃと曲がり、手首から先がみるみるうちに弛緩していく。
「やだ……なんで、動かない……っ」
腕の皮膚が裂けるようにゆっくりと膨らみ、内部からぶよぶよの粘膜が溢れ出す。
皮がふやけて裂けたゆで卵のように、肉と肉の境界が曖昧になっていく。
顎がガクンと外れた。
口を開けようとしても、舌がもう、まともな形をしていなかった。
とろけたスライムのように、舌も歯茎も、どろどろと混ざり合って滑り落ちていく。
鼻が、溶ける。
頬が、垂れる。
片目が、ぬるんと滑り落ち、頬を伝って地面に落ちてぷちゅっと弾けた。
「あああ……っ」
喉から漏れる声も、やがて空気に溶けるように消えていく。
声帯すら、もう液状になっていた。
背中が崩れ、肋骨が見えかけたかと思うと、それすらもやしのように柔らかく、折れ、潰れ、溶ける。
すべての構造が失われていく。
皮膚はぬめり、筋は途切れ、骨はゼリーのように崩壊し、内臓は沈黙してただ流れる。
地面には、かすかに人間の形を留めたぬめりと、粘性の高い液体の塊だけが残った。
隣で、彼――最初にいた男も、ほとんど原型をとどめていなかった。
二つの「溶けた人間」が、東屋の床で、混ざり合うように広がっていく。
そして、静かに、ゆっくりと、雨がその液体を洗い流していった。
東屋の下には、もう誰もいない。
ただ、饐えた匂いが彼らの残香として漂っていた。
雨はまだ降り続いている。
人っ子一人いない公園は、彼らのことを誰も見かけていなかった。
雨が、饐えた残り香を跡形なく消し去ってったとき、
彼らの存在そのものが、なかったことになる。
へなへなは
突然変異でやってきて
うつしあっていくのだ。
雨の日に、ぐったりと傘を持たず
座り込んでいる、へなへな予備軍を見かけたら
ご用心、ご用心。
了
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