『胎話師 ゆきと』第5話
深琴さんと性交してほしいと、あろうことか旦那さんの透さんから頼まれてしまった俺は、逃げるように佐伯家を後にし、ダッシュで自宅へ戻った。
自分の部屋に戻るや否や、ベッドの上に倒れ込んだ。さっきの話は一体何だったんだろう…真面目な透さんが冗談を言うわけないし…。性欲旺盛な俺は胎話師?に向いてるなんて勝手に決めつけられても困るよ…。それから最後に一瞬聞こえたあの声は一体何だったんだろう…。もしかして、せっかく深琴さんといい感じになったのに、結局射精できなかったから、欲求不満で幻聴が聞こえたのかな。よし、一回抜けばきっと気分もすっきりして、落ち着くはずだ。
そう考えた俺は、さっき触れた深琴さんのおっぱいを思い出しながら、ベッドの上で自慰を始めた。あーよく考えたら、やっぱり、惜しいことしたよな。せっかく二人きりであんなことまでできたんだから、透さんが帰って来る前に、さっさと深琴さんと最後までしてしまえば良かった。邪念を拭い切れないまま、性欲処理を済ませ、心はともかく身体はすっきりしたはずなのに、またあの声が聞こえてきた。
「だからさ、そんなに深琴さんと性交したいなら、透さんの話に乗ればいいだけじゃない?人間ってほんと愚かな生き物だよね。手に入った時は簡単に捨てるくせに、手に入らないと分かると、死に物狂いで欲しがるんだから。どうしようもないよ。深琴さんだけじゃないよ。透さんだって、若い頃一度、ある人を妊娠させて、我が子を中絶させたことあるのにね。」
えっ…何?どういうこと?この声は俺の脳内の妄想か何かなのか?でも透さんが中絶させたなんて話は考えたこともないぞ。
「さっきから何なんだよ、この声は誰だ?」
「安心して。妄想でも病気でもないから。ぼくは愛心だよ、お兄ちゃん。いつもお墓参りしてくれてありがとうね。でもぼくはお墓にはほとんどいないんだ。」
えっ?何だって?この声の主は…弟の愛心だって?
「ま、愛心なのか…?何で俺におまえの声が聞こえるようになったんだ?」
「ぼくがお兄ちゃんに聞こえるように話しかけているからだよ。パパやママには聞こえないんだよ。お兄ちゃんを選んだんだ。」
「へぇ…そうなんだ。何で俺を選んだの?」
「うんとね、ぼくがちゃんと生まれられなかったせいで、みんな苦しんでいるじゃない?パパは分娩のお仕事やめちゃったし、透さんも…。深琴さんやママも会えなくなっちゃったし、みんなをバラバラにしてしまったのはぼくのせいだと思って。透さんや大学病院のせいでぼくは死産だったわけじゃないんだよ。ぼく自身の生命力の問題で、死んじゃっただけだから、誰のせいでもないってことをいずれ、お兄ちゃんからみんなにうまく伝えてほしいんだよね。」
愛心は自分が死産だったせいで、みんながバラバラになってしまったことを申し訳なく思っているらしかった。
「なるほど…愛心の気持ちはよく分かったけど、おまえも言う通り、死産だったことはそもそも誰の責任でもないのに、大人たちは勝手に自分が悪いって思い込んでるんだよ。俺が違うよって言ったところで聞く耳を持たないと思う。」
「それも分かった上で、お兄ちゃんに頼んでるの。大人ってさ、勝手に悲劇のヒロインや悲劇のヒーローになりたがるよね。大人は何でも一番理解してるって勘違いしてるんだよ。本当は、大人なんかより、生まれる前の命、胎児の方がこの世のすべてのことを知ってるのにさ。人間の傲慢さ、エゴ、欲深さ、嫉妬心、執着心、醜さ、汚れ、稀に出会えるやさしさ、美しさ、思いやり…すべてを承知した上で、ママのおなかに宿って生まれようとするんだよ。産声を上げて生まれたらすべて忘れてしまう掟があるから、そのことを生まれた人たちは忘れてしまっているだけで…。赤ちゃんが泣いてばかりなのは、生まれる前まで分かってたこと、覚えていたことすべてを忘れてしまって、自分が何者なのかも分からなくて困ってるからなんだ。そもそも忘れたことさえ忘れてしまっている子も多いけど…。失くしたものが多すぎて、喪失感いっぱいでパニックで泣いてるんだよ。」
俺の弟だと言い張る声の主は最初からやや話が長たらしくて、理屈っぽくて子どもらしさはなかった。もし本当に愛心だというなら、知能はまだ2歳児程度のはずなのに。
「ぼくのこと子どもっぽくないと思い始めてる?それは仕方ないよ。言った通り、産声を上げて生まれられなかった存在だから、胎児になる前からの記憶が全部完璧に残っているんだ。大人より何でも知ってるんだよ。人間は勘違いしてるんだ。大人になるにつれていろんなことをできるようになるんじゃない。生きるって、胎児のうちは知っていたことや記憶を取り戻す作業みたいなことなんだよ。長く生きると、またすべてを忘れてこの世から消えていく…。それが命のルールなんだ。」
うーん…。愛心っていう弟の言葉というより、こうなるとむしろ神さまとか仙人の教えみたいだな。
「そうなのか…大人なんかより、胎児とかもっと前の状態の方が偉いんだな。」
「別に偉いってことはないよ。何でも知ってるより、何も知らない方が平和かもしれないからね。知らない方が幸せで、知ってしまったからこそ、生きづらくなることも多いでしょ?大人は胎児を何も知らない無垢な存在って決めつけてるけど、さっきも言った通り、ぼくらは大人なんかより何でも知ってしまってるからね。無垢な方が平穏に過ごせるのになって思うよ。何も汚れを知らない状態に憧れる時もあるよ。」
「なるほどな…たしかに知らぬが仏って言葉もあるし、知らない方ができることも多いのかも。知ってしまったら、途端に躊躇してしまう…。」
「今のお兄ちゃんみたいにね。深琴さんや透さんのこと、何も知らない方がきっと関わりやすかったよね。知ってしまったから、戸惑ってるんでしょ?」
「あぁ、そうだよ。深琴さんが不妊治療してるとか、中絶したことあるとか知らなかった方が何も考えずに一途におかずにできてた。透さんだって、あんな人だと思わなかったよ。我が子を誕生させるためとは言え、まさか自分の妻と性交してくれなんて自ら不倫を頼んでくるなんてさ…。不倫とか浮気ってさ、俺のイメージだと、パートナーの相手に悟られないように、こそこそするものじゃん?お見通しの上、承諾されてするものじゃない気がするんだ。秘め事じゃないと気分が乗らないっていうかさ。」
「お兄ちゃんもさー面倒くさい大人になっちゃったよね。もっと子どもの頃の純朴な気持ちで深琴さんと接すればいいだけだよ。急にいろんな事情を聞かされて戸惑う気持ちも分かるけど、一番大事なのは、深琴さんのことをどう思ってるか、好きか嫌いかって気持ちだけでしょ?シンプルに考えればいいだけだよ。」
「好きか嫌いかって聞かれたら、深琴さんのことは好きに決まってるよ。昔から、今でもずっと。女は深琴さんのことしか興味持てない。」
「でしょ?ぼくだって、お兄ちゃんだって、ママを決める時、好きか嫌いかだけで選んだんだよ。お兄ちゃんは覚えてないだろうけど、胎児になる前、ぼくらは空の上ですでに出会っていて、同じママを選んだんだ。ママをみつけた瞬間、この人の子になりたいって、まだ子どもだってママから目が離せなくなってさ…。二人で一緒にずっとママの姿を追いかけてたじゃない?じゃんけんで勝った方が先に生まれようってことになって、お兄ちゃんが勝ったから、先にママの子になったんだよ?」
愛心は、俺はもちろん覚えていない、にわかには信じ難い空の上の世界の話も教えてくれた。
「へぇ…そんな世界があったんだ。全然覚えてないや。俺が覚えてる胎児の頃の記憶は自慰だけだからさ。」
「生まれてしまったら、全部忘れる掟があるから、仕方ないよ。空の上で学んだこと、この世のすべてを忘れてしまうとしても、不思議なことに生まれたいって願う子が多いんだよね。好奇心だけであのママの子になりたいとか、あの人とっても寂しそうだから、子どもになって側にいて助けてあげたいとか理由はいろいろだけど、ママの元に生まれて、ママに会って、一緒に生きてみたいって思ってしまうんだ。でも子宮に宿っても、その後いろいろ考え直して、生まれることをやめてしまう子も少なくないんだ。ママの子宮に宿れただけでいいやって、途中で空に帰ってくる子も多いんだよ。例えば自分でへその緒を首に巻きつけて子宮の中で自死する子もいるし…。お兄ちゃんが自慰を覚えたように、自死を覚えてしまう子もいるんだ。」
「なるほど…愛心の話を聞いてやっと分かったよ。だから、流産とか死産してしまう場合もあるんだ。母体に原因があるんじゃなくて、胎児自身が自分の意志で決めてる場合もあるってことか…。もしかして、愛心もそうだったの?生まれる直前で自死を選んだの…?」
「そうそう、決してママが悪いわけじゃないんだよ。胎児の生命力の問題だから。ぼくの場合は、自死とはちょっと違うんだよね…。死ぬつもりはなかったし、生まれたかったんだけど、お兄ちゃんと同じことをしていて、興奮し過ぎて、心臓に負担がかかってしまったみたい。事故みたいなものだよね。だから余計にママとパパに悪かったって思うんだ。」
愛心は少し恥ずかしそうに死の真相を白状した。
「へっ…?つまり自慰してて、興奮し過ぎて死んでしまったってこと?そんなこともあるのか…。」
俺以外にも、胎児のうちに自慰を覚えていた奴がいたなんて…。自慰マイスターの俺の弟らしい死に様だと思った。
「そんなこともあるみたい。ちょっと油断してたんだよね。またはぼくの心臓がちょっとだけ弱かったのかな。だからお兄ちゃんはすごいと思うよ。生まれる直前まで自慰していても、無事に生まれられたんだからさ。すごく性欲と、生命力が強いから、やっぱりぼくもお兄ちゃんは胎話師に向いていると思うんだ。」
「そうなのか…。自慰が心臓に負担かかるなんて、考えたこともなかったよ。でもたしかに心臓の弱い人や病気の人は興奮すると病状が悪化する場合もあるのかもしれないな…。俺は健康で丈夫だから、生まれる前からずっと自慰をし続けていられるのか。虚しい行為って思ってたけど、できない人もいるなら、何度でも自慰できる身体に感謝しないといけないのかもしれないな。」
幻聴ではなく声の主が亡くなって生まれた弟の愛心だと分かり、俺はいつの間にか愛心との不思議な対話にのめり込んでいた。
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