近代と想像力の制度化: 私たちはなぜ、他者の痛みを想像できなくなったのか?
【概要】
現代を象徴するもっとも冷酷な言葉、それは「生産性」ではないでしょうか。
かつて経済的な指標にすぎなかったこの言葉は、いまや人間の生存価値を裁く「裁判官」となり、私たちの社会に深い断絶をもたらしています。SNSで繰り返されるバッシング、効率の名の下に切り捨てられる弱者たち…、これらと生産性の神話は深く結びついています。
なぜ私たちは、生産性という「数値」で測れるものを重視する反面で、「数値」で測れない命の重さを語る言葉を失ってしまったのか。
なぜ、立ち止まって「もしも」と問いかける知性がフリーズしてしまったのか。
本稿では、経済学者である筆者が、経済学・歴史・哲学の視座を交差し、現代社会が陥っている「知性の退行」を鋭く分析します。
19世紀経済学が作り上げた「貢献の正義」の罠。
文明の衣を脱ぎ捨てた先に口を開く「うば捨て山」の論理。
そして、近代が必死に築き上げた「想像力の防波堤」をいかにしてナチズムが解体したのか。
これは、単なる社会批評ではありません。私たちが「人間」としての尊厳を取り戻し、不確実な未来を生き抜くための、たった「10%の余白」を巡る知の冒険です。
私たちが再び「なぜ」と問い、「もしも」と想像する力を取り戻すために…。
【本記事は第2章の途中までは無料でお読みになれます】
序論:断絶する社会のなかで――「声」を失う人々
現代を象徴するもっとも冷酷な言葉を一つ選ぶならば、それは「生産性」ではないだろうか。
かつて、この言葉は工場のラインや経済成長率などマクロ経済の成果を測るための、あくまで無機的かつ技術的な指標でしかなかった。しかし、今やこの言葉は人間そのものの生存の是非を裁く、まるで峻厳な裁判官であるかのような威光を帯びて、私たちの眼前に立ちはだかっている。
近年、性的少数者、生活保護受給者、高齢者といった、多くの場合は社会的弱者である人々に対して、社会がどのように対応すべきかというような議論のなかで、「生産性」を基準に価値や保護の正当性を測ろうとする言説が、時にはあからさまに、時には婉曲に、繰り返し現れるようになっている。
こうした言説は、少数者や社会的弱者の排除において起きているだけでない。それらの人々が自らの経験や苦境を語ろうとする行為それ自体が、SNSやネット空間などでの暴力的とも言える言論によってあらかじめ無効化されてしまい、発言や異議申し立てなどの機会を事実上封じられてしまうと言うようなことさえ起きている。そして、そのような「無体な暴力」が生み出す軋轢は、社会に深い断絶をもたらす。
それに対して、私たちはしばしば道徳や人道主義の名において批判を試みる。しかし、それらの批判がどこか空虚に響くのは、批判する側もされる側も、「生産性が価値を規定する」「生産性が価値の源泉である」という、現在の社会において当然視されてきた土台そのものに疑問を差し挟むことがないからではないだろうか。
本稿の目的は、個々の差別的発言あるいは言葉の暴力をことさら問題視したり、批判したりすることにあるのではない。むしろ本稿で私が問いかけるのは、その根源にあるものに対してである。つまり、なぜ私たちは「生産性という尺度」をこれほどまでに当然視するようになってしまったのか、そして、そこからこぼれ落ちた「知性」とは何であったのかを問い直すことにある。
近代とは、効率的なシステムの構築だけが重んじられる時代ではなかったはずだ。近代とは、即物的な判断の前に「なぜか」と問い、「もしも」と他者の身に置き換えて考える「想像力の制度化」の試みの時代であったはずだ。
本稿で問題にしたい対立軸は、「右翼か、左翼か」とか「保守か、リベラルか」というような、単なる政治的立場やイデオロギーの違いではない。「想像力を制度化する思考様式」と「即時的・即物的な判断様式」という対立軸こそが、本稿で議論したいものなのである。
前者は、判断の前に立ち止まり、「なぜか」と問い、「もしも」と他者の立場に身を置くことを制度として引き受ける思考様式である。これに対して後者は、目の前の効率性や損得勘定、短期的な負担感に基づいて判断を即座に実行する思考様式であり、想像力を感傷や偽善として退ける。
このうち後者の思考様式は、一般に「反知性主義」と呼ばれるものと重ねて理解することもできるだろう。ただしそれは、知識の量や学歴の問題ではなく、判断に時間をかけ、時には判断を遅らせる想像力そのものを拒否する態度として定義されることに注意していただきたい。
最後に、ここで用いる「想像力の制度化」という概念について、あらかじめ限定的な定義を置いておきたい。ピーター・ドラッカーが想像力や創造性が新しい価値や市場を生み出す推進力になると考えたことなどからも分かるように、一般に経営戦略や社会学では、想像力はアクセルとして使われることが多い。
しかし、 本稿が主眼とするのは、想像力の制度化のそれとは対極にある機能——すなわち、即物的な合理性や効率性の追求が暴走し、他者を排除しようとする瞬間に、知性によって強制的にブレーキをかけ、判断を保留させるための「防波堤」としての機能である。
近代における想像力の変容を論じた先行する諸論考(例えば社会批評や思想史的アプローチによるもの)と問題意識を共有しつつも、本稿の独自性は、それを経済学における「貢献の正義」という計量的パラダイムへの応答として捉え直した点にある。思想としての想像力ではなく、社会システムが生存の論理に退行することを防ぐための「知性のマージン(遊び)」としてこれを再定義し、その存立条件を問うことが本稿の目的である。
次章では、上に述べてきたような想像力の後退の根源を、19世紀以降の経済学が洗練させてきた社会的貢献の有無で正義を「計量」しようとする考え方に求め、その成立と帰結をたどることから議論をはじめたい。
第1章:「貢献」という正義
1.測定される「人間」
現代社会において、私たちが何らかの公的・私的な評価を受けるとき、常に背後に控えている影のような概念がある。それが「生産性」、つまり市場や組織における「生産への貢献の程度」である。
私たちは、自分がどれだけ社会の役に立っているかを証明しなければならないという、強迫観念にも似たプレッシャーの中に生きている。そして、その証明書としてもっとも有力なのが、市場でいくらの値がついたか、あるいはどれほどの付加価値を積み上げたかという生産性に起因する「数値」である。
この、人間を「生産性の多寡」、つまり「生産のためにどれだけ貢献したか」という「測定可能な貢献」に還元して評価する仕組みを、本稿では「貢献の正義」と呼びたい。この正義感は、近代が封建的な身分制から脱却し、個人の能力や努力を正当に評価しようとした「解放のロジック」として誕生した。しかし、その甘美な響きを持つ正義こそが、現在、私たちの想像力を閉じ込める檻となっているのである。
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