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成功する研究2選・失敗する研究2選

佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生です。15年以上続けた会社員生活を辞めて、博士課程の学生をやっています(研究対象は三国志)。

2026年春学期(ぼくにとっては博士後期課程3年の前半)が終わろうとしています。金曜日に1コマを受けたら終わります。

大学院に出入りするようになって、さまざまな大学院生の研究を見てきました。自分の試行錯誤はもちろん、先輩・同輩・後輩にわたって、さまざまな研究を見てきたつもりです。経験則から、成功する研究の2パターンと、失敗する研究の2パターンが見えてきた気がします。

この記事では凝縮して結論だけ書いているので、乱暴な感じになっちゃいます。ここから派生して、パターンごとに押し広げた記事を書けます。先輩の成功パターンは、羨んで見守りました。先輩の失敗パターン(とぼくが思うもの)は、無言で察して遠ざったのでしょうか。同輩・後輩が失敗パターンに迫っている場合、相手との関係性とか、ゼミでの雰囲気によりますが、「言ってもいいや」と思ったときだけは、正面から言ってきました。

成功する研究2選

①誰よりもその題材に詳しくなりたい
②絶対に反論したい先人がいる

①誰よりもその題材に詳しくなりたい

人文系の研究では顕著ですし、それ以外でも自分でテーマを選べる場合は同じだと思いますが、
①誰よりもその題材(研究対象)に詳しくなりたい、という野心をもっている場合、研究がうまく行きがちです。

「それは単なるオタクの心性であって、研究の成否とは異なるのでは?」などと、訳知り顔の反論がくるかも知れませんが、そんなことを言って冷や水をかける人がいたら、知識でぶっ飛ばせばいいと思います。
「よく知ってる/よく読んでる」と感じさせる人が書いた論文は、凄みがあります。圧倒されます。ふつうにすごいです。

少なくとも同時代(現代・現役)の研究者のなかで、その題材(研究対象)について、自分が一番詳しいという自負がある、誰よりもその題材を読んでるぞという自負がある。あるいは、まだ劣っているかも知れないけれど、時間さえかければ、数年以内に追い抜いてやる。
このように考えていると、わりと研究でうまくいく。

ぼくの研究分野(中国の思想史)ならば、この書物(文献)については誰よりも詳しいとか、この人物が書いた物については誰よりも読んでいるとか、この系統や分野の一連の説については任せておけ、みたいな。

②絶対に反論したい先行研究がある

結局は、①特定の題材にもっとも詳しくなる、というモチベーションがすべてという気がしますが、次点として、②絶対に反論したい先人の研究者がいる、というのも、成功するパターンだと思います。
「この人は、あの題材をそのように分析・意味づけしているが、絶対に違うと思う。とても納得することができない!」というやつ。

混同してはいけないのは、「批判すれば論文になりそうなネタ、先行研究の弱点を見つけたので、そこを突くために論文を書く」みたいな姿勢は、成功パターンから遠ざかります。そういう器用なマーケティングみたいなことをしても、ふつうは成功しないと思います。再現性が乏しい。

卒業論文のとき、なんか先行研究を批判しないといけないらしいから、とりあえず批判しておくか、という、ムリヤリに捻り出したような批判の文体も、失敗パターンの典型です。
あと、卒論の学生が書きがちな、「先行研究でやられてない」というのも、有効ではありません。※先行研究が手薄なのは、相応の研究史上の理由があるのであり、そこを突いても仕方がないことが多い。

ポイントは、「この人の言っていることは、絶対に違うと思う!」という、不倶戴天の(勝手な)ライバル認定です。敵愾心に接近しかねないほどの、強い意気込みです。
批判できるから批判する、訂正できそうだから訂正するのではないです。「批判せずにおけない、訂正せずにおかれない」という、居ても立ってもいられないほどの、怒りのようなものが中心にないとムリです。

ピュアな青少年を気取ったキレイゴトではないか?という気がしますが、根源に、①研究対象への入れ込みか、②絶対に相容れない先行研究の存在がないと(よほど論文を書くことに能力を特化させた異能の天才でない限り)研究として成功させるのは難しい。

大学院生は修行中の身ですから、再現性が高いであろう、通常の成功ルートから攻めればよいのでは。

失敗する研究2選

③結論ありき・社会運動としての研究
④大学教員への就職の手段としての研究

③結論ありき・社会運動としての研究

研究をした結果、とある結論が導き出され、それが社会に何らかのインパクトを持つことはあるでしょう。

そういうことが、求められていそうな風潮がないではない(本当に求められているのかは不明)。予算申請などで、そういう、聞いた風なことを書かされる欄があるけれど、誰が真剣に読みたいのかも謎。

さきに結論ありきで、当人がやりたい社会運動に役立てるために、研究の体裁を取ってエビデンスらしきものを集めるならば、もはや研究とは呼べないと思います。
それは、研究が「科学(サイエンス)」だからダメなんじゃない。客観性や合理性が損なわれるからダメなんじゃない。「科学(サイエンス)って何だっけ?」「客観性・合理性って何だっけ?」という問いだって、いまだに誰にも分かってないですからね。客観性や合理性、実証性や統計学を持ち出す批判は、筋が悪い。これらは、容易に偏向性に屈する弱々しい概念です。

そうじゃなくて、
結論ありきだと、単純に「目が曇る」からダメだと思います。

研究の現場にいると、「その証拠から、その結論に行くのは、かなりムリなのでは?」という主張に出会うことがありますが、その場合、当人の強すぎる社会的(あるいは国家的な)立場が、悪さをしています。
当人のなかに、論証不要の前提が、どーんと幅を占めていて、その部分で思考回路がショートしている。だから、仲間内では「そうだそうだ」と称賛されるかも知れないが、一歩外に出たり、5年か10年ほどの時間が経過したりすると、「何を言っているんだ?」ということになる。

これ、難しいんですけど、当人が価値中立的であるべきで、なんの政治的・社会的な主張もない状態でしか研究をしてはいけない、とまでは言っていないんです。成功するパターンで言ったように、①題材へのこだわり、②先人への反論は、当人の関心から生まれてくるものです。

研究の入口に、価値観や主張があってもいい(というか、価値観や主張がない人なんていないと思います)。そして、研究の出口から少し先に、価値観や主張に接続してもいい。ただし、研究それ自体が、社会運動とか政治活動になってはいけない。それは研究ではない。

いまは、インターネットという便利な道具が、万人に等しく配られているのですから、本業の「運動」「活動」のほうに、最初から注力されたほうが宜しいのではないですか。

④就職の手段としての研究

大学院生になり、博士後期課程に来ちゃった。生活を成り立たせるには、大学教員になるしか道が残っていない。それは現実的にわりとそうです。就職のためには、業績・学位が必要です。業績は多ければ多いほどよいし、学位取得は早ければ早いほどよい。
これは、正規ルートです。

でも、就職(生活)の手段としての業績稼ぎ、就職の手段としての研究というものに、ぼくはとても懐疑的です。このあたりは、ほかの大学院生とか、先輩たちと相容れないのかも知れない。

順序として、学問をした結果、業績が増えることは普通にあるし、学位が降ってくるし、大学教員になることもできるでしょう。しかし、目的と手段が転倒していると、研究がつまらなくなりがち。そういう研究は、他の研究者たちにも、透けて見えてます。
研究の評価というのは、かなり偶然性と恣意性に支配されて、公正だとは思えないけれど、見ているひとは見ているし、分かっているひとは分かっている。そして、割り切っているひとは、それも含めて割り切っているけれど、そのように割り切っていることも、同業者からは丸見えになっている。

あなたが人生2周目(アラフォーでFIRE同前に会社を辞めて大学院にきた)から、そんなキレイゴトを言えるんだ、という反論があるでしょう。そのとおりだと思います。しかし、読んでも仕方がないペーパーが量産されていくのは、少し悲しい。せっかくならば、当人の実力が存分に発揮された研究成果を読みたい。

業績、学位、そして立身出世。評価の不公正。
これって、べつに研究の世界に限ったことではなくて、社会の至るところで、防げないし困ったものだけど、どうにもならない問題だなあ、として議論されていることです。
「出世の手段として、仕事を曲げる。美学を捨てる」というのは、ぼくにとってはちっとも目新しいことじゃなくて、今さら驚かないというか。大学院に来てまで、そんなのを見たくなかった、というのが本音かも。

歓心を買うための営業活動や社内政治というものは、今日もこの社会のそこらじゅうで行われていますが、そのPDCAサイクルはお手軽に高速に回せるんです。心を捨てれば、ゼロコスト。
しかし、研究業績で同じことをやろうとしても、論文を1本書くのにも数ヶ月かかるでしょう。PDCAサイクルを回すのが重すぎる。媚びるネタ、やってる感を稼ぐネタとして、研究活動(論文)は、コスパが悪いんです。

計測や評価によってパフォーマンスが低下することは、リンク先の本に限らず、資本主義とか、経営学・組織運営などに引き付けて、無限に論じ尽くされているので、これ以上は言うまい、という感じです。

毎回、めちゃくちゃシラケる(口を利いてもらえなくなる)んですけど、ぼくは信念と実感に基づいて、よく言うんですよ。
「生活費と職業を得るために研究をするというのは、ぼくにとっては意味が分かりません。ふつうに一般企業で働いた方が、遥かに期待値が高いし、コスパがいいし、安定性も高いですよ。就職の手段としての研究というのは、割に合わない。合理性がない」

カネが必要ならば、稼ぐ方法なんて無限にある。大学教員は、決して割が良い商売だとは思えない。就職しにくい(入口からして期待値が低い)し、激務になりかねないし、転職が簡単でもない。

大学院生の年数を重ねたとして、損切りができない、サンクコストにこだわってしまうのも分かります。しかし、行動経済学のなかで、50万回ぐらい論じられてきたパターンですから、そんなにこだわっても仕方がない。当事者だと特別感があるかも知れませんが、カネ勘定の世界では、ありふれた落とし穴であり、路線転換するのがまだマシだと、結論が出ていますよと。
当人は、厳しい現実を引き受けたふうに経済性を語っているのに、かえって経済性から遠ざかるのは、見ていられません。焦って中途半端なものを書き散らすよりは、一般企業に応募した方が宜しいかと思います。

最後に繰り返します。

成功する研究2選

①誰よりもその題材に詳しくなりたい
②絶対に反論したい先行研究がある

失敗する研究2選

③政治や社会運動としての研究
④就職の手段としての研究

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