「あるお客様の風景」❶〜結婚記念日【第三話】
「あなた、ミニトマトは嫌いじゃなかった?」
もぐもぐとミニトマトを咀嚼する夫に私は尋ねた。
「意外と美味しいね。今まで食べず嫌いだったかな」
夫は細い目をさらに細めて笑った。それは久しぶりに私に向けられた彼の「穏やかな笑顔」だった。私をいつも安心させてくれた笑顔。いつしか、夫は私と視線を合わせないようになってしまった。
夫が仕事を続けることが困難になるほどの鬱病を患ったのは三年前のことだった。私がいち早く彼の心身の変調に気付くことができていれば彼が心療内科にかかることは防ぐことができたかもしれない。罪の意識という針が私の心をいつまでもチクチクと刺し続ける。
鬱病と診断されたことが彼の精神をさらに変質させていった。気難しくなって、そして、涙もろくなった。癇癪と号泣の波が交互にやってきた。溜まりに溜まった感情というダムが決壊したように私には思えた。
最初、彼を精神の病に追いやった原因は仕事だと思っていた。でも、もしかしたら原因は私にあるのかもしれない。私との結婚生活が彼にある種の我慢を課していたのだろうか?でも何を?私には分からなかった。でも考えても仕方がないことのようにも思えた。私に原因があったとしても、それを取り除くことは決してできないことのように思えたのだ。もし無理をしてそうしたら、私が私でなくなってしまう。そこまで考えた時、もしかしたら、彼も同じだったんじゃないか。夫は私といる空間、時間を心地よいものにするためにかえって自分を殺してしまったんじゃないか。
夫と別れるべきだと考えたのは実にその時だった。いや、あの日、、お酒を飲みすぎて、タクシーの中で吐いたりしなければ、あるいは彼と結婚していなかったかもしれない。
世の中の男女は何がきっかけで結婚というものに踏み込むのだろう。きっかけはそれは、結婚以外のほとんどがそうであるようにとても些細なことなのかもしれない。
「お待たせいたしました。金のチーズハンバーグと金のウインナーのワンプレートでございます」
威勢の良い声が私の思考を中断させた。なんとも言えない良い匂いが鼻腔をくすぐる。
【第四話につづく】
