その怨み、晴らします……第12話
元カノと毒親のブルース①
「おはようございます。今日は皆さんに報告があります」
編集長の田所は朝一番にスタッフ全員を集めた。
急な招集に、昇給、臨時ボーナス、人事異動など、スタッフたちはにわかにざわつき始める。
功佑も少し遅れて周囲の流れに倣う。
『報告』は、いつも自分にとっては関係の無いものばかり。誰かの記事が賞に選ばれたとか、協賛店舗の売り上げがアップしたとか、彼の実務上差し障る事は皆無。今回も関係のない『報告』だろう。
「急ではありますが、今日から新しい仲間が加わる事となりました」
田所のその言葉に、周囲は一層ざわついた。
「今後FMたかなえと連動したキャンペーンを実施していく予定です。その企画室長として、FMたかなえより出向で、こちらに来ていただくことになりました。篠北君、どうぞ」
田所の言葉の後、編集長室のドアが開き、一人の女性が姿を現した。その登場にざわつきは歓声へと変わった。
紺色のタイトなスーツに身を包み、身長は百六十センチほど。華奢ではあるが、アスリートのように引き締められた、しなやかさを兼ね備えたボディライン。知性と品格を湛えた相貌に、オーバルタイプの眼鏡が、親しみやすさを印象付けている。
気の強い杏奈とも、柔和さの中に狡猾さを隠し持つ小林とも似て非なる、教養と女性らしさが、彼女からは醸し出されていた。
功佑もその魅力に一瞬、目を奪われる。そして改めて周囲を見渡すと、男女問わず皆一様にして、彼女の魅力に魅了されているようだ。
『企画室長か……多分、殆ど接点ないな……』
功佑は彼女の肩書を少しだけ残念に思った。
『何を期待してんだろ?』
自問自答する自分が可笑しくなって、功佑は笑みを噛み殺した。
「篠北君、一言ご挨拶をお願いします」
「初めまして! 篠北花(しのきたはな)と申します。急な決定で皆さん同様に、実は私も戸惑いが隠せなくて、物凄くドキドキしています。えっと、FMたかなえでは主にイベントの企画、運営を担当していました。今回の『企画室長』という役職は、この人事に合わせて頂いた肩書きです。なので、昨日までは普通の平社員で、もう、しこたまこき使われてました」
彼女の言葉に笑いが起こり、羨望の空気の中に温和な風が流れ込んだ。
「なので、はい! 何でもやります! 特に出版事業は初めてで、正直、右も左も分かりません。あとちょっとだけ人見知りな所もあるので、皆さんにご指導ご鞭撻いただけるとほんとに助かります! 肩書き関係なく、皆さんとアットホームな関係になれたら嬉しいです! 今日から頑張りますので何卒よろしくお願いします!」
人見知りとは思えない流暢な挨拶の後、篠北は深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
皆の歓迎の声が重なり、いつしかそれは拍手へと変わっていった。
「ということで、今日から新しい戦力が加わりました。一緒に切磋琢磨して参りましょう! そうだね……えっと、河東君、暫く篠北君と一緒にうちの諸業務をお願いします」
田所は平然と言い放った。
「えっ?……」
寝耳に水、藪から棒に名前を呼ばれた功佑は耳を疑った。
「何か問題でも? 君が一番うちの諸業務に精通しています。私は適任だと思いますが……不服ですか?」
「あ、いえ、その……いや、滅相もありません」
功佑が戸惑いを隠せずにいると、篠北は一歩前に出て、
「河東さん、どうかよろしくお願いします!」
と、はにかみながらも、満面の笑みで功佑に頭を下げた。
「あ、はい! よろしくお願いします……」
彼はそうとしか答えられなかった。
昼休み。
「わ! さすがおやじー! めちゃくちゃ美味しいわ!」
功佑はいつものように屋上で一人、忍野特性のサンドイッチとコーヒーに舌鼓を打っていた。
午前中にかけて、功佑は篠北に社内を案内して回った。備品の場所や掃除用具、清掃の水準や、給湯室の各個人のコップから、それぞれの専用の茶葉ないし、コーヒー豆やその挽き具合など、功佑は篠北に頼まれるがまま、事細かに丁寧に説明をして回った。しかし回る先々で皆、篠北に声をかけて談笑が始まる。その隙間を縫いながらの説明を余儀なくされ、一時間ほどで終わるつもりが、本当に午前中いっぱい掛かってしまった。
昼休みになると、皆一斉に篠北を取り囲む。功佑は挨拶もそこそこに、その人だかりをくぐり抜けて、一人屋上へと走った。きっと彼女は今頃、野沢たちと一緒に鰻とかステーキを食べてる事だろう。
「お疲れちゃん!」
功佑がコーヒーを飲み干すと、コンクリートをすり抜けて杏奈が現れた。
彼らは桃果との一件の後、未だに解決していない一連の殺人事件について、その後も調査を続けていた。杏奈は第一報を報じた週刊誌の出版社に出向き、可能な限り担当記者への憑依を試みていた。その合間にここに寄ったのだろう。
「あれ? なんか機嫌良さそうじゃない? なんか良いことあった?」
杏奈は功佑の顔を見るなり、嬉しそうに茶化す。
「え? そうかな? 何もないけど……」
「本当?」
杏奈は悪戯に笑うと、功佑の隣に座り込んだ。
「で、事件の話。スマホ――」
言い終わる前に杏奈は何かを感じ取った。
「誰か来る!」
杏奈はそう言って目を見開くと、一瞬にしてその姿を消した。
「え? あんじー! どうしたの?」
杏奈に促されてスマホを手にした功佑は、彼女の突然の消失に戸惑う。
「河東さん、こんな所にいらっしゃったんですね!」
その途端、背後から白いビニール袋を持った篠北が、不思議そうな顔をして現れた。
「あ、いや、僕、いつもここでお昼なんで……」
杏奈が居た手前、しどろもどろに答える功佑。
「あれ? どなたかと一緒じゃなかったんですか? なんかお話しされてたみたいですが……」
よもや杏奈との会話を聞かれたのか? されど視える能力が無ければ、杏奈の姿も声も聞こえないはず。功佑が一瞬、答えに窮すると同時に、彼のスマホから誰かの話し声が聞こえ始めた。慌てて功佑はそれを確認すると、画面には知らない女性のライブ配信動画が流れていた。
「あ、いや、お恥ずかしい……ちょっと、ライブ動画を観てたもので……コメントしながら、喋っちゃってました……」
その動画に配慮を察した功佑は、さも恥ずかしそうに誤魔化した。
「みんなとお昼ご飯、行かなかったんですか?」
話題を切り替えるように功佑は切り返した。
「私、お昼に重いもの苦手なんです……皆さん鰻とかお肉でしょ? あんなの食べたら午後からお仕事に差し支えます。だから下の売店でこれ、買ってきました」
そう言いながら、篠北はビニール袋からサンドイッチを出して見せた。
「あ、河東さんもサンドイッチですか? しかも手作り? めっちゃ美味しそう!」
忍野特性のサンドイッチを見つけた篠北はその目を輝かせた。
「え? 食べてみます?」
「はい! シェアしましょ」
そう言うと篠北は、先程杏奈が座った場所に腰を下ろす。そして二人は、忍野のサンドイッチに舌鼓を打つのであった。
「なんなのよ! あの女」
杏奈は足早に功佑の職場を立ち去ると、苛立ちを露にした。
されど、彼女のその声を聞き取れるのは功佑、春氏、忍野だけ。或いはその声音に引き寄せられる低俗霊たちのみ。
憑依で疲れた身体を癒す意味も込めて、功佑の元に戻ってきたのに、女の登場でそれは一瞬で絶ち切られた。更にはまんざらでもない功佑の態度に、腹立たしさは募るばかり。
往来する人の流れの中で、杏奈は一人立ち止まる。
わずか数秒止まっている間にも、数えきれないほどの人たちが彼女の中を通り過ぎていく。
以前、怨念の塊だった時は、街行く幸せそうなカップルを見つけると、無意識のうちに憑依し、くだらない霊障を引き起こしていた。そしてその怨念は鎮まる事を知らない。彼女はカップルたちを、次から次へとその毒牙にかけては、潤う事のない渇きに没頭していた。
しかし、それを引き止めたのが功佑だった。
『そのわだかまり、僕が受け止める……』
彼の言葉は、まさに彼女が求めていたもの。そして一時の気休めではなく、彼は日々彼女の声に耳を傾けた。その傾聴によって彼女は自分を取り戻し、今に至る。
しかし……
『でも所詮、私は幽霊……生きている訳じゃない』
そんな思いが、彼女の胸の内をついばむ。
杏奈はガラス張りのビルに映る、行きすがる人の姿に視線を落とす。そこには何人もの人が映り込み、そして消えていく。その真ん中に立つ彼女の姿はそこには映らない。そう、自分はここには『居ない』……
杏奈は苛立ちと孤独を誤魔化すように大きくため息を漏らした。
そして彼女は歩き始める。早い足取りで、少しでも遠く功佑から離れるように。
彼と距離を置くことは即ち、霊力の著しい低下を意味する。
彼女は意地になってひたすらに歩き続けた。目元に溢れる熱いものをただのまやかしと否定しながら。
離れるだけ離れて、私なんてこのまま消えてしまえばいい……
「はあ……はあ……」
一時間ほど歩き続けた彼女は、さすがに息苦しさを感じ始めた。視野も徐々に狭まり、手足の感覚もなくなり始めていた。
杏奈は胸を押さえながら立ち止まった。ここまで功佑と距離を取ったのは初めてだ。
流石にこれ以上歩き続けたら、霊体としての実体を保てなくなるかもしれない。
そこまで来てやっと、自分は馬鹿な事をしたと、彼女は我に返った。
「ちょっと、休憩……」
人知れず呟くと、杏奈は視線の先にあった植え込みの縁に腰を下ろした。
そして今一度、周囲を眺める。
広く取られた歩道に隣接するのはセレクトショップや、テラス席の設けられたカフェ。杏奈はそのカフェにどことなく懐かしさを覚えた。
「あれ?」
杏奈はその光景に目を疑った。すかさず反対方向にも振り向く。
彼女の視線の先には信号があり、その下を横断歩道が走っている。
そしてその目の前を、歩行者同様にたくさんの車が往来している。その行き交う車のスピードに、蓋をしていた記憶が彼女の中に息を吹き返した。
『届けなきゃ……』
あの日の焦燥感が胸に甦り、彼女は喉を詰まらせた。
そう、この場所は桜井と待ち合わせた場所であり、彼女が命を落としたあの場所。
不意に現れる桜井の残像。彼は以前のように無邪気な笑顔で杏奈を見つめる。
そして、おいでと言わんばかりに両手を広げる。
「嫌!」
杏奈はその残像を拒絶した。
生前の彼女はどんなに見え透いていても、信じる事を選択し続けてきた。しかしそれは背徳行為を容認し、裏切りの末にその幕を閉じた。今、ここでこうしているのも桜井を信じたが故。
『あの男、やめといたほうがいいよ』
『あんなクズ野郎のどこがいいの?』
幾度となく受けた忠告も息を吹き返し、それらは微細な針となって彼女の胸中に突き刺さってゆく。
『信じた私がバカだった。薄々は勘づいていたのに、それを認めなかった、認められなかった私が一番のバカ……』
針に塗られた毒がまわり、ついには自分を責め始める杏奈。固く目を閉じ、歯を食いしばり、その場にうずくまる。
桜井との楽しかった日々、わだかまりを覚えた瞬間、彼の為に大金を引き出した瞬間、それを受け取った時の桜井の笑顔、そして急に態度が硬化した桜井の冷たい顔、様々な瞬間と桜井の表情が、走馬灯のように彼女の脳裏を駆け巡る。
『お願い……やめて!』
そう叫んだ途端、目の前は暗転し、暗闇に包まれた。
何も見えない。何も聞こえない。されどその闇は、絶望に墜ちた暗黒ではなく、雑多な煩わしさを排除した静寂。そして何よりも彼女を優しく包み込んでいる。
『……ぶ』
『……じょうぶ』
その暗闇から聞こえる誰かの声。その声は、粟立った杏奈の心の内に染み込み、そしてそこはかとなく馴染んでいく。その声が明瞭になるにしたがって、彼女の心も落ち着きを取り戻していく。
『大丈夫。あんじー』
杏奈の目の前には、いつものように優しく微笑む功佑が立っていた。
その声と姿に彼女は胸を撫で下ろす。
『今の私には、こうじーが居る……』
杏奈はそっと目を開ける。目に映るのはアスファルトの舗装と歩道の縁石。
彼女はうずくまったまま、その場所に倒れ込んでいた。ゆっくりと立ち上がり、今一度周囲を見渡す。
「いや! おじさん、きらい!」
突然、背後から幼い少女の声が聞こえた。
「あ、ちょっと……しのぶ! 待ちなさい!」
続いて金切り声の女性の声が聞こえる。
「ごめん……しのぶちゃん、おじさんが悪かったよ……」
それに続く頼り無い中年男性の声。少ししわがれていて疲れを帯びたその声は、特有の『甘さ』を滲ませていた。その声に、過去の自分が再びざわついた。
その『甘さ』を私は知っている……
「え?」
杏奈は咄嗟に背後に振り返った。そして目にした光景に息を飲む。
「嘘……なんで?」
三時間前。
忍野は先日桃果を見つけた大戸岳へと、春氏と一緒に訪れていた。
先日の死体の山は即日処理され、まるで何事も無かったように、大戸岳はいつもの顔に戻っていた。
大戸岳。
高苗市の中心に位置する、標高二百五十メートルの孤立峰。手付かずの天然林で形成され、数多くの動植物たちが生息している。また、四季の移ろいの変化が見事で、観光名所としても人気だ。特に頂上の展望台からは高苗市が一望出来、昼間は家族連れ、夜はカップルたちの憩いの場となっている。また登山道の入口が、高苗市が管理を任されている自然公園。登山ルートはその公園から伸びる一本のみ。そこ以外の入山は、自然の景観とそこに息づく生物たちの生息環境を護るという観点より、原則禁止されている。とは言え、登山ルートから一歩外れると、鬱蒼と生い茂る木々や草が織りなす樹海と化す。流石にその様相に近づく者は少なかった。
「昔はこの山は神の降り立つ山として恐れられ、誰も近寄ろうとはせんかったでござるな。しかしながらその異名は誠か、大戸岳の裾野の一帯は豊作に恵まれ、一度たりとて飢饉に見舞われた事は無かったでござる」
およそ五百年前の大戸岳の様相について、春氏は記憶の糸を辿る。
「神の降り立つ山……なんでそう言われとったか、うっじーは覚えとらんのけ?」
「拙者の記憶では、所謂信仰の対象とされる、神の祀られる山という括りとは違うて、人が踏み込んではならぬ『禁足地』としての印象が強かったでござる。そもそも『神』という存在は現代のように都合のいい解釈ではござらんで、言わば人ならざる者。崇拝というよりも、畏怖の象徴でござった。嘘か誠か、この山に入った者は生きて戻れぬ、或いは生きて戻ったとしても、気が触れた狂人と化し、災いをもたらす元凶となると言われておったでござる」
「触らぬ神に祟りなし……じゃな」
既定のルートから見える大戸岳は、おおらかで優しい。しかし、そのルートから一歩外れただけで、その表情は一変する。忍野たちも先日、その表情を肌身に感じたばかり。春氏の発言の信憑性も相成って大戸岳には何かしら秘密がある、二人はそう確信するのだった。
「ほら! しのぶ! 走らないの! 転ぶわよ!」
登山ルートを登っていた忍野たちの前を、一人の少女が駆け抜けていった。
少女は母親らしい女性の声に振り返ると、
「おじさん来るんでしょ? 早く迎えに行こうよ!」
嬉しそうに大きく声を張り上げた。
忍野はその少女の姿につい、幼き頃の澄子の面影を重ねてしまう。
澄子もこの大戸岳の頂上の展望台が大好きで、幼少期はよく一緒に登っていたものだ。それを思い返すと、忍野はその少女がなんとも愛しく、可愛らしく見えた。歳は四、五歳ほどの幼い少女。その見た目とは裏腹にしっかりとした口調と、どことなく大人びた表情が更に澄子と重なり、忍野の頬は一層に緩む。
「待ち合わせは十二時だから、そんなに急がなくても……」
母親らしい女性の息を切らす声が、忍野の背後に届いた。
「!」
忍野はその声にハッとして母親の方へと振り向いた。
その瞬間……
「おやじー殿、どうなさったでござるか?」
まるで金縛りにでも遭ったかのように、忍野は突然動けなくなった。
「な、なんじゃと……」
彼はその目に飛び込んできた女性の姿に息を飲み、小さく呟く事しか出来なかった。
