鈍色の浸蝕者 第四話
第四話
私は狂っている。
あまりにも絵に描いたような幸せに、私の頭のねじは緩み、見える筈のないものが視界を闊歩し始めた。併せて聞こえる不快なノイズ音と、断片的な誰かの声。それらも私の鼓膜に纏わり付き、幻覚と共にこだまする。そして重なる頭痛や吐き気。それは目を瞑っただけでは改善されず、幻覚と幻聴に合わせて、しつこく私に付きまとった。更に右耳の後ろと、右足のくるぶしの下に顕在する、硬い感触とわずかなその隆起。触れる度に私は背筋を凍らせる。
宗佑との旅行以降もそれはら容赦なく私を襲い、執拗に苦しめている。
「ご心配には及びません。おおよそ統合失調症の症状です。篠田さんはきっと生真面目でお優しい方なんだと思います。ご自身で気付かないうちに、いろんな所に気を遣われてらっしゃるのでなないでしょうか? お薬を出しておきますので、それをしっかり飲んでいただければ、改善していくと思います」
意を決して扉を叩いた心療内科。落ち込む私を前に、そこの医師は不安を払拭しようと優しい言葉を並べ立てた。だけど、その言葉一つ一つがまるで準備されていたかのように白々しく、薄っぺらく聞こえて仕方が無かった。更には診察室を出る際に一瞬見えた、私の中身を射抜くような鋭い医師の視線。私はそれにさえ畏怖を覚えた。
そして渡されたよく分からない大量の薬。朝・昼・晩と、就寝前にそれぞれ十錠以上の服用が必要。『普通』に生きる為にはそこまでしなければならないのか? 或いはこれは幸せの代償か?
私は幸せに囲まれながらも、その薬の前に独り孤独に苛まれた。
あの旅行先での朝、悪夢から目を開けた瞬間、私は更なる恐怖に堕ちた。
そう、その時の宗佑の顔は半分鈍色のまま。蠢く黒い点が私の視線に気付いたかのように活発に動き出すと、やがてそれが肌の色を模し、いつもの彼の姿へと戻ったのだ。それに至るまでの宗佑の顔はまるで崩れた福笑いのように、目、鼻、口が顔の輪郭の中で無造作に泳ぎ、乱舞していた。それはまさに違和感、否、不快感、否、恐怖そのものだった。そして肩に乗せられた冷たい鈍色の手も、いつの間にかいつもの宗佑の温かい手へと変わっていた。
そこからの流れで目覚めとなり、私は腑に落ちないまま現在に至っている。今まで夢に見た現象が地続きで現実と繋がり、その延長線上に今、私は居る。それも夢だと言えばそれまでだけど、夢だと受け流すには、それはあまりにも鮮明で鮮烈過ぎた。
勿論、それ以降の宗佑はいつもの優しい宗佑で、おかしいところなど無かった。ましてや怯える私を心配して、予定より早く旅行を切り上げてくれたほど。その後も私の事を気遣って、自宅で眠りにつくまで一緒に居てくれた。そんな彼に恐怖を覚えた自分が、私は恥ずかしくなった。
だから……だからこそ、私がおかしい。
だから、私は世界に迎合する。私を幸せで包んでくれたこの世界は、きっと私を見捨てない。この不穏で不可解な状況からも、きっと私を救い出してくれる筈。
私は手元に並べられた大量の錠剤を眺め、溜息をつきつつも、それを信じる事にした。
「芳野さん、今日、良かったらこないだの店、行きませんか?」
私は昼休み後に、芳野さんに声を掛けてみた。
しかし……
「今日は忙しいので、遠慮しておきます」
彼女は素っ気なく返すだけ。
「え……あ、はい……」
いつもなら前のめりでノッてくるはずの芳野さんなのに、今日に限っては薄めのリアクション。私は肩透かしを喰らい、それ以降の言葉を失った。
「課長、次回のプレゼンですが、添付資料の確認をお願いします。必要であれば動画も添付しましょうか?」
私は八割ほど完成した、大手の広告案件のチェックを課長に依頼する。
「これで構わん。ファイルをアップしてくれ」
課長は私のパソコン画面を一瞥しただけで決裁を下す。いつもであればつぶさに目を通すのに、まるで興味も無いかのように課長は目を離した。
「え? いいんですか?」
「ああ」
「動画はどうされますか?」
「いらん……」
課長は無感情にそう言ってデスクに戻り、自分のパソコンに視線を落とした。
そして淡々と響く、キーボードを叩く音。課長を始め、芳野さんや他のスタッフも均一のリズムで、黙々とそれを奏でている。ふと、他のスタッフに目をやると、みな無表情にパソコンを前に、同じ動作を繰り返している。
「え?」
私は目を疑った。
そのパソコンは電源が入っておらず、画面は真っ暗のまま。私は慌てて芳野さんのパソコンも覗き込んだ。
「……」
芳野さんも同じだった。そのパソコンは真っ暗なままで、芳野さんはそれに向かって虚ろにキーボードを叩き続けていた。
その異様な光景に私は息を飲んだ。そして私はそれを見て見ぬ振りをして、自分のデスクに戻った。
『どういうこと?』
私は動悸を抑えられず、息が上がり始めた。手のひらに吹きだす手汗と、背筋を伝う冷や汗。これもおかしい私が『私』に見せている幻覚なのか? そう! 幻覚だ! 今の私はきっと、おかしい……
「ちょっと、席を外します……」
私は囁くように席を立って、オフィスを後にした。その際、誰かの視線を背後に感じたが、私は敢えてそれに振り返らなかった。
「はあ……なんで……こうなるんだろう?」
私は溜め息を零した。手のひらには心療内科で貰った薬。私はそれを見詰めて、もう一度ため息をついた。
オフィスを出て、少し歩いた所にある公園のベンチに、私は腰を下ろしていた。幸か不幸か、外には誰も出歩いておらず、私は周囲を憚ることなく、その場に息と肩を落とした。
そして今一度、先程目にした光景を反芻する。
無感情に、皆一様に動いていないパソコンを前にして、キーボードを叩き続けていた。それはまさに異様な光景。みんな、肌の色はそのままだったけど、無機質な佇まいは鈍色のそれと同じ匂いがした。
そんな事なんてあり得ない……これもきっと、私の中に居るおかしい『私』が、私に見せている幻だ! きっとそう……
私に中にもう一人の私がいる……それはそれで耐え難い事実ではあるけれど、今の私にはそれが一番都合が良かった。
『やっぱり私がおかしいんだ!』
そう自分に言い聞かせると、私は手にしていた十数錠の錠剤を口に放り込んだ。そして飲み込む水もないままに、それらをしきりに口の中で噛み砕いた。
これさえ飲めば落ち着くはず! そう信じて私はそれらを飲み込もうとした。だけど噛み砕かれた錠剤達は、私の口の中でまるでヘドロを想起させる、泥臭ささと脂っぽさを醸し出し、それは異臭となって鼻腔から漏れて出た。
「う……おえっ!」
その異臭に私は吐き気を催した。それはさらに食道に流れ込み、過度な胃酸を誘発させる。
「うっ!」
その臭気に私はベンチから崩れ落ち、地面に突っ伏した。頬に擦れる砂や小石。それに構わず私は痙攣するかのように悶絶した。
「げほっ……ぐほっ……」
畳みかけるように押し寄せる吐き気に、私は咳き込んだ。息を吸えば気道に流れ込み、余計に私はむせ返る。
誰も居ない公園で私は『普通』を受け入れる為に、地面に這いつくばる。つい先日まで幸せに包まれていたにも関わらず、私はいつのまにかそこから弾き出されていた。吐き気と砂の臭いにまみれながら、私は目頭を熱く滲ませた。
「ここに居たんだ! 大丈夫?」
私の耳にすっと流れ来る、優しい誰かの声。その声は私を冷たい地面からそっと抱き起す。
そしていつものように温かい腕で私を包み込む。
「大丈夫だから……僕が付いてるから……」
その声は私を諭すように囁き、背中に回した手で私の頭をそっと撫でる。私はその腕の中で震えながらも、何度も頷いた。そしてその抱擁に私は身を委ねる。今の私にはそれしかすがるものが無かった。
そしてその晩、私は宗佑に胸の内の全てを、洗いざらい打ち明けた。
鈍色に変色する人の姿、そこに蠢く無数の黒い点、そして度重なる頭痛と吐き気。そして耳にこだまする甲高いノイズ音と、断片的な誰かの話し声、それら全てを私はぶちまけた。
よもや気持ち悪がられて婚約を破棄されるかもしれない、その不安は拭えなかったが、これからの未来を一緒に過ごすのであれば、尚更伝えるべきだと思い、私は告白に踏み切った。
「そうか……だけどきっとそれは一過性で、この時期特有な症状だと思うよ。早妃は気ぃ使いだから、知らないうちにストレスが溜まってるんじゃない? でも安心して。一緒に乗り越えていこ……」
「ありがとう……」
宗佑はいつも私が望む言葉を投げ掛けてくれる。今回にしても、最初は怪訝な顔をしたけど、私の真剣な表情に合わせて、彼は言葉を選んでくれた。その優しさに、私は肩の荷が少しだけ下りた気がした。
そして宗佑の勧めもあって、私はしっかりと夕食を摂ってから、病院からの薬を服用した。
今度は噛まずに水で流し込んで、体内に受け入れる。それから眠りに就くまでさほど時間は掛からなかった。睡眠導入剤も処方されていたし、何より宗佑の存在が私を安心させ、心地良いまどろみへと誘っていった。
しかし……
「うぐっ! うおえ……」
私は沸き起こる激しい吐き気に目を覚ました。
それはまるで胃の中に拳を突っ込まれて、ぐるぐるとかき回されているような、粗暴で乱雑、そして突発性を伴って襲ってきた。そして逆流する胃の中の滞留物。堰を切って溢れ出ようとするそれらに、私はトイレへと駆けこんだ。
「うおえ……ぐ、うおぇ……」
止めどなく沸き起こる吐き気に、繰り返す嘔吐。せっかく宗佑が作ってくれた晩御飯も台無し。胃の中の物全てを吐き出させるかのように、突っ込まれた拳は、その汚れた指でその全てを掻き出そうとする。そしてその汚い指が触れる度に吐き気が誘発され、その連鎖は永遠に続くかと思われた。
「はあはあ……」
胃の中のもの全てをぶちまけ、もう出る物はなくなった。頻発する吐き気に、熱くて酸っぱい黄色い胃液が、食道と口内、そして私の心を酸化させる。
やはり薬が身体に合わないのか? 薬を変えてもらおう……こんなに苦しいのはもうたくさんだ……
私の頭の中はその事だけが、ずっと巡り巡っていた。
それから数分? 数十分? 便座と顔が同化したかと思えるほどのタイミングで、吐き気はようやく息を潜め始めた。それに伴い、突出してくる頭痛。胃の中の拳は、今度は頭に移動し、こめかみから頭頂、後頭部にかけて、頭の中から激しい殴打を繰り返す。
「痛っ……」
私はその痛みに眉をひそめ、頭を抱え込んだ。これも薬の副作用か? いつも以上にその痛みは熾烈を極めた。
私はトイレの水を流すと、重く痛む頭を抱えながら、ベッドに戻った。その最中も狭窄する視野。その四方は黒く滲み、徐々に侵食されていくのを私は感じ取った。
その侵食が完了する前に、私は目を瞑り、ベッドへと倒れ込む。
もう何も考えたくない。目を瞑り、睡眠という一番の特効薬で、この頭痛を受け流す……
頭の中はそれだけだった。
どれくらい眠っていたのだろうか? 私は目を開ける。
今何時? えっと……今日はいつだっけ?
私は記憶を遡る。
昨日は吐き気を催し、相次ぐ頭痛にそのまま眠りに落ちた……
「ちょっと待って!」
私は慌ててスマートフォンを手に取って、今の時間を確認した。
「やば!」
そこに記されていた時間は十五時半……
しかも今日は木曜日。遅刻も遅刻、半端ない大遅刻だ……
私は言い訳を頭に浮かべながら、会社へ電話をしようとスマートフォンのロックを解除する。と共に、宗佑から届いていたメッセージに気が付いた。
『おはよう! 体調は落ち着いた? 朝も顔色悪そうだったから、会社には休むって伝えました。だから今日は安心して休んでていいよ。でも、あんまりしんどかったら連絡ください。取り敢えず今日も帰りに寄ってみるね。くれぐれも無理しないように』
宗佑の言葉に、私の頬は綻んだ。彼の優しさに胸の内がほのかに温かくなる。
「ありがとう」
聞こえないけど、私は声に出して宗佑に気持ちを伝える。
『睡眠』は生きるもの全てに共通する癒しであり、調節機能だ。今日ほどそれを痛感したことはない。
私は目を覚まし、深呼吸をした後、頭や胃に意識を向ける。昨晩あれだけ苦しんでいたにも関わらず、吐き気と頭痛はもう、過去の記憶として風化しつつあった。逆におよそ半日何も口にしていないためか、お腹が空いている事のほうが私をざわつかせた。食欲があるという事は、回復に向かっている証拠。その空腹感に少しだけ私は安堵する。
「なんか冷蔵庫にあったかな?」
私はゆっくりとベッドから立ち上がり、冷蔵庫のドアに手を掛ける。
「あちゃ……なんもないわ……」
冷蔵庫の中には水しか入っておらず、ほぼ空っぽ。昨晩、宗佑が料理を振る舞ってく売れた時に、食材全部使ってしまったのか? それ以前にこの冷蔵庫に何が入っていたのかも、正直覚えていなかった。
「コンビニに何か買いに行くか……」
私はボサボサの頭を隠すようにキャップを目深に被り、すっぴんを誤魔化す為にマスクを装着する。
シャワーも浴びたかったけど、食欲がそれを上回っていた。少しだけお腹に食べ物を入れて、改めてゆっくりとシャワーを浴びよう。
そう決めると、私は部屋を後にした。
まるで数日ぶりと錯覚を思わせる程に、外の空気はいつもと違うように感じられた。十月の初旬というのに、気温は未だに温かく少し汗ばむほど。風も無く空気は緩やかに滞留し、生ぬるさと、ほんの少しすえた臭いを孕んだ湿り気を帯びていた。
私は今一度マスクを整えると、コンビニに向かう交差点に足を踏み入れた。
その瞬間だった!
横断歩道に足を踏み入れようとしたその刹那、私の目の前を一台の車が猛スピードで突き抜けていった。
「きゃあ!」
咄嗟に私は後ろに倒れ込んだ。後一歩でも前に出ていたら、確実に私はその車に跳ね飛ばされていただろう。急な出来事に私は息が上がり、足がガクガクに震えだした。
深呼吸をして、今一度立ち上がる。そして目の前の歩行者用と、左側の車道側の信号機を仰ぎ見る。
間違いなく歩行者側が青で、車道側が赤。それは紛れもない事実。私は少し恨めしい気持ちで、私を轢きそうになった車を目で追った。その車は真っ黒のSUV車。どこかで見た事があるような……その武骨で冷徹な鉄の塊に、私は見覚えがあった。そう、この車は以前もこの交差点で私の前を通り過ぎた車。そして洲崎へ旅行した際に夢に出てきた、あの黒い車……。
それを思い出し、私の胸の鼓動はさらに激しさを増す。そしてまた目の前を突き抜ける、黒い車の群れ。それらは激しい駆動音を撒き散らし、威嚇するかのように、顕著に威圧感を振り撒いていた。そして私は目の前の光景に息が詰まらせた。外を走る車全てが、その真っ黒な車ばかり。その威圧感と突発的な雰囲気は、いつ私に突っ込んできてもおかしくない危険性を孕んでいた。
そしてまた、私は目の前の光景に驚愕、否、恐怖する。それは今現在の私を否定し、信じようとしていた現実を揺るがす。そして本能的に『危険』を私に警告するのだった……
つづく
