『白雪姫と七人の継母』第十二話「ストーカーと被害者」
登校中にまた拉致されるのではと警戒していたが、至って平穏無事に学校に到着。授業もつつがなく終えて迎えた放課後、ヴァイオリンを背負って千歳は第一音楽室に向かった。
黎陵高校の管弦楽部はおよそ七十人前後からなる大人数の部だった。部員不足に陥ったことはない。音楽科で器楽を専攻する者は半ば強制的に管弦楽部に入部するからだ。
ヴァイオリン奏者は第一と第二合わせて十八人。内、ヴァイオリン専攻生は千歳含めてわずか七人。他は副科でヴァイオリンを選んだ者ーー高校に入ってからヴァイオリンを習い始めた連中だ。
だから、三年で数少ないヴァイオリン専攻生の千歳が第一ヴァイオリンのトップ、コンサート・マスターになるのは、必然と言えば必然だった。
防音処理の施された重厚な扉を開けると、中の冷気が肌を撫ぜた。音楽室や練習室は無論、楽器庫も冷暖房が完備されている。音楽科生徒のためではなく、楽器に配慮した結果なのだという。楽器の状態は湿気と温度に大きく左右される。
音楽室には譜面台と椅子が所狭しと並べられていた。指揮台を起点に扇状に広がる椅子と譜面台は、毎回一年生が準備しているものだ。今日練習する『メサイア』序曲の楽譜も既に置かれている。
HRが終わって早々に来たせいか、まだ人はまばらだった。不運にも千歳と目が合った後輩達が一様に背筋を伸ばして「お疲れ様です!」と声を張る。体育会系のノリだ。暑苦しい。
「うっせーよ」
悪態を吐きつつ「おつかれ」と返す。指揮台の隣、コンサート・マスターの席に腰を下ろして、ケースからヴァイオリンを取り出した。
弓に松脂を塗っていると、隣の席に部長の大神響が座った。
「今日は全体合わせ、パート練、その後に体育館でリハ練だ」
挨拶もなく事務連絡。愛想のなさはいつものことなので気にとめなかった。入学した時からこういう男だった。
「バスケ部が練習しているから体育館への移動と設営は速やかに行うように」
「へーい」
「他校の見学者もいるから粗相のないように」
「ほーい」
「パート練でしごき過ぎるなよ」
千歳は黙って松脂をケースに戻した。できない約束はしない主義だ。
「センサイ、聞いているのか」
「聞いてるよー」
だから返答しなかった。千歳の意図を正確に汲み取った響は咎めるように目をすがめた。
「見学者の前で後輩を怒鳴り散らすような真似だけはしてくれるな。ウチの管弦楽部が、ひいては黎陵高校のイメージが損なわれる」
「イメージ改善してえなら、この体育会系気質どーにかすればァ?」
響は口をつぐんだ。
他の楽器ならいざ知らず、ヴァイオリンは全員男子生徒だ。おまけに音楽科ーー我が道を突き進む連中がたむろしている。そんな協調という言葉をどこかに置き忘れた連中をまとめあげて一つの曲を奏でるには、統率力は必要不可欠だ。必然的に上下関係の厳しい体育会系になってしまう。
我ながら意地の悪いことを言った。深刻な顔で黙り込んだ響に、千歳はわずかな罪悪感を抱いた。
「……努力はする」
それでも、怒鳴りつけないと約束はできなかった。自分の性格は自分が一番よく知っている。
ーーのだが、まさか見学者が現れるなり、自分が吠えることになろうとは千歳も思わなかった。
「なんでテメエがここにいんだよ!」
顧問の教師に連れてやってきたのは、伊藤雪見だった。胸元の赤いリボンが特徴の栄光女子学院の制服姿。大きなスケッチブックを抱えた雪見の肩が小さく跳ねた。
「あ、あの、見学を……」
「音楽家志望でもねえのに?」
雪見は返答に詰まった。魂胆見え見え。呆れたオジョウサマだ。
「知り合いか?」
千歳と雪見の顔を交互に見て響が訊ねる。知り合いと言えば、たしかにお互いのことは知っている。が、そんな生やさしい関係ではなかった。
「ストーカーと被害者」
端的に説明する。途端、雪見は驚愕と疑惑に満ちた眼差しを千歳に向けた。
「え、まさか、秋本さんが……っ」
「アホかストーカーはてめえだろ! 拉致拘束監禁の上、学校にまで押しかけてきやがって。今度はどの母親のお膳立てだ」
「やめんか、秋本」
顧問教師の神崎凛子が手にしていた総譜で頭を叩く。
「栄光女子学院の教師からの依頼だ。絵を描くためにスケッチだかデッサンだかよくわからんが、参考にしたいそうだ。練習の邪魔はしないというし、見られたところで減るようなものでもない」
付随するように雪見は何度も頷いた。右手にスケッチブック、左手に鉛筆と準備は万端だ。
「俺のやる気が削がれんだけど」
「もともと大してないだろ」
凛子は取り合わず、雪見を椅子に座らせた。楽団の真正面。つまりはファースト・ヴァイオリンの目の前だ。よりにもよって、一番千歳に近い場所。
抗議する前にさっさと凛子は指揮台に登ってしまった。総譜を広げて「やるぞ」と指揮者に言われてしまえば部員は従う他ない。
あきらめて千歳はヴァイオリンを構えた。オーボエの音に合わせて調律。オーケストラ全体の音が合わさる頃には、意識は目の前の楽譜と、指揮者に向けられていた。
「見学者がいようと私の指導方針は変わらない。無様な姿を晒したくなければ、必死についてくることだ」
なんとも心強い激励と共に凛子は指揮棒を振り上げた。とても二児の母とは思えない豪胆さ。体育会系気質の原因は顧問にもあるのだろうと千歳は思った。
ゲオルク=フリードリヒ=ヘンデル作曲の『メサイア』は三部構成、合計五十二曲のオラトリオ〈聖譚曲〉だ。演奏時間も相応で約二時間半という、クラシック曲の中でも長い大曲だった。わずか一ヶ月程度でヘンデルはこの大曲を完成させたのだというから驚きだ。
当然ながら、たかが音楽科高校生の寄せ集めオーケストラが全てを演奏することはできない。個々の技術はともかくとして練習量が足りなさ過ぎる。冬の定期演奏会にやってくる客もそれほどクラシックに精通しているわけでもないので、二時間半もの演奏には耐えられないだろう。結果として『序曲』やハレルヤコーラスでお馴染みの第二部最終曲『Hallelujah』など主要な曲を抜粋して演奏することになったのだ。
賢明な判断だし、千歳としても異論はない。だらだらと全曲やっても得られるのは演奏者本人の達成感だけだ。省略結構。ただ、一つだけ問題が浮上する。
(なまじ有名な分、聴衆の耳はシビアになんだよなぁ)
弦楽器の旋律が絡み合う『序曲』は一つでも弦楽パートが乱れたら総崩れになるし、その上『Hallelujah』は合唱部との合同演奏だ。文化祭の演目もこなしつつあと四ヶ月で聴くに耐えうるまで完成度を高めなければならない。時間はいくらあっても足りなかった。
そう、自分は忙しいのだ。手フェチのオジョウサマとそのモンスターマザーに構っている暇はない。嵐に見舞われたのだと思って、過ぎ去るのをひたすら待てばいい。わかっている。わかっているのだが。
「いい加減にしろ」
演奏途中だろうが何のその、千歳はヴァイオリンを置いて、立ち上がる。椅子から身を乗り出していた雪見の首根っこを掴んだ。
「は?」
「出てけ」
コンサートマスターの突然の離脱に、ちょうど再現部ーー盛り上がる部分に差し掛かっていた演奏が止まる。
「秋本!」
凛子の叱責も無視。千歳は雪見を引きずって音楽室を出て行った。音楽科棟と普通科棟をつなぐ渡り廊下に差し掛かったところで放り捨てる。
「何なんだよさっきからジロジロと!」
「い、いくつかスケッチを」
「俺の手ばっかりな。近ェんだよ。弾いてる真っ最中に顔寄せんな。あやうく弓で顔面殴るところだったわ」
「ご心配には及びません。ちゃんと避けますから」
「邪魔だっつってんの!」
一喝すると雪見は小さく悲鳴を上げた。明らかに怯えた表情をされ、千歳の勢いも削がれる。
「……すみません」
雪見はうなだれた。
「練習を見学させていただくだけなら秋本さんのお時間を割かずに済むので、ご迷惑にもならないしお金もかからないと」
「金持ちのくせにセコイな、おまえ」
ますます雪見は萎縮し「今月のお小遣いを使い果たしてしまいまして」と力無く答えた。
母親にねだるなり借りるなりすればいいのに。あれだけ過保護な母親達なら五千円どころか五万円だろうがあっさり渡しそうだ。頭に浮かんだ考えをしかし、口にすることは憚れた。オジョウサマにはオジョウサマなりの事情があるのかもしれない。
千歳はようやく、相手が二学年下の女子高生であることを思い出した。ずいぶんと特殊な家庭環境であることを除けば、まだ高校生になったばかりなのだ。大人気ない自分を少し反省したーーほんの少しだけだが。
「とにかく俺はモデルになんねェから、あきらめて帰れ」
「それはできません」
先ほどまでの殊勝な態度は何処へやら。雪見はキッパリと断った。
「おめー、話聞いてた?」
「はい。モデルになりたくないと」
「『なんねェ』つったんだよ。決定事項。変更なし。試合終了。おめーは断られたんだよ。さっさと帰って猫の肉球でも描いてろ」
雪見は怪訝そうに眉を寄せた。
「秋本さんの手と猫の手はかなり違いますよ?」
「当たり前だろーが! 一緒にすんな!」
千歳は疲労感に目眩がした。意思疎通がなっていない。金持ちのことを別世界の住人と言うがこのオジョウサマはまさにそれだ。同じ言語を解する人種とは思えなかった。
「秋本さん、どうしたら絵を描かせていただけますか?」
こちらの疲労などまるで頓着せず、雪見は訊ねてきた。
「時給千円はなんとかご用意します……後払いになりますけど」
「金の問題じゃねェ。嫌なんだよ。メンドクセェし」
「そこをなんとか」
「ヤダ」
突っぱねる千歳。引き下がらない雪見。拮抗状態の二人の傍らを体操着姿の女子生徒達が通り過ぎる。ダンス部だ。体育館での予行練習が終わったらしい。
「お願いです、出来ることなら何でもしますから」
千歳は胡乱な眼差しを雪見に向けた。
「なんでも、ねぇ……」
おいそれと口にしていい言葉ではない。深く考えもせずにそんなことを言う世間知らずのオジョウサマに、千歳は苛立った。
音楽室に戻らなければ、合奏の練習時間が終わってしまう。その後は部屋を移動してのパート練習。さらに体育館でのステージ練習も予定している。
人の往来の多い渡り廊下で、オジョウサマの嗜みに付き合っている場合ではないのだ。ステージ設営だって響か自分が音頭を取らなければ進まないだろうしーー
「お、そうだ。いいこと思いついた」
拉致拘束監禁、その上学校にまで押しかけて自分を煩わせたのだ。少しくらいはこのオジョウサマに痛い目を見てもらわないと千歳の気が済まない。
「俺の絵がどーしても描きたいんだよな?」
「はい。ぜひ」
何も知らない雪見は目を輝かせた。思惑通り。千歳は底意地の悪い笑みを浮かべた。
「なら、おめーの根性、見せてもらおうじゃねェの」
